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〈書評〉安冨歩『生きるための経済学』

 このnoteは普通の人があまり読まないような本を取り上げるようにしているので、この著者の著者を紹介するのは気が引ける。ただ、読んでいく内に、色々な気付きがあったので、取り上げてることにした。

 私が著者の安冨歩氏の名前を初めて知ったのは、昨年の参院選でれいわ新選組の候補者の一人として記者会見に臨んだ姿である。
 東大教授にして経済学者と云う肩書きを持ちながら、女装と云う出で立ちでの登場。会見で、「高度経済成長とは、要するに引っ越しのこと」と云う意味の講義を行う。

 「何だ、この人は」。と云うのが、私が最初に抱いた所感である。

 れいわの候補者は、安冨氏以外にも刺激的な人物を立てた選挙戦を行っていたのは周知の事実だ。それがある人を熱狂させ、またある人には強い不快感を与えていた。何だか訳がわからないエネルギーを発散していたことは確かだった。ちなみに、私の周囲の人間でれいわに対して抱いた感情で目立ったのは「不快感」の方だった。
 当時の私は、れいわのただならぬエネルギーにただただ圧倒されるだけだった。
 そして、今年に入り、YouTubeのチャンネル・一月万冊で経営者の清水有高氏との対談動画で、安冨氏の存在を二度目に知った。動画をほぼ毎日何本も投稿してしている清水氏の能力には驚愕するが、彼と対等に渡り合い、ほぼ毎日出演している安冨氏の能力にも驚かされた。
 
 本書の内容になかなか入らないが、私の中で、「安冨歩」と云う人間は書斎の人間であるよりも極めて活動的な人物と云う印象が強いと云うことを書きたかったのだ。
 安冨歩と云う人間の主張を知りたく、本書を手に取り、読むことにした。だが少しだけ、勇気が入った。
 それは、安冨氏の著作は難解な内容だと云われているのと、私自身、経済学の本はあまり手に取ったことがなかったからだ。一応、少しだけ読んだことはあるが、何故か頭に入ってこなかった。
 私にとって「経済学」とは、大学入試の現代社会の勉強で一夜漬けをしたのと、大学時代に教養科目で経済学を採るも講師の声が小さいせいで授業中はほとんど寝ていたのと、大学の図書館でアダム・スミスの『国富論』を借りたが「羊の毛をどうたらこうたらすると、生産性が上がる」のような話しについていけずに読むのを断念した記憶しかない。
 だから、「経済学」と銘打っている本書の内容を理解できるのか、若干不安であった。
 
 しかし、本書を読了して私が感じた不安は杞憂であることがわかった。もっとも、読んでいてよくわからない箇所は多かった。
 例えば、第一章で物理法則を引用しているのは、「そうなのかぁ」としか思えなかった。なにぶん、文系で物理について全く頭に入ってこなかったからである。

 本書の前半で、安冨氏は「経済学」の前提に疑義を示している。そもそも「経済学」と云う学問自体がキリスト教文化圏の産物ではないかと指摘している。
 具体的には、経済学が前提にしている「自由」や「選択」と云う概念そのものがキリスト教文化由来である、と述べている。
 この説明は、かなり懐かしいものが感じられた。私は某市立大学でキリスト教の説教を毎日、聴いていたからだ。人間の「自由」とは、神から与えられたものであり、人生において「正しい選択」をせねばならないと内容だった。「正しい選択」とは、神の視点からで、人間は預かり知らないものだ。
 つまり、人間には計り知れない「神」と云う存在を前提にした上で、初めて「自由」や「選択」と云う言葉の意味がわかると云うことだ。
 そして、そう云う背景があって、経済学は成立し、かなり問題点を含んでいると批判している。
 
 安冨氏は、本書で既存の経済学の前提を批判した上で、新しい経済理論を提示するために、心理学者のエリック・フロム、哲学者のマイケル・ポラニー、果ては孔子と云った経済とは一見関係なさそうな人々の議論を参考にしながら、独自の経済理論を打ち立てようとしている。
 正直云うと、この箇所の理解はあまり自信がない。本書では、お金や株価などの数字や折れ線グラフは全く出てこない。むしろ、人間のコミュニケーションのあり方や内面の感情について議論している。
 
 私が本書を読んだ上での一番の気付きは、本書が単なる経済学の理論を提示しただけではなく、著者である安冨氏の「告白」の書でもあると云うことだ。本書のタイトルが「生きるため」となっているのは、安冨氏自身が強烈な生きづらさを抱えてきた当事者だったからだ。

 激しい受験勉強など、誰もやりたくはない。私だってやりたくはなかった。ところが、呪縛にかけられて自我を失った子どもは、もし受験勉強をしないとして、自分がいったい何をやりたいのかが、まったくわからない。実際、私自身がそうであった。(略)そういう状態の私に対して、私の両親は「よい学校を出れば、将来、何をやりたいと思っても、何でもできるのだ」と説得した。つまり、選択の自由が広がる、というわけである。(略)
 なるほど、エリート大学を卒業すれば、立派な会社にエリートとして入社できるので、エリート大学に入らなければ得られなかった選択権が増えるように見える。しかし冷静に考えれば、その肩書きは同時に足枷になっている。というのも、そういう肩書きを得てしまうと、その肩書きが通用しないところに踏み込むのが、怖くなるのである。(191-192頁)
 私はかつて、配偶者からモラル・ハラスメントを受け、鉛色の空の下で十二年間暮らした。私は、研究依存症に陥ることで、そこから生じる不安を忘れ、さらにその依存症の成果によって、学者としての地位を確保し、それによって職場と学界とにおける自分の立場を強化した。(略)
 家庭でハラスメントを受けているだけで、当時の私はいつも自殺を考えており、「自殺、自殺」とよく独り言をつぶやいていた。どうしても我慢ができなければその手があると思うことで、かろうじて我慢していたのである。(215-216頁)
「子どものためを思って」という親の立場は、合理化にすぎない。無意識の作動は、自分が子供のときに与えられなかった愛を、けっして自分の子どもに与えないようにし、そのかわりに、自分が子供のときに受けたひどい仕打ちを、愛情の表現だと称して与えている。
 読者はすでにお気づきだと思うが、これこそは私が子供のときに受けたことであり、そして、私が二人の子どもにしたことである。自分自身が配偶者からハラスメントを受けていることに気付き、そこから抜け出すまで、私は、自分の親にされたのと同じことを、子供たちに仕掛けていた。私は卑怯にも、配偶者によるハラスメントの共犯者になることで、自分の苦しみを軽減していた。これは、私の人生の最大の汚点である。(218頁)

 去年の参院選で、安富氏が「子供を守れ」と訴えていたのは、私には奇異に映っていた。しかし、本書を読むと、その理由が了解できた。
 私は、安富氏は、勇気ある人物だと思った。普通、年齢を重ね、地位や名誉がある人間は、前述のような赤裸々な告白は行わない。大体は、自分の苦しみは脇に置いて平静を装うものだ。まして、自分の本業である学術書において。

 私は、本書を独創的な知の書であるよりも勇気ある告白の書として読んだ。本書は、一人の人間の魂の告白の記録であり、「生きるため」にもがく姿をまざまざと描き出している。
 本書では、難解な用語が多数使用されているが、自然と頁を読むスピードは止まらなかった。文章にどこか「疾走感」があったからだ。それは現実の安富氏をみたときに感じた、「この人は何だろう」と云う感覚に似ていた。
 安富氏は、大学教授や経済学者と云う肩書きの前に、一人の人間として誠実に、現実と自己とに向き合いながら、言葉を紡いでいた。その姿勢が、アカデミズムに限らず、多くの人を引きつけているのではないかと思った。
 そして、本書はそんな安富氏の姿を伝える一冊になっているのではないかと思った。

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