好きなことをする

「好きなこと」を抑圧されて生きてきました。
そういう風に自覚できるようになったのは親元を離れて10年以上経ってから、三十代に入ってからでした。
それより前は、好きなことをやってると思ってたんですが、よくよく考えたら、母親が良しとすることしか出来てなかった。

私は母親にものすごく忖度するように育てられたので、母親が嫌だというサインを出す(嘲笑するとか、口汚く否定するとか)ものは自分も好きではないと思うようにして、避けて生きてきました。
華やかな色柄の可愛らしい服を着ること、化粧をしたり髪を整えたりして身なりに気を使うこと、手芸や工作をすること、旅行をすることなどは、子供の頃ちょっと興味があるんだけどどうかなー……?と母親に意向を伺うとどれもネガティブな反応だったので、引っ込めたものです。

服や化粧についてはそもそもお金がかかるし持っていても身につけられない、見つかると捨てられてしまうのでずっと縁のないものでした。

手芸や工作については、なにがしかを作って母に見せると「出来が悪い」「センスが悪い」「材料を無駄にしている」「お前は不器用だからこういうものに向いてない」といって笑うので、色々なものに手を出しましたがどれも一回きりで封印してそれ以降何もせずでした。

旅行はそもそも勝手に企画されて勝手に連れていかれる家族旅行以外は経験がありませんでした。
母は車で遠出するのが好きなので、旅行といえば車でどこへでも行くのですが、私は車酔いがひどく短時間でもすぐ気持ち悪くなってしまうので旅行の時は酔い止めを飲んですぐ寝ます。寝ていても気持ち悪くてサービスエリアで停まるとトイレに駆け込んで吐くのが常でした。宿泊先にたどり着いても初日は気持ち悪くて大体寝ていて、翌日は大抵遊園地か水族館に行くことになるのですが、前日の車酔いで体力が削られていてよろよろと付いて行くだけというのが家族旅行でした。
家を出て一人で住むようになって、友人と電車を使って温泉旅行に行くようになりましたが、電車は酔わないし、観光はほとんどせず宿に着いたらお風呂に入って体を休めて、おいしいものを食べてたくさんおしゃべりをする。
外湯のあるところなら温泉街をそぞろ歩いて可愛い小物をみたりするのはとても楽しくて、旅行って辛くなくて楽しいものなんだなというのを家を出て初めて知りました。

服や化粧については大人になって必要に応じて自分で調達するようになって、趣味と実益を兼ねて自分の好きな物が手に入れられるようになってとても楽しくなりました。

ここ10年くらいは手芸や工作を色々やっています。
簡単な木材と紙を切り貼りしてドールハウスのようなものを作ってみたり、拾ってきた流木を磨いて整えて魔法の杖っぽいものにして飾ってみたり、ビーズ細工を作ったり、レース編みをしたり、ぬいぐるみを作ったり……
この10年のうちに祖母の末期に介護付きマンションの夜番として交代で泊まり込んだりして、それまであまり交流のなかった父方の従妹達と行き来することが多くなりました。
夜番といっても、介護の人がいなくなる18時〜翌8時までの間に祖母の容体が急変したときに緊急ボタンを押すための夜勤のようなもので、祖母の様子がわかるところで好きなことをしていれば良いという状態だったので、クロスステッチのキットや作りかけのレース編みのショールを持ち込んで作業に励んでいたのです。
祖母は細かい細工が好きで新聞紙ですごい量の連鶴を作ったり、くす玉を作って飾っていたりよくしていたとか、交代で来た従妹達と思い出話をする中で、私が小さい頃曽祖母に習って人形の着物を縫っていたとか、簡単な織り機を祖父が作って従姉妹全員で毛糸を織って遊んだけどみんな飽きてしまってマフラーに使えるくらいの長さまで織り上げたのは私一人だったとか、言われてもそんなことがあったかどうかはっきり思い出せないような『小さい頃から手芸とか工作が好きで祖母宅では裁縫好きの曽祖母の側でよく何かやってた』エピソードを色々聞かされて、今もレース編みのなんか大きいのを作ってて、昔から器用だったよねとか、思いもかけないことを言われてびっくりしたのです。
自分ではさっぱり記憶がなくて他の誰かと間違ってるんじゃないかと今もちょっと思ってるのですが、父方の従姉妹は私と妹を含めて5人で、妹ともう一人は両親の離婚の時期の問題で父方とは全く交流がなく、私以外の二人が私の話として喋っていたので、多分私のことなんだろうなぁ……
確かに、小さい頃持ってた人形に手作りの着物を着せてた記憶はあるんです。自分で作ったと言われてもさっぱり覚えてないですが。

全然記憶にないけど、布花かつまみ細工かなんかのちりめんのコサージュを作ったこともあって、安全ピンをつけてブローチにしたものを持って帰ると母が嫌な顔をするからと言って従妹にあげたことがあったそうです。

私は自分は不器用でちゃんとした物が作れないから裁縫とか編み物はやっても全然駄目だったというふうに覚えてたんですが、従姉達は手先が器用でいろんなものを作るのが好きな手芸好きの子として記憶していたようで、びっくりです。

不器用で上手に作れないけどあれこれ作るのが楽しくて最近色々やってるんだよ、とまだ元気だった頃の父に小さいあみぐるみをプレゼントしたら、父は『君は小さい頃から不器用ではなかった。母親が「自分好みの物以外は全部不出来」扱いする人なので、子供に対してそれでは駄目だと揉めたこともある。しばらく離れている間に何も作らなくなってしまったようで心配していたけど、また好きなことができるようになってくれて嬉しい』と言ってくれました。

最近手を出したいなと思っててまだ思いきれていないのが、着物です。
母は私花道とか茶道とかやっていた時期があって、和ダンスにいっぱい着物を持ってます。
私も正月とかに何度か着せられたことがあるんですが、母がお稽古の時に着ているような綺麗な友禅模様のじゃなくて、今思えば着付けの練習用の小紋とか銘仙だったんじゃないかと思われるくたびれてて可愛くない幾何学模様の着物ばっかりでした。

そもそも、母と私は似合う色も柄も全然違うのです。イエベブルベもタイプが違うし、体型も全然違うのです。
着物が着せたいなら安物でいいので私に似合うものを新調してくれと何度も言ったのに、良い物がたくさんあるのにそんなもったいないことはできないと、古びてて私には似合わないようなものばかり着せられました。

子供の頃着せられた着物で本当に好きと思ったのは、父方の祖父母が七五三のために買ってくれた青地に友禅模様の振袖くらいでした。
それは私だけじゃなくて、祖父母のの女孫全員が七五三に順繰りに着たので、私の物ではなかったんですが、私が一番年上だったので私に似合うものということで祖母が選んでくれたものです。
濃い青も好きだったし、ピンクがかった花柄もきれいだったし、筥迫も下駄もすごく可愛らしい色柄で、お宮参りから帰った後も脱ぐのを嫌がって晩ご飯の頃までずっと着ていた記憶があります。
母はあの青が好きじゃなかったらしくて、記念写真もアルバムにはいれず写真をまとめた空き缶の中にずっと入りっぱなしになっていました。着物だけじゃなくて祖母と曽祖母も一緒に写ってるのが嫌だったのかもしれません。

成人式の前後、家にたくさん振袖の販売やレンタルの広告が来ていたので、こういう柄が好きとかこういう帯結びが好きというような話題を少し振ったとき、母はとりあえず私の言うことを全否定でした。
その後だいぶして、浴衣の半幅帯に飾りで帯締めをつけたり変わり結びで枕を入れて帯揚げを巻いたりするような着方がちらほら出て、レースの半襟とか裾から見せるタイプのレースフリル付きの裾避けなんかが出回りだしていた頃も、母はそういうのを全否定でした。
浴衣に半襟つけてレースの足袋履いて着物っぽく着るのもダメだし、長尺の帯でだらり文庫みたいにするのも絶対ダメで、カジュアルな木綿の着物に斜めがけの鞄をかけるようなのも絶対ダメ、洋風ファブリックみたいな華やかな柄の染めの浴衣帯もダメという、ガチガチの着物警察だったのです。

私は母が全否定するのものを可愛いと思うことにすごい罪悪感を持ってしまうので、そういう格好がしてみたいなと思いつつ着物は着てきませんでした。
もうすっかり振袖という歳でもなくなってしまい、憧れの友禅模様の振袖とかちょっと華やかめの二尺振袖と袴に足元はブーツでみたいなのは永遠に憧れのままになってしまいそうですが、できるうちに少しくらいは着物が着てみたいなあと思っています。
今年の目標はそれかなあ。まずは浴衣から。



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