自己肯定感無し子さん、わたし

自己肯定感ってなんだ。自分を受け入れてあげること、ありのままの自分を愛してあげること。フツウの人間様は普通に出来ることらしい。私にとってそれは、道端に偶然落ちてたバナナの皮を踏んづけて滑ってダメージ喰らっちゃうことよりも難しい、と思う。

割と目立つことが好きだ。人前で歌ったり話したり、友達とわいわい盛り上がったり。でもそうしている間も私の心の奥底で、別のわたしが顔を出している。死にたい消えたい逃げ出したいって、いつも喘いでる。

この病は朝起きて鏡を見てからスタート、大体日付が変わるまでには発症する。場合によっては夢の中にいる時から発症したりもする。初期段階に考えるのは容姿についてであったり前日やらかした出来事についてであったり色々だが、最後は自分の存在価値の無さについてで終わる。ほぼ100%。慢性的に『ああ私生きてる価値ないなあ〜』ってやんわりと思い続ける時もあれば、『しにたいしにたいしにたい』と短時間に強く思い込み、でも気づけば凄く幸せな満たされた気持ちに移り変わっている時もある。みんなあると思って知り合いに軽く話した時、普通にひかれた。なんでだ。

思い返せば小学生時代、私は所謂『いじられっこ』だった。親には褒められていた容姿も小学生の段階で底辺であるということに気づかされ、そのあたりから私の考えは歪んだ。中学校時代、暗黒期。お受験に失敗し、謎のプライドがそこそこ高かったため周囲に馴染めず、歪んだ私は心にトゲを装備してなんとか毎日学校に通った。一番落ち着くのは学校で使う彫刻刀(切り出し刀)で丁度膝の下辺りの脹脛をさくっと切り刻むこと。死にたい思いはあったが実際死ぬのも怖かったし、何より周りにバレるのが怖くてそこを選んだ気がする。一度脹脛を切り終わってから、二階の自分の部屋のベランダの柵のところに座って下を見ながらわんわん泣きじゃくったことがある。今時の言葉を使うならあれは『エモ』だ。見渡す限りの田園風景、人がいない道路、自分ちの庭。それらは鮮明に覚えているけれど、今となっては泣いていた理由なんかは全部忘れてしまった。ハタチを過ぎた今も残っているのは、自分に対するゴミみたいな感情だけ。あと同じように、辛くなったら脹脛を切る癖。自分の悩みや弱みをひた隠しにすること。そこそこ明るくそこそこ楽しい人間に擬態すること。ほとんど常に死にたい気持ち。

題名の通り、私には自己肯定感がない。それはきっと今後も変わらない。あれは幼い時に培われるべき、ずっと大事に手放さないよう必死になって抱きしめておくべき感情だった。持っている時には気づかないけれど、見失った途端に自分を死に緩やかに近づけてしまうようなそんなもの。でも生きてる。目に見えないけれど何か大切そうな自分の感覚みたいなものを徐々に徐々にすり減らしながら、まだ生きてる。生きるって簡単そうに見えて犠牲が必要なものだったらしい。生きるために生命力を犠牲にするなんて、なんだか不思議。ある意味おもしろい気もしちゃう、今の気分で言えば。

自己肯定感どこかに売ってないかな、売ってたら買いたいよな、自分の命と引き換えにでも。





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