教団は変わるのか?

『しらんがな』


…と、みもふたもない まるりん です。

 先日、言い訳に上がったスペースで、調子にのってしゃべっていたら、「教団って変わるとおもいますか?(意訳)」
と、尋ねていただきまして、大きなことは解らんと言った気がします。

 よくよく考えてみますと、あんまり変わらないんじゃないかと思います。 

・親神様は、人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいとの思召から人間をお造り下された。
・親神様は、教祖を社にこの世をたすけに天下られた。

 他にも、沢山あると思いますが、上記の2点は、今後も揺るがないと思うんですね。
 途中はどうあれ、目指すところが変わらないなら、全体としてはあんまり変わらないんじゃないかと思います。
 例えば、今、思うようでない状態が、何かをきっかけに改善される(と思ってる)ことをもって『変わる』とするならば、少し判断のサイクルが小さいように感じます。
 また、大きな変化のリーダーシップを、勝手に見ず知らずの他人に求めることも、無責任極まりない態度なんじゃないかと思います。
 もしも、『改善』という変化を求めるならば、自分の周囲から、自分の理想の信仰の輪を拡げていくことが最短だと思います。それが、誰にとっての改善かは知りませんが。

『あんまり変わらないんじゃないか』
…どうやら、表題に対する、私の応えはこういうことのようです。
 てなことを踏まえまして、以下蛇足をすこし。

 で、言い訳参戦のスペースで興味深い話を聞きました。
 何でも、本部で開催された若者の集い(詳細不明)のなかで、これからは『働くようぼく』こそ…みたいな話があったとか。
 そこで、これまで道専務でやってきた方々が「もう、自分たちは必要とされないのか…」と大いに悔し泣きしたと。そんな話を聞きました。
…これね、ツッコミどころ満載なんですが、とりあえず、2つだけ。
『これからは…』。もし、主催側にこんな意識が少しでもあるなら、とても恥ずかしいことを言っている。と、自覚してもらいたいんです。
 働くようぼくに対するはたらきかけなんて、まともなおみちの人は、とっくにやってんだって。
 単立教会が、何らかの集まりに複数人で参加したら、一人以外はほとんど働くようぼくが参加してるってことでしょ?全員か道専務ってことだったら、それはそれですごいんだけど、それはまずないとても少ない。
 つまり、それを企画した人は、一生懸命やってる現場のことなんて、全くわかってないってことを、自分で白状しちゃったのよ。むしろ、これまで何にも解ってなくてごめんなさいって言ってから始めてもらいたい気持ちですね。
 そして、大いに悔し泣きした方々にもお伝えしたい、これまでのおみちの中で、そういう方々の働きはとても大きい、これからのおみちの中でも、やはり大きな役割を担うことは、間違いないと思う。けど、働くようぼくの方々に支えられているという事実も少なくないということを考えたいと、私はじぶんに言い聞かせている、何度も何度も。
 どちらが大切とか、そういうことじゃなくて、自信を持つことも、今一度足元を確認することも、両方必要だと思うということです。


 秋の大祭前夜、まとまらない話をつらつらと…

 


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