先日(6月19日)のスペースについて、要は「理の親」的ななにかですが

 私思うんですけど、『理の親』って言葉を考えた人って 天才 ですよね。天理教の人間関係を鮮やかに表現してもらったと思ってるんすよ。

 先日某スペースに於いて、勢いで「お育ていただいた人」とか「導いてくれた人」全てです!みたいなこと言っちゃいました。ええ、言い切りましたとも。なんでしたら、私はそういう思想の持ち主ですと思っていただいてかまわないです。

 ところで、この問題について多くの人が調べて下さった所によると、原典や教祖の口伝に【理の親】って言葉は出てこないらしいんですね。
 で、白い本まで検索範囲を広げると、真柱訓話集に一篇出てくるみたいです【理の親御さん】というフレーズらしいです。確か学生会関係の時のお話なんですが、翌年はそのフレーズが出てこないです。
 
 にもかかわらず、なぜそう思うのかという理由なんですけど、以前【誰かw】も書いていたんですが、教祖伝逸話篇に

天理教教祖伝 逸話篇143【子供可愛い】
 深谷源次郎は、一寸でも分からない事があると、直ぐ教祖にお伺いした。ある時、取次を通して伺うてもろうたところ、

「一年経ったら一年の理、二年経ったら二年の理、三年経てば親となる。親となれば、子供が可愛い。なんでもどうでも子供を可愛がってやってくれ。子供を憎むようではいかん。」

と、お諭し下された。
 源次郎は、このお言葉を頂いて、一層心から信者を大事にして通った。お祭日に信者がかえって来ると、すしを拵えたり餅を搗いたり、そのような事は何んでもない事であるが、真心を尽して、ボツボツと信者を育て上げたのである。

というお話があるんですね。
道友社に行けば普通に売ってる本です。誰でも手に入ります。

おふでさきの
『神、月日、をや』
を引いて、お道としては、をや(おや)を親神以外に使うことはまかりならん!的な風潮がありやなしや。けど、道友社に売ってる本に「3年経てば親となる」って書いてあるんですね。3年経てば【親神】になるわけではないでしょう・・・
 話題の「理の親子」的な関係ができあがると読むのが自然だと思うんですね。あっ、別に理はつけなくてもいいんですが…
 そしてやっぱり【誰かw】も書いてるんですが、これは親側の心の持ち方を教えて下さっている逸話だと思うんです。
 親として、子供を可愛がってくれって言われているわけです、憎んじゃいかんと言われているわけです。  
 もうひとつ、この親になるまでの三年間とは、なんなのかって話です。
 これは、おたすけの三年間だと思うんです。たすかってもらいたいと願う三年、共に通る三年、ご恩奉じの三年間。
 そうやって繋いでいただいた人と人とが、親と子供に例える関係になると思います。
 なので、教会の会長が理の親である場合もあるかもしれないし、両親が理の親である場合もあるし、友達がそういう場合もあるかも。要は、その時の立場はあまり問題じゃなくて、子供たる人にどれだけ真心を尽くしたかってことが重要なわけですよ。
 また、場合によっては複数の人にたすけられるかもしれない。この場合だって「自分が親である」とおしゃっるなら、それはどんな三年間があって、その後、子供をどれだけ大切にしているか?って話なだけですね。
 昨日今日、会長になった人が、親と呼ばれる為の三年間を持ち合わせているとは思いにくいですけどね。教会が大きければ大きい程、信者が多い程、部内が多い程、その傾向は強くなるのではないでしょうか。
 けど、立場的に親として振る舞わなければならないなら、誰に対してでも、大切な三年間的ななにかが必要なんじゃないかと思うし、それは、この際だから後付けだっていいんじゃないかと思います。


 以下、勢いで書いちゃうますが、子の側から見て、自分で親だと名乗ってるのに、相応の何かが欠けている人、あるいはなにもない人がエラソーに振る舞ってるところに、人は腹を立てるし、FOするし、心が切れていくんだろな。
 うちのばあさんだったら、そんな会長のことを「理がない」と表現するだろうと思います。

 私は、基本的に現行の天理教の体制を肯定的に考えています。
 だから、上級教会の会長をして理の親と呼ぶことに抵抗ないですよ。全くない。
 けど会長という立場と理の親という立場を重ねて言うなら、教祖の仰る三年間に相当する何かは当然持ち合わせているんだろうな?と、問いたいわけですよ。
 現実は難しいですよね。会長交代の直前まで、自分の気持ちの整理で精一杯、青年つとめのような伏せ込みがあるのかないのか、意味がないと言い切る人もちらほら。教会行事?そんなの優先するわけないじゃないですか、プライベート第一ですよ。いささか極端ですが、すぺて私が聞いてきた言葉です。そして会長になりました。
 【あり】だと思います。だって神様にお許しいただいたんですから。
 けど、その会長さんのなにをもって理の親と呼べばいいのでしょうか?別に呼ばなくてもいいかもしれません、そんな言葉を教祖も言ってないし、そんなもの背負い込みたくない会長やその奥さんも多いでしょうし。なりたくてなったわけじゃないカイチョーさん、前会長や周りの人からすれば、なっていただいたカイチョーさまも多いでしょうから。カイチョーさんの権利?ええ、多いに認められるべきでしょう。

 教祖は人をたすけよと仰った。そういう気持ちで通ると親となる。子供を可愛がってくれと仰る。
 それが私の振る舞いの定規です。

 さて、問題は理の子ですよね。
 少なくとも、私はそのことに言及したなにかを見たことがありませんので、ただたすけてもらってればいいんじゃないでしょうか。
 この場合の「たすけ」天理教的に使っています。どんどんたすかっていただき、人をたすける心を育てて実践し、気がついたら親になっていたというのが最高なんじゃないでしょうか。
 そうなってくると、自分の理の親の苦労も真心も一層深く解ってくる。感謝があふれるってもんじゃないかと思います。

3代真柱作詞の『親神様の守護』の3番の一節
前略・・・ 親が子となり 子が親となり ・・・後略

って、こう読むと腑に落ちたんですね。たすけていただいて、たすける心になっていく。ええ、理想です。

 理の親子という関係をシステムとして、あたかも主従のように関係を固定するのはいかがなものか?と思います。一方子供の側が子供のままでいようとすることで、はからずも関係を固定化してしまっている・・・ってこともあるんじゃないかと思います。

以上、『理の親』的なナニかについて、現在の私の脳みその中身を出力してみました。

・『理の親』という言葉を考えた人は天才である。
・教祖は『理の親』という言葉を残してない。
・教祖伝逸話篇においては、「親」を人に対して使っていると思われる。
・その逸話篇は、親たるものの心のありようについて書かれている。
・親となるには、3年の理が大切。
・親と立場には因果関係はなさそう。
・現状、満を持して会長になる人なんて少ないんだから、3年は後付けでもいいんじゃないか。
・子供はたすけてもらってればいいと思う。
・天理教のたすけは、人をたすける心になることが究極の目標なので、ずーっとたすけてもらってると、いつの間にか親になっちゃう。
・自分勝手に『理の親子』関係を固定化するところに、なんか問題がありそうな気がする。

と、今日現在のまとめと致します。
強烈なご指摘、叱咤激励よろしくお願いします。


・・・しれっと書き換えるかも知れませんけど・・・

 


 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?