続・まるりんは諭達をこう読む 改め こう味わう

 先日、本部の先生と話す機会がありまして、今更感満載で不躾な質問をしてみたんです。
「今回の年祭って、ワッショイな感じが少ないような気がするんですが、これってなんかあるんですか?」
って感じです。だいたいこれまでだと「そりゃ、お前が聞いてないだけ!」みたいな返事が多いんですが、今回はちょっと違いまして、
 先生は、
「一言で言えば、一人ひとり、それぞれの成人を各々が目指そうということです。例えば何かを打ち出したとして、一人ひとりの状態や環境、あるいは教会それぞれの様子によっては、簡単なことだったり、すごく大変だったりするわけです。つまり感じ方に大きな差があります。ですから、一つの事に集約するでなしに、この年祭はそれぞれに成人を目指そうというのが考え方の根底にあります。その点は最初からお伝えしているんです」
と仰いました。もちろん意訳です。
 最初からというと、諭達第四号の発布からということだと思うのですが、先生の仰ったことを意識して拝読し直しますと

『よふぼく一人ひとりが教祖の道具衆としての自覚を高め、仕切って成人の歩みを進めることが、教祖年祭を勤める意義である。』

と、教祖年祭の意義として記されていることに、改めて気付きます。おそらく【道具衆としての自覚を高め】がその意味するところかと思います。
 年祭と言えば【仕切って成人の歩み】の方にばかり気を取られ、一人ひとりの自覚という点をマスクしてしまっている読み方に気がつきました。

 さて、この話を聞いて、自分自身にその意味を落とし込むと、これまでよりちょっと大変だなと思うんです。
 それは、自分自身が自覚を高めること、それは周りの人に対してより心を配るということと同意だからで、かつ、それについて自発的な動きを伴う事が必要だと思うからです。つまり伝家の宝刀「上もあー言ってるし」的な物言いができないって事なワケです。
 更には、もともと私は上を向いてアラを探す見方が得意なのですが…、つまり何か具体的な事を言われたとして、「おまえ、言うことは言ってるけど、自分はどうなの?」みたいな感じでものを見てしまいがちなのですが、『自覚を高め』って事になると自分で考えなきゃならないって事だと思うんで、文句の対象も存在しません。
 まっ、逆手にとって「自覚ないんで…」と何もしないというのもありっちゃありなんですが、そういう事じゃないよなということもあえて確認したりするわけです。
 強いて言えば、アラを探す先は自分自身と言うことになります。

 【道具衆としての自覚を高め】た【仕切って成人の歩み】とは、自ら教祖の心にちかづいていくって事なんだと。そしてそれは文末の【教祖にご安心頂き、お喜び頂きたい。】につながる一番のツボってことになるわけです。


 とはいえ、やってる人はやってるわけで、実は、色々言ったところで、するべきことはそれほど変わるわけじゃないわけですよね。

 


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