おさづけって効かないですよね…って思ってた日のコト ~心通りについて~

「おさづけって効かないですよね」
 若き日のまるりんこと私が、お道の先輩に聞いてみました。
 で、先輩は、
「あのねまるりん、それはちょっと違うかな。おさづけというか、神様のおはたらきっていうのは必ずあるんだ。けど、それは必ずしも思い通りな形とは限らないし、まるりんに見えないだけかも知れないよ」
と、噛んで含めるように諭してくださいました。

 そんな言い方なら、どっちにも取れるじゃん!と、へーそんなもんかなと、半々くらいに思いました。ホント素直じゃないもんで…

 これが、その後、現在でも、ことある度にしている思案の最初の一歩です。

 とある方から
「みんなが求めている、不思議な御守護 云々」 
と、言われまして、改めて思い出してみました。
 若い頃、なんとなく経験則から、効くおさづけ、効かないおさづけがあるように感じてたんですが、前出の先輩の話を定規にすれば、取り次いだ人、取り次がれた人…、すなわち人間側の感じる御守護と神様が下さるおはたらきは、必ずしも等しくないってコトだと思うんです。

 参考になるかどうか解りませんが、つたない経験を一つ出力いたします。
 末期の肺がんになった方がいたんです。仮にオタキさんと呼びます。
 30年位前のある日、オタキさんは、掛かり付けのお医者様に、肺がんなので大きな病院に行くように言われます。で、いつも行くちょっと大きい病院に行くんですが、そこでも「うちじゃ手におえないから大学病院に行くように」と、紹介状を出されます。
 ところが、大学病院では
「体重が減りすぎて、手術ができないから、しっかりご飯を食べて太ってから考えましょう」
と、いわれます。
 まぁ、匙を投げるってのはこういうことを言うのかな?と思いました。
 当時、小さな教会の会長をしていたまるりんは、30km離れた上級教会への日参(毎日参拝)を日課にしていました。
 オタキさんの家は、その通り道の途中にありますので、毎日おさづけに通いました。このnoteでお伝えしたいことからは、ちょっと外れるのですが、やっぱり色々あるもので、もう行くのはやめようと思う日が何度もありました。しかし、毎日そこを通るので、やっぱりおさづけだけでも…なんて思って寄るのですが、やっぱり行かなきゃよかったと思いながら帰る日を重ねました。どの辺に真実の心があっかとたずねれば、やめなかったことかなぁと思います。
 数週間が過ぎた頃、オタキさんは大学病院で写真をもらい、元の病院へ行くように指示されます。
 最終的に、掛かり付けのお医者様に説明を聞くのですが、先生いわく
「あれば、がんじゃ無かったらしい。なんだったかと言うと、空気中には色々な菌がいて、そのうちの何かが大繁殖したんじゃないかと思う」
ってな、ことらしい。
 要するに、誤診ってことなのかな?ってあたりで話を収めました。
 当時、なんか負けたような気がしました。まぁ、仮に誤診だったとしても、命が繋がったのは良かったじゃないか…と必死に思い込もうとしました。なんか…ね。

 さてさてオタキさん、20年経って、【再度】がんになります。今度は喉。リンパを伝ってリンパ節へ転移。リンパ節はパンパンに晴れ上がりましたが、本体はなかなか成長しないという状態。
 その診察と検査の過程でお医者様がこんなことを言ったとか
「あーオタキさん、以前にもがんをやってるんですね。ほら、ここに切ったあとがある」

 オタキさんは
「会長、あれはやっぱりがんだったんだな」
と、言ってくれました。

と、こんなことがあったんです。

 最初、がんだと言われる。
 一生懸命おさづけに通う。
 がんじゃなかったと言われる。
 20年経って、やっぱりがんだったと云われる。
まとめると、こんな感じです。
 つまり、この件でいえば、お医者様の言われることで、神様のおはたらきがなかったことにも、あったことにもなってしまうということです。
 
 本当に神様のおはたらきがあるかないかより、人間に見る目(知識)がなかったり、他の何かを信じたりしてないか?ということをもう一度検証する必要があると思うのです。けど、検証したところで、やっぱり本当のところは解らないですよね。
 もしかしたら、思い通りにいかないが故に心通りにいただいたおはたらきに不足してたり、諦めていることも多いかもしれません。あの日「効きませんよねえ」と言ったまるりんのように。
 人間は神様のおはたらきをジャッジできるのでしょうか?

 祭典講話ですと、ここから大恩小恩の話に展開するのですが、本旨と外れる上、長くなりましたので今夜はこの辺で…
 そうそう、件のオタキさんですが、令和5年8月19日現在、今日も元気です。3回生き返ってます(本人談)。

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