くまの子ウーフはどこにいる?

子どもに関わる仕事をしていると、たまにウーフに会うことがある。
正確に言うと、童話「くまの子ウーフ」に出てくるウーフみたいな、何にでも興味を持つ、じっとしていない子だ。
先日も、髪の毛に大きな枯れ葉を二枚くっつけながら、友だちとしゃべっている女の子に注意したら、
「あー、さっき枯れ葉の山で転がって遊んでたから」と事も無げに話してくれた。
「なんでそんなことしたの?」と聞くと、「どこまで止まらず転がれるかな、と思って」。
周りの友だちも「だからどうした」という反応。
現代の東京の6年生にも、ウーフがいるんだなあ、と嬉しくなってしまった。

 

 この本は、くまの子のウーフが、ぶなの木の下で昼寝をしているところから始まる。
つりがねそうや、なでしこ、きんぽうげが登場し、季節は大体、春から夏であることが推測されるので、草っぱらで寝転がるのは気持ちがよいだろうなあ、うらやましい。

 私は子どもの時、新しく山を切り開いた団地に住んでおり、そこは9丁目まであった。近所の公園だけでなく、歩いて小一時間かかるような公園まで訪ねて行き、遊んでいた。
 夏には川の近くの大きなカエルがいる公園に行った。大好きなまっすぐな枝がたくさん落ちている公園もあった。抜けた雑草の根元が鳥のように見えるのが、たまに落ちていて、鳥の雛を持ち帰るように、そっと持って帰ることもあった。ただ、家に持ち帰ったとたんに、その魅力はなくなっていたけれど。
 青々とした草が広がっている草原のような広っぱを見つけたときには、心行くまで走ったり転がったりした。ウーフのように。

 ウーフはつりがねそうにいた、みつばちになりたくて、両手を広げて、ブーンとうなるが、私も鳥になりたくて、公園の盛り土から飛び降りたり、ブランコを高くこいでから飛び降りたりした。
 私とウーフが違っていたのは、ウーフは口に出したことを、その時にいた虫や動物たちに聞いてもらっていたり、両親にも受け入れてもらっていたと思うが、私の場合は頭の中だけで妄想を楽しんで、誰にも言わなかったことだ。
 多分、へんな子と思われるのが嫌だったのだと思う。
 
 私は長女で、しっかり者と思われていたし、学校でも委員長だった。学校の校庭で遊んでいるときも、宇宙人が私のことを見て「あのこはよいこだから、ワレワレの星に連れて帰ろう」と思われてるのでは?と妄想するほど、良い子だと信じていた。
 なのに、変なことがしたくてたまらない私は、「ウーフはおしっこでできているか」に出てくる、ウーフの朝御飯の食べ方に憧れていた。金色に光る目玉焼きや、はちみつがついたパンにも憧れていたが、それよりも食べ方だった。
 ウーフは、むしゃむしゃとパンを食べ、はちみつと目玉焼きがついている、お皿をきれいになめるのだ。
 なんて、すてき。

 私は親が見ていないところで、それを
実行して、密かにうっぷんを晴らしていた。
私は実はよい子じゃないのよ、と。

 そして、この感想文を書くにあたって、この本を読み返した私はおどろいた。
 なんと、ウーフの朝御飯のくだりでは、一言も「お皿をなめた」とは書いていなかったのである。

 どれだけ、お行儀悪くしたかったのだろうか、と恥ずかしく思った秋の一日である。

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