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恋に落ちる30秒前 2

転勤の内示って、数日後には「あの人に内示出たらしいよ」と社内で噂がまわります。

同じ課の子が「S君も○○支店で…」と話す声が耳に入って固まりました。

すごい動悸がして。

○○支店は関東圏内ですが、かなり離れているし…もう、ほとんど会えなくなる。

すぐさま社内メールを送りました。

「飲みに行こうよ」

飲みに行ってどうするというのか…

どうするなんて考えられないけど、彼がいなくなる前に、距離を縮めておかなきゃ…

なんでそんなに焦ったのかわかりません。

S君はキホン外面が良いので、良いですよーと快諾。社内メールでプライベートなやりとりはあまりしたくないよね、てことでLINEのIDも交換。数日後、会社近くの個室の居酒屋で落ち合うことになりました。

その日、S君は取引先からのデータが届くのを待って、なかなか会社を出られませんでした。

私の方も、先に会社を出たものの、予定していた居酒屋が満席(都内で飲食店がたくさんあるエリアなので、甘く見て予約していなかった)、

LINEでそれを伝えると、

「今日はやめておきますか」とS君。

いや、今日、会わないと。…なぜかそういう気持ちがあって、私は「他の店でS君を待つよ」と。

実は数日前、S君の転勤を知ったあたりから、眠りが浅くて、夜中に何度も目が覚めて、寝不足が続いてました。今日会っておかないと、ちゃんと眠れない日が続くかも、そんなことも考えていました。

しばらく歩き周り、良さげな個室居酒屋を見つけ、中で待つこと20分。

「データまだ届かないんですけど、もう明日の早朝に確認する、てことにして、会社出ました」

S君、明日は有休とると言ってたのに。これは申し訳ないなぁ、と思いながら先にちびちびやってると、

私がいる個室の前、障子の向こうにスーツの人影。S君だと分かりました。ちょうど立っている腰の辺りがガラスの小窓になっていて、スーツの生地とか、腕、ヒジのあたりが見えます。

ところが、S君。そこに立ってから、なかなか中に入ろうとしない。

スマホいじってる、とかじゃないんです。

肩から下げたショルダーバックのベルト部分をギュッと握って、固まってる。

…緊張してる?

なんか、どえらく緊張してる…?

顔が見えないから、S君は私が彼を凝視してること、気づいてません。シルエットと小窓から見える様子で、彼のとんでもない緊張が伝わってきました。

そこでS君は、息を吸ったんです。意を決する、て、まさにそんな感じ。時間にして、動き出すまで30秒くらいかかったでしょうか(もっと長く感じたけど、実際は、たぶんそれくらい)

障子の戸を開けたS君。

「お待たせして、すみません」

人懐っこい、いつもの笑顔は、扉を開ける前の緊張や戸惑いを、一切感じさせないもので。

そのとき私は、扉の前で30秒も石になっていた彼のことを、一生忘れないだろう…と。

なんか、感動してしまって。

目頭が熱くなり、目がうるってなったのを隠すようにメニューを手にして、めくりました。

そんな風に、ごまかしましたけど…

もうごまかしようもなく…

じつにやばい、

生きながら死んでまた生まれ変わるような恋の沼に、

落ちはじめていました。


人生は短い。短すぎてこんなん何のために地上に下されたんや、と思う。しかし短い中にも、しんどいことが沢山あります。わたしのささやかな経験と言葉が、同じようにしんどい道で立ち止まっている人の参考になって、背中がぽっと温かくなりますように