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「死にたい」も「結婚したい」も「5000兆円ほしい」も同じ気持ちで言っている私の話

◼︎私は、「死にたくないけど死にたいと言うし別にふざけているわけでもなく本気で言っている、ただし基本的にはほんとに死にたくはない」人間だ。

そしてそれとは別に、「希死念慮」というものに襲われることがある。

◼︎私は、「死にたい」を「結婚したい」や「5000兆円ほしい」と同じ気持ちで言っている。

死にたいわけではない。
結婚したいわけでもない。
でも、「死にたい」「結婚したい」と思う。
5000兆円は普通にほしい。

「なに言ってんだこいつ」と思われそうだけど、要するに、私は「もう疲れたから、ゴールしたい」のです。

死にたいほど辛い、大きな出来事があったわけでもなく、結婚したら幸せになれると思っているわけでもない。
ただ、「生きるためにしなくてはならない様々なこと」を続けるのに疲れたから。
ただ、結婚していないことで生まれる様々な不安から逃れたいから。
「もう小一時間走り続けてるんでそろそろ座りたいんですけど」みたいな。
人生の息切れ、みたいな。

人生はメチャクチャ楽しい。だから死にたくない。
結婚したら全てがバラ色になるなんて思ってない。もし結婚するのなら、それからの長い生活を見据えて、然るべきときにしたい。

そういう気持ちを全部放り投げて、「ああっもう何もかも終わりにしてくれ!疲れた!」と思う時が訪れる。
それが「死にたい」「結婚したい」であり、「出家したい」「転職したい」「石油王に見染められたい」「5000兆円ほしい」「うんこ」・・・様々な形で口をついて出る。
私はとにかく、安心したい。

昇進したけどこの先私はちゃんと伸びていけるの、貯金全然ないけどほんとに自立できると思ってるの、家買えるの、このままずっと結婚せずにいてどうするの、子供が産める年齢は、孤独は、社会的な信頼は。

この不安を抱え続けるのに疲れた。ほんとにこのままで生きていけるのかしら。生きていけないんじゃないかしら。もうこんなことに悩むの終わりにできないかしら。
生き続けることの悩みなら、死ねば終わる。
結婚しないことによっていつか後悔するのではとか親にぐちぐち言われるのが煩わしいとかいうのは、結婚すれば終わる。
今もってる大抵の不安は、5000兆円あったら(現実的には2億円くらいあれば)たぶん解消する。
「悩み、消えねえかなあ」
その程度でしかない。

だから、「死にたい」と言ったからって殺されては困るし、「結婚したい」と言ったからって「私と結婚しましょう」っていきなり来られても困るし(たとえ高橋一生でも石油王でも実際いきなり来られたらビビって断る)。5000兆円はほんとに欲しい。(けど実際くれるって言われたらビビって100万円ももらえない)(10万円だったらいけるかもしれない)

私にとっての「死」は「理想の、逃げおおせることのできる、一時的でない完璧な逃げ場」のことであって、本当の「死」そのものではない。

◼︎冒頭に書いたように、希死念慮というものに襲われたことがある。
これは先の逃げ場としての死ではなく、ほんとうに死にたい、という気持ちが豪雨で溢れてマンホールを持ち上げる濁水のように溢れてくるものだ。

ただしこれも、私の本当の気持ちではない。
「どうしよう、死にたくなんてないのに死にたいって気持ちが溢れてくる」と、ものすごく怖かった。

この希死念慮に襲われたのは、とても寒い冬の日、ライブグッズを購入するために早朝から屋外に4〜5時間並んだ日。
カイロも全身に貼った、サーモスのボトルで熱々のほうじ茶も持ってきた、葛根湯も飲んだ。それでも寒空の下での生命維持は私の底の浅い体力を削りに削って、ついには生きる気力を維持する体力にまで爪をかけた。

「ウワアアア希死念慮ダアアアアア」

なんかもう突然のことすぎてわけがわからなかった。
Twitterにものすごくふざけた感じでつぶやいたが絶賛死にたみが溢れ中。
暖かい屋内に避難したけれども芯まで冷えた身体の奥にまで熱が届かない。
どうしよう怖い怖い怖い。死にたい死にたい死にたい死にたい死にたくないのにすごく死にたい怖い。

ツイートを見た、同じライブに参戦するフォロワーさんが、カイロを持って駆けつけてくれた。
希死念慮がめちゃくちゃ怖いという私の話をニヤニヤしながら聞き、その後山下公園に移動して「ウェーイ死にたーい」と一緒に変な踊りを踊ってくれた。
私の身体の中からどろどろと湧いて出る恐ろしい怪物を、ちょっとキモい虫くらいにしてくれた。

おかげでだいぶ持ち直し、胸の奥底にいる希死念慮が弱火でグツグツ言い続けているのを感じながらも、ライブを楽しむことができた。

ちなみにその日の私の様子は時々WOWOWで流れている。
最前列でめっちゃ踊っている。

大好きな歌手のライブの最前列のチケットを持っていて、何か辛い出来事があったわけでもなく、先述したような生活の不安も忘れてるのに、ただ「死にたい」という気持ちが無の中から生じてくる。
私の自発的な「死にたい」と希死念慮は、明らかに別のものだった。
それでも私は、死にたくはない。

◼︎一度だけ、手首を切ろうとしたことがある。
高校生の頃、何のきっかけか自殺企図のある人のブログにたどり着き、それを読み続けているうちに「こんなにいい人が死にたがっているのに 私なんかが生きていていいわけがない」と思い始め、その日の入浴中に手首にカミソリを近づけた。

しかし、切れない。
切るどころか、皮膚まであと1cmというところで、どんなに力を込めても腕が動かない。

しばらく「なんで」「切れない」「どうして」と格闘していて、突然ハッと我に返った。

「そおおおおぉい!!!!!」

カミソリをほとんど投げるようにして手から離し、「私は、一体、何を・・・」とついさっきまでの自分の思考が全く理解できなくなっていた。

大学で心理学を学んでいる人から、こんな話を聞いたことがある。
ホームページなどにリストカットの画像を載せていると、それを見た人が自分も切りたくなってしまうことがある、だから載せないようにという呼びかけがある、と。
私はその通りに自分も切りたくなってしまった。
そして、死にたくないという気持ちが、1cmの壁として、私の中には強固に存在していることを知った。

◼︎今までに感じた私の「死にたい」には3つあった。

「結婚したい」「5000兆円ほしい」と同等の、逃避願望としての「死にたい」

実際の不安や辛さとは無関係に湧き上がる、身体の反応としての希死念慮の「死にたい」

本当に死を望んでいる誰かの「死にたい」を浴び続けたことにより引き寄せられて起こった、かりそめながらも本当に死へと向かいかけた「死にたい」

だけど私は、死にたくない。
そりゃいつかは死ぬけれど、今は死にたくない。
本当に。

よろしくお願いします!