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探求の果てに辿り着いても、何かを目指したい本性は変わらない

こんにちは。Twitterでスピリチュアルに関することをまとめていましたが、アカウントが止まってしまったので、noteでもう少しまとまった形で書いてみようと思いました。

一生懸命仕事に取り組んでいたけれど、どの職場でも何となく居心地が悪くなり、辛くなってしまう、そんなことを繰り返してきました。

2021年の11月頃、ベッドの上で「もしも、誰ともいがみ合ったりせずに、暮らしていけたら良いのに」と天井を見上げていたら、優しいエネルギーのようなものを突然感じました。

いわゆる一瞥体験だったと思うのですが、誰かがいるわけでもないのに、一体何が起きたんだろうと思ってびっくりしたのを覚えています。

それから、実は、服部みれいさんという方の本を実は以前買っていたのを思い出し、そこから探求が始まりました。

本についていたハガキには、こんな言葉が書かれていました。

「自分の内と外を一致させて生きると、どうやら、愛の状態にスムーズに移行できるようです。すばらしい時代!ピンチも大チャンスになる時です。どうぞどうぞご自身であることをたのしんでくださいネ」

以前は全くぴんとこなかったこの言葉が、俄にリアリティを持ち始めたタイミングでした。

それから、沢山の本を買い漁りました。「わたしと霊性」というみれいさんの本を読んで、スピリチュアルに関する心構えのようなものを感じ取り、単なる眉唾ではないメッセージがそこには潜んでいると思いました。

また、アセンションや神性に関する惹かれる本を色々買いました。

最初に買ったのは、ジョシュア・デビッド・ストーンさんの「アセンションを超えて」という本と、アダマス・セント・ジャーメインの「神性を生きる」という本です。今振り返ると、かなり両極端な本棚と感じるのですが、
今でも読み返す名書だなと感じています。

特に、「神性を生きる」という本では、二元性を超越した先に何があるのか、について書かれていて、I AM(アイ・アム:他の本では、力強い我あり、とも)という領域があることを知りました。

真の自己が存在する、というメッセージを最初に触れていたことで、探求は非常にハイスピードで進んでいった感覚はあるのですが、一方で、スピリチュアルのことも大して理解していない状態だったので、自我意識は常に混乱状態でした。

特に、私はずっと頭で考えることが止まらない気質だったので、目に見えない存在を捉えるために、「これには一体どんな意味があるのか」について常に注意深く感じ取り、常に考え続けてきました。

一人でそれを続けていく中で、近年は霊的な感覚が薄れていること、お葬式なども昔ほどきちんとなされていないこと、などを感じるようになりました。身近にいる霊的な存在や意識に声かけをすると、その時々でお返事を頂けるような感覚も芽生えてきました。

また、霊視が出来る、過去生が見える方で信頼のおける占い師さんに懇意にしていただき、守護霊+指導霊がついてくれていることや、過去生が今の仕事にも生きていることを知り、スピリチュアルを通して、より一層目の前のことを真剣に取り組まなければいけないな、と感じるようになりました。

究極には、人生の課題を克服して、敵も味方もいない二元性を超越しないといけない、と思っていて、その為には、自分がこれまで目を背けていた弱い立場の人たちの気持ちにならなければいけないと思うようになりました。

そこで、国連団体のUNHCR・WFPへの寄付を始めたり、神社や菩薩がいたらお参りをするようになりました。神と仏が集まるご開帳のタイミングに長野の善光寺や戸隠神社にお参りし、神様にこれからのことを強くお願いしたりしました。

「こころのままに」というメッセージを神様からいただきました。

それから、目に見えない存在を大切に感じ取りながら、スピリチュアルにまつわる目前の課題も一つずつ乗り越え、現実にも(引き寄せ的な感覚も意識しながら)取り組んできました。

究極には、自分の現世の使命を通して、世界平和を目指さないといけないという気持ちがありつつ、現実とのギャップにだんだん気が滅入ってくることが多くなり、どうしてもネガティブ思考が止まらなくなったところで、

改めて、「神性を生きる」を読み直したり、ノンデュアリティ(非二元)のメッセージをYouTubeなどで聞くことが増えてきました。

それまでは、自分の中にある闇・トラウマを解消して、光に進まなければいけない、それが二元性の超越だと思っていたのですが、「自分の意識」で全てをコントロールし続けることに疲れ切ってしまいました。

インドのヴェーダ(聖典)が、様々な考えの原点にあり、ヴェーダをもとにした物語、バガヴァッドギーターにも、非二元のエッセンスがあります。

自分の中にどうしても変えられない本性があり、それに従いながら、自分のやるべきことに専心するのが純質(サットヴァ)につながる。意識的に無理に頑張ろうとすることは、結局何らかの歪みを生じる。

神秘主義のシュタイナーさんも、バガヴァッドギーターとキリスト教の過去の書簡を比較しています。自分達がいかに正しいかを主張すればするほど、ずれていってしまうのだと。

非二元、ただ在ること、思考や行動もただ委ねる中に平穏がある、ということを、感覚的にもしっくりくるようになり、「多分そっちの方だな」という風に思っています。

また、本質的なメッセージは、先述のヴェーダや仏教の経典(特に密教)、ノンデュアリティにまつわる様々な書籍や動画にあるのではないか、と感じています。

そろそろ探究することを終えなくてはいけないと思うのですが、「より良くいるために、今の自分が気づけていないことは何だろうか」という思いが、やっぱり湧いてくるので、手放し(放擲)できないことが、まだまだ多く在ると思います。

それでも、適切に自分の感覚を手放す(放擲する)ことが、これまでの道のりの先にある、探求の終点なのではないか、とも感じているのです。

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