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「フルサトをつくる」はじめに

フルサトをつくる

はじめに
伊藤洋志

本書はおおざっぱに言うと21世紀の多拠点居住についての考察である。専業ばっかりでもあかんやろ、という前著『ナリワイをつくる』(東京書籍)に引き続き、都会か田舎かという二者択一を越える住まい方を考えたい、という動機で書かれている。

さらに本書で中心的に記録されるのは、そのなかでも都市に住んでいた人が新たにつくるもう一つの拠点、「フルサト」についてである。ここでのフルサトというのは生存条件のハードルが限りなく低いもう一つの拠点である。

人間が何かにチャレンジができる条件とは、いざとなったら死なない自信であると私は考えている。「背水の陣なんてのは、普段は無理な特殊例だから故事成語になっている」と前作で書いた。21世紀初頭の現在において、楽しくたくましく生きるための重要な作戦の一つは、フルサトをつくることである。フルサトの条件としては、いざとなったらそこに帰れば、心身ともに健やかに生活が送れ、競合他社とか機会損失とかそういう経済用語がさほど通用しない環境があるところである。風の音とか温泉のじわーっと来るかんじとか野菜の旨さとかを体感しながら動物的なペースや感覚で暮らせる場所でもある。

歴史を振り返ると多拠点居住は様々な形で行われていた。たとえば、山伏の修験道における講などもその一つだ。講とは山伏が各地に出かけてできた信者の集まりのことである。参拝を受け入れる山には宿坊などの滞在場所ができ宿坊ごとにつながりがある講が各地に存在する。山で身体感覚をチューニングしたくなったら受け入れてくれる場所があるということだ。これは本書で扱うフルサトの一つと言ってもよい。ほかにも鳴子温泉に代表される湯治場には農閑期に各地から人々が訪れ休養を図っていた。海外では北欧などはサマーハウスという夏だけの簡素な家を持っているし、ロシアではダーチャという畑付き別荘があり休暇を過ごすという習慣がある。江戸時代の参勤交代も都市と地方の二拠点居住とも言える。参勤交代で宿場町がにぎわい、経済を循環させたり、道中で殿様が技術を発掘して持ち帰り地場産業を生み出したりしていた。私の地元の香川県丸亀市はうちわ産業が有名だが、これも参勤交代のなかで持ち込まれたものである。

このように、拠点を複数持つということは日常とはまた違う生活を送るためであり必要なことだったが、参勤交代は別として基本的には国家的には管理しにくて不便だし、雇用されるという定住型の仕事が一般的になっていったため日本では多拠点居住は稀になってきていた。しかし現代では同じ場所にずっといるという働き方以外もできるようになってきたし、企業でもサテライトオフィスを構えるところも増えてきた。そろそろ完全定住にこだわらなくても良い時代になってきた。歴史的にも有効に行われていた多拠点居住を現代に状況に合わせて再構築する、というのが本書のテーマである。

フルサトといっても必ずしも実家のこととは限らない。実家がフルサトであることは多いが、地縁血縁が濃い地元はいい面もあるが、同時にしがらみもあってやりにくいことも多い。それに一カ所に限らず拠点は複数あった方がセーフティーネットとしてもいい。本書では、現代社会におけるそれぞれのフルサトを自分に合わせてつくっていくことについて考えていきたい。これは、ちょっと気を張らないとやっていけない資本主義経済世界に大なり小なり関わって生きている現代人が、完全自給自足のコミューンまで目指さなくても、まあぼちぼちですな、というぐらいで生きていくための基盤になると考えている。

若い頃、20〜30代はじめは、その年齢だけで自信を持ちやすい。なんたって体力と回復力があるし、文字通り生命力があふれているからだ。0歳児は毎日チャレンジして、大人の動きをコピーして言葉を覚えてやがて歩けるようになる。それが可能なのは、限界ギリギリまでの大音量で泣ける生命力に加えて、生命の危険がない安心な環境が用意されているからであろう。著者は現在34歳だが、80歳になったころのことを考えて、ゆるやかなペースで生きていけるフルサトをつくろうと思い立ったわけである。先手を打って前向きな隠居時代の準備をしておくことは、何かにチャレンジする基盤になると思ったからだ。老後の心配ばかりしている人からはチャレンジ精神は生まれにくい。せっかくなので生きているうちに未知の世界を開拓してみたいが、それにはまず死なない基盤が必要だ。

今は将来の不安のために保険や貯蓄に励むと言う流れが主流だ。だが、将来の貯蓄のためにリスクに耐えられる居住の可変性(フレキシブルさ)を捨てて住宅ローン35年を嫌々支払うという人生は、現実的な対応としてはあまりにハイリスクなのではないかと思う。35年後何をしているのか予言できる人はそういない。

この変化が大きい現代社会は、常識的に安定と思われることのほうがリスクが高いことが往々にしてある。安定しているとは、世の中が動いている時期に止まっていることであるから当然である。日々チャレンジしていったほうが、変化に適応できるから長期的に見たら安定していると言える。なにより日々面白く過ごせるから、精神面での健康も維持しやすい。何かしなきゃとは分かっているんだけど、体が動かない、というのは見えない情報圧力も原因の一つだろう。昨今は、メディアは孤独死とかの特集は組むわ、日常のニュース番組からは老後の生活に悩む人のインタビューが流れてくる。けっこう怖くなってしまう人も多いかと思う。だが、何か変化を生み出すには小さな常識を越えることが不可欠だ。不安で思考が充満すると視野狭窄になって変化を生み出せなくなる。不安を打ち消す余裕を持つにもフルサトは重要な役割を持つ。

そのフルサトに大事なものの多くは感覚的なものだ。たとえば、暖かさだ。人間は、寒いと後ろ向きな気分になりやすい。特に急に冷え込んだ秋は要注意だ。だからフルサトには体が温まるものがあったほうがいい、温泉とか薪ストーブとかサウナとか、いい布団とかだ。なんとか主義や流行りのまちづくり手法ではなく確かな洞察と具体的な物事の集積こそが、居心地がよいフルサトをつくる。

本書では、場所の探し方、家の借り方、家のつくり方、移動方法やその土地での人付き合いの考え方など具体的な工夫を通してフルサトをつくることについて考えていきたい。また、チャレンジできる余白があることもフルサトのいいところだ。私自身は将来的には個人の力で温泉を掘るのにもチャレンジしたい。とにかく温泉はいい、しんどいことがあってもなくても、毎晩温泉につかれるというだけで人生8割がた言うことなしだ。こういう自分なりの原点をもっておくと迷ったときに考える手助けになる。温泉を神と崇める温泉教とか立ち上げてもいいが、そんな面倒そうなこと考える前に湯に浸かろう。人生に不要なことが忘れられるので、無駄な仕事をしなくてすむ。

というわけで、「ナリワイをつくる」に続いて「フルサトをつくる」ことにした。その第一歩として、田舎にシェアハウスをつくることにしたのである。このシェアハウスをつくる過程で得られた発見が本書の中心的な題材になっている。前作『ナリワイをつくる』に続き、本書は自分を実験台にした研究報告とも言える。少し違うのは、もう一人の著者pha氏との共同執筆であり共同研究であるという点だ。シェアハウスもイトウとpha氏の共同運営である。なぜ田舎でシェアハウスなのか、というのは、色々な理由があるのだが一つには一人で家を借りてもずっといるわけでもないし、使い切れないからだ。さらにはわざわざつくるフルサトは日常とは違う空気感が生み出される場所にもしたい。新しい要素が入らないと飽きてしまう。日常の人間関係などをそのまま移植するのだとそれは別荘である。もちろんフルサトをつくるのは一人でやってもできるのだが、一人でもやれる人が集まるとそれぞれ個々人の予想を超えた何か面白いことが起きる気がする。pha氏と伊藤は、「ニート&ギーク」と「ナリワイ」で違う世界に生きているわけだが、何か新しい展開をつくるには、異質なものを組み合わせるのがよい。異質ではあるのだが、あまりバトルを好まないという点では共通している。それで一緒にやるのは面白いのではと思ったのである。

コミュニティという言葉は曖昧なので以後あまり使わないが、要するに「多様性があってかつ各々がやりたいことを調和しつつやり、必要に応じて協力できる人の集まり」のことだと考えている。一丸となって何か単一の目的に邁進するのはコミュニティではない。

フルサトをつくる、ということは田舎への完全移住ではない。また、すぐには完成しないのだが、少しずつ育てていくためにもやっぱりそこに行くだけで楽しく生きていける場所がよい。また、金銭によらず自力で食べ物が調達できる余地があるところがフルサトの特質なので田畑が確保しやすい場所である。もっというと人がまだたくさんいる郊外的な田舎よりも、過疎地がおすすめだ。なぜならそこは人が少ないので存在するだけで価値を生み出せる余地が多い。やるべき仕事がたくさんあって活躍の場が広い。

さらに過疎地は田舎ほど慣習の力が強くない。なにしろ人が離れて住んでいるので、混み合っていないからだ。ビジネスでも、そんなに規模がない業界に人が大量に押し寄せると過当競争になってえらいことになる。ある面ではそれと同じである。また田舎と言えど局所的に人が集まって集落を形成しているところだと、その土地の慣習が強いので従わなければならない場面が多いかもしれない。ましてや単独で移住したら最大与党以下の議席1の少数派になるので、与党との相性によるところが大きくなる。せめて議席3ぐらいあるとだいぶ違うのだろうが。

いわゆる限界集落などがあるような過疎地は家のコストも低い。畑付きとかなら家賃数千円、高くても2万円以下ぐらいだろう。人生のだいたいのことは家賃が1万円以下であればなんとかなる。それで田舎でシェアハウスだ。さらに言えば、田舎、過疎地こそシェアハウスがうってつけの場所なのである。なぜなら、田舎はバラバラに住むとご近所さんがいないうえに、話が合う人を見つけ出すのが困難だからだ。あなたは中学校、高校で真に興味のある話題を共有できた友達が何人いただろうか。おそらく一、二人いたら上出来ではないだろうか。田舎に住むのにおいても同様に難しいものである。

楽しく暮らすには、共通の関心ごとについて話せる仲間がいるというのは大事だ。それが自然にできるのはインターネットと都市である。インターネットだけだと体が動かせないので、心身のバランスを維持するのが難しい。所詮人間であり動物なので、ほどほどに体を動かしたり伸ばしたりしないと血行も悪くなるし体調が悪くなりやすい。そこで医療のお世話になるとまた支出が増えて働く時間が増える。田舎に行って家の改装などに取り組めばおのずと体を動かさないといけないから健康にもいいだろう。だが、話が合う人がいないのが田舎の問題である。そこで、局所的に都市のような空間、シェアハウスにつくる。

もともとシェアハウスは家賃の高い都市ではじまったが、多少家賃が安くなるといっても都市では限界がある。10年ぐらい何もしないで家賃を賄えるほどの安さにはならない。それでは安心につながらない。残念ながら都市のシェアハウスだけでは、フルサトと呼べる安心感を得ることはまだ難しい面が多い。ボロかったり、路地奥にあったりでエアポケットのような場所で安い家賃の物件を見つけて都市の中心に田舎をつくる、というのも実現可能だが、区画整理で建物が強制的に取り壊されたりすることも多く、長期に続けていくのが難しいといった課題がある。

ということで、フルサトをつくるために過疎地にシェアハウスをつくるところから始めようと思っている。

フルサトといってもどこに? ということが疑問になるだろう。雑誌が移住特集を組むことも増えてきたが、そういったところではデータベース的にいろんな田舎が掲載されている。そういうのをあまり熱心に参照しすぎると決断が鈍ることが多い。並列に並んだ情報を比較していくうちに決められなくなる。こういうのは、勘と人との出会いで決めてしまうのがいい。よく病院があるか、とか色んなスペックを「比較検討して決めましょう!」と推奨しているメディアも多いが、それで違う世界へのジャンプができるわけではない。理屈を越えた衝動が起きないと変化は起こせない。それにフルサトを一つに決めきる必要はない。3つ持っている人がいれば、全国に10個持っている人がいてもいい。

居心地がいい場所というのは、定住している人、定期的に長期滞在しにくる人、短期でちょくちょく遊びにくる人、それぞれを許容する土地だと思う。そういう場所が今後はにぎわっていくだろう。逆に「骨を埋めるか否か」の即断を求める土地は「秘伝の忍術」を教えてくれるとか、住むことによほど強力なインパクトがなければ緩やかに過疎になっていくと思われる。もっともこれは会社でも同じである「辞めたら承知しねえぞ」と社員を囲い込む企業からは人が(少なくとも心が)逃げていくだろう。まあ部活でも同じである。人を囲い込もうとすればするほど窮屈になって逆に過疎が進む。

だから、よく移住に際してある「骨を埋める覚悟があるか」という問いは、必要ではない。大事なのはそれぞれが自由意志のもとで暮らして、お互いに協力できることがあれば適宜していければよい、という感覚である。だからといってコミューンみたいに移住者だけで地域づくり組織とかつくっても意味がない、それは都市の企業を移植しただけである。単一の価値観でまとまった組織には寿命がある。そしてその寿命がどんどん短くなっているのが2014年の現在なのである。人間の寿命の方が長いのでそういう組織はあまり当てにできない。

じゃあ孤独に隠遁して生きていくのか、というとそうでもない。フルサトにおいて必須条件は何か生業を持つことである。つまりその土地の現在のメンバーができない技術を持つことだ。生業を持つと、それを通して人と接点を持つことができる。これは高い話術能力を必要としないで人と関係性をつくるのに有効である。「コミュ力」みたいなかんじで、話し上手じゃないと人と関係性がつくれない、という世の中は窮屈だ。もっと別のルートがあってしかるべきだが、その一つが生業を持つということである。これについても本書で具体的に述べる。

田舎に仕事なんてない、という意見もよく聞かれるが、実は雇用は少ないかもしれないが、自分で見つけ出し工夫してつくれば、むしろ仕事の素材には困らない。前著の「ナリワイをつくる」で、ナリワイとは、小さい元手で生活の中から生み出され自給につながるやればやるほど心身ともに鍛えられる仕事である、と定義したが、田舎こそナリワイの宝庫である。そういう視点の変え方についてもお話しして考えていきたい。家に関してもいま日本に空き家が多いことは知られつつあることだが、その具体的数や状況、さらにどういう家がシェアハウスに向いているのか、家の直し方、についても具体的に実践報告できたらいいと思っている。細かいマニュアルにしてもつまらないので、考え方や勘所をお知らせしたい。

フルサトをつくる、というのはいざとなったら住める場所でもあるので、それが一時のものか、あるいは長期になるかは人による、いずれにしても、生活するわけなので、生活の糧や娯楽、住まいが必要だ。したがって、この本では、仕事、ナリワイについて、娯楽について、そして住む場所の作り方について、それを複数持つための運営方法なども考えていきたい。結果的に移住した、ぐらいがちょうどいい。いきなり移住もよいが、本書のような段階が間にあっても良いと思う。今は0か1かという思考が多すぎる。これは極端だし思考放棄だ。

ちなみに、ご夫婦やパートナーなど2人で生活を運営している方に気をつけていただきたいのは2人で移住なり、多拠点居住をやりたいと考えているなら、一人だけで全国回って場所を探すとかは避けた方が良い。2人の間での情報格差が大きくなると、離婚など軋轢が生まれやすいので、できるだけ同じようなペースで知識なり経験を積むことをお勧めしたい。

5月31日まで「はじめに」を公開いたします。

全国各所の書店とAmazonやhontoなどで買うことができます。


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