1901年7月14日 ペリー上陸記念碑除幕式

去年夏に #三浦按針 のお墓(安針塚)を訪れて以来、二度目の訪問となる三浦半島。久里浜という地名は、総武快速の行き先として学生の頃から認識していたけれど、訪れたのは初めてだった。#ペリー の来航によって危機感を持った江戸幕府が急遽建造させたという品川台場を見にいったのがきっかけで、そのペリーが最初に上陸した久里浜に行ってみようということになった。

ペリーが上陸したとされる久里浜海岸に面した場所にはペリー公園がある。その敷地内には立派な記念碑とペリー記念館が建っていた。この記念碑は日本側の発案で建立したものではなく、ペリー来航時に17才の少尉候補生として同行していたという退役軍人が47年ぶり(明治33年)に久里浜を訪れ、ペリー上陸を記念する事物が久里浜に全く無いことを遺憾だと表明したのがきっかけとなって建立されたものだという。

太平洋戦争の最中には反米感情の高まりから、この記念碑は一度破壊され、戦後に再建された。

画像1

公園内には、当時詠まれたという落首「泰平のねむりをさますじょうきせん たつた四はいで夜も寝られず」の碑もあった。「じょうきせん(蒸気船)」に煎茶の銘柄「上喜撰」と、お茶を飲むと眠れなくなることにかけたダジャレで、黒船に慌てふためく幕府を皮肉るうまい風刺になっている。

画像2

しかし、この訪問をきっかけに、当時の外交交渉を詳細に描いた『幕末外交と開国』という本を読み、事実はそんな単純な構図には収まらないことを知った。

アヘン戦争をきっかけに海外の情報を重視するようになった幕府は、長崎に入る中国船とオランダ船に対して海外事情を詳細に報告させていた。そしてそのルートからペリー艦隊来航の情報をその一年以上前に掴む。鎖国によって海軍を持たない江戸幕府は、いかに交渉によって戦争を回避するかというゴールを設定し、それに向けて作戦を練っていた。

黒船来航と日本開国について、日本には今なお次のような理解が広く存在している。 ① 無能な幕府が、 ② 強大なアメリカの軍事的圧力に屈し、 ③ 極端な不平等条約を結んだとする説である。  言い換えれば、「幕府無能無策説」と「黒船の軍事的圧力説」の二つを理由として、そこから極端な「不平等条約」という結論を引きだそうとする単純な三段論法であり、そのため、かえって根強い支持を得て、今日に至った。 - 『幕末外交と開国』

ペリー二度目の来航時に応接掛として外交交渉に当たった林大学頭。その門下生として意見を提出し、その後の交渉に大きな影響を与えた #大槻磐渓 という名前には見覚えがあった。

久里浜における大統領国書受理の前日の七月十三日付けで、仙台藩士・大槻平次(磐渓) が「門下生」として、儒役・林大学頭健の「御内意」に答えた報告がある。儒役とは儒教担当の役目を担う林家への尊称である。... 仙台藩士・大槻平次は大槻玄沢(『 環海異聞』の編者) の次男で、江川英龍の門下生でもある。意見書提出の背景ははっきりしないが、この意見が幕閣や応接掛に回覧され、かなり強い影響を及ぼしたとみて良い。 - 『幕末外交と開国』

明治24年に日本初の国語辞書『言海』を完成させるまでの苦難の道を追った伝記『言葉の海へ』。その主人公 #大槻文彦 の父親が #大槻磐渓 だった。

磐渓の父親は、『解体新書』の翻訳で有名な #杉田玄白#前野良沢 の弟子、#大槻玄沢 である。玄沢の、外国の文献を訳すためにはそもそも文学の能力が基礎になければならないという考えのもと、磐渓はまず漢学を極めてから洋学を学んだため「磐渓ほど世界を知る漢学者はいなかった」という。

父と子の、さらにその父祖の血の、切りようのないつながりのなかで、『言海』は生れた。大槻一族というパターナリズムと、奥羽というリージョナリズムと、日本というナショナリズムが、洋学という西欧合理主義に補強されながら、ひとつになっていた。 - 『言葉の海へ』

磐渓はその当時、いわゆる「開国佐幕(幕府主導での開国を支持)」という立場を取っていた仙台藩の家臣だったので、戊辰戦争の後には散々な目に遭う。

磐渓は、新時代の方向には異存がなかった。自分の主張のとおり世は開国となって、立君定律の国家へむかっている。しかし――。薩長ばかりが新時代を我物顔に振舞っているが、戊辰の奥羽の挙兵はむしろ彼ら以上に国家の将来を考えたための抵抗であった。目先の利害で薩長に尻尾を振った西国諸藩とは違うのだ。 - 『言葉の海へ』

じょうきせんの落首からは伺えない、黒船騒ぎの裏側で奮闘する人々を知るきっかけとなった久里浜訪問だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?