見出し画像

俺というスーパースターの憂鬱

そういう時に限って、トラックは突っ込んでこない。
むしろ”そうじゃない時”には、空気も読めず突っ込んでくるんだろうな、と学んだ。いや、悟った。



多分2013年の2月とか、3月とかだったと思う。



そのころの俺は、バイト先から帰る道で、時たま信号無視をしていた。
今思えば、周りに大迷惑をかけた可能性しかなく、本当に反省している。


ただ、きっとパツンパツンだったのだろう。
苦しい、しんどい、前が見えない、泣きたい、不安、絶望。 


自暴自棄になってしまった精神状態の中、
「自分で死ぬのは嫌だ。でも、誰かに殺められるのならばそれは本望」
とでも思っていたような気がする。


小道から大きい道へ接続する一時停止、国道246の信号、右を向く矢印信号機。

その全てではない。ただ、運転をしている中で様々なことを考え、心の波が何度も防波堤にぶつかり、その波しぶきがピークを打った瞬間…




俺の原チャリは国土交通省からのありがたい安全指示を完全無視し、突き進んだ。





ヤケクソ

頑張ってれば報われる

そう信じてやまなかったはずの自分が、これは報われないと思ってしまったが故の暴走だった。


当時の状況を説明すると、前十字靭帯断裂&内側側副靱帯断裂の大怪我を負い、8〜9ヶ月のリハビリを行ってようやく復帰。
しかしその直後に、再び前十字靭帯を断裂。3度目の手術をして、1年半近くサッカーから離れていた頃だった。


一応、当時の俺は同年代で「中の上」ぐらいの実力しかないのにも関わらず、プロサッカー選手を本気で目指していて、その「中の上」は1年半サッカーから離れる間、「下の中」ぐらいにまで成り下がっていたと思う。



それでもプロになりたい、どうしたらいい?



考えまくった先にたどり着いたのは、復帰したら大量のお金を自分に投資するために、カネを貯めておく。ということだった。


ちなみに当時の俺は、殺しかけたこと数度というぐらい父親とバチバチで、実家にパトカーが何台も来た嵐の末、10年間一緒に住んでいなかった母親の家に流れ着いていた。


突然の居候開始で、母親は母親で彼氏がいたりして、その三者で共同生活。
良い人だったけど、気を遣うことは多かったし、「お母さんじゃないようなお母さん」を見るのもなかなかストレスのかかる日々だった。


共働きだとしても裕福ではない家庭が分裂してるので、両親からプロを目指すためにカネを援助してもらう、という選択肢はなかった。

なので、

死ぬほどバイトをする⇨自分の時間の切り売り
ウェブサイトを作って運営する⇨未来の不労所得
自分の価値の向上⇨値段のつく人間になる


という3つをテーマにカネや影響を稼いで、復帰したあとには、プレミアリーガー並みの待遇で自分を成長させようと思っていた。



たかだが二十歳の本気

しかし残酷なまでに現実は厳しい。

むしろ、現実というより自分のちっぽけさが厳しい。本気で生きたとして、成せることはいつも少しずつだ。

じゃあどのくらいの本気かというと、これが当時の俺の1週間のスケジュール。これをまあまあ長い期間続けていた。

家電量販店では時給1400円。
ピザ配達の方は時給900円。


もちろん間に休憩があるし、シフトに入れない日もマジでたまーにあるのだが、ざっと月に34万前後稼いでいた。
正直、会社を立ち上げたばかりの今と、あまり変わらない。しかも、20歳のフリーターが健全なバイトでこれを稼いでいるのは、結構凄いと思う。


本当は毎日同じスケジュールをひたすらに繰り返したかった。
けれどこんな感じでややイビツな時間割になったのは、労働基準法では7連勤が認められていないから、そういうシフトを組めない。



ただそれだけだった。



これで稼いだカネで、海外にチャレンジする。
スパイク、プロテイン、食事、すべてを最高のモノにする。
そう思っていた。



ただ、復帰するとバイトの時間が減るから、カネが減っていく。だから、「その他」の時間はその対策に使った。

▶アフィリエイトサイトを作り、復帰後はバイトを減らせるようにする
▶自分の価値を上げてバイト以外の仕事で稼げるようにする
▶大学に入って新しいことを学び、それを活かす


ドメインが乗っ取られてしまい、もはや見る影もないが、当時作ったいくつかのアフィリエイトサイトは月数万円の所得になってしばらく自分を助けた。


ねずみ講だろうがUEFAの有名コーチだろうが、勉強になると勧められればそういう会にも出かけたし、
偉い社長に会えるとか、昔プロだった人とご飯食えるとか、シフトに入れない日はそういうのを積極的にやって、その経験や繋がりは今も活きている。


大学は、たまに「マルちゃんって慶應なの?」って聞かれるけど、慶應だ。
何故か世間は通信教育課程の存在をほとんど知らないせいで、イカサマかと思われたりするけれど、卒業すれば普通課程も通信教育課程も卒業の価値に差はないと聞く。
その分卒業は難しいが、栄養とかスポーツ生理学とかを自分で勉強してる時間をレポートに当てればいけると思い、入学の準備もしていた。


友達とは深夜に遊んだ。
ファミレスで、コンビニで、車で。
金もないハタチは、みな日中にバイトをしている。
故に、一声かければ、深夜こそ友達は簡単に集まった。
ただ、何を話していたのか記憶は殆ど無い。




そうして俺は限界を知った

この学生証の顔付きが表現してると自分で感じるけれど、とにかくピリピリと殺伐としていた毎日だったように思う。

笑い話になるネタもたくさんあるのだが、何よりしんどかったのは

これを続けていてもプロサッカー選手になれるかどうかはまったくわからない

という不安だった。


サッカー選手になるのと、ピザを運ぶのは、当たり前だがほとんどリンクしていない。
しかも俺自身の実力や実績は皆無で、そんなことよりシュート練習をして、試合に出て、成長をしていかなければならない時期だ。




しかし、そのときの俺の左膝は満足に歩くことすら許さなかった。



その中でも自分なりに道筋をつけたのがこのスケジュールだったが、過去に同じようなモデルケースはなく、まさに五里霧中の毎日。本当に不器用に頑張ってたと思う。




しかし、頑張りとは裏腹、他人からの評価はそこまで高くなかった。

2つのバイト先からは、シフトの時間に全く融通が効かず、しかも常に疲労困憊でミスする中途半端なフリーターに見えていたと思う。


サッカーでつながっている人は「あんなに下手なのに、こんなに怪我してるイタイやつ」というキャラ。
沢山の人からかわいがってもらってたし、応援もしてもらってたけど、それは「まあやってみれば」「そのぐらいの年代は誰でもなにかチャレンジしたくなるものさ」みたいな、遠巻きなものだった。


親は前述の通り。それ以外の身近な人間にも、めんどくさいよりも忙しいで余裕がなく、大した話もしていなかったから、事情もよく知らない人が周囲にはたくさんいた。




一体彼らに俺はどう見えていたのだろうか。








結果的に俺はプロサッカー選手としてプレーしたんだから、この経験は正解だったと胸を晴れる。

が、余裕のない切迫した日々は、地獄以外の何物でもなかった。




ストレス解消方法も知らなかったのかもしれない。
俺は今でこそアルコールは少し嗜むけど、当時は酒も飲まなかったし、未だにタバコは吸わない。
その他諸々の娯楽や、女の子と遊ぶこともかなり少なかった。

ストレスを解消しようとすることが、目標のある自分にとっては何よりのストレス、だとよく知っていたんだと思う。

でも、そんな俺は知り合いだけはめちゃくちゃに多く、案外身近に誘惑はあった。この頃、クスリや大麻に一切手を出さなくて本当に良かったなと思う。








そうやっていく中で、健全で真っ直ぐな純朴男子は、自分自身を追い込んでいく。








結果、当時の俺は246を信号無視してみたりしていた。

目をつぶって、大きい交差点の赤信号にスピードを落とさずに突っ込む。
通り過ぎたあとは心臓はドクンドクン、生きた心地はしないけど、生きている実感がリアルにあった。



死にたいわけではないが、死んでしまってもいい。



それならそれ。
それでいいなら、そうしてみろよ。


そんな感じで神様にケンカを売っているような、めちゃくちゃな精神状態だったと思う。





全然苦しくないし大したことない

相当キツかった頃のエピソードで、思い出すだけでまあまあ苦しい。

けど、人生でしんどかったランキングを出せば、この頃の時期は4位とか5位とかだ。


もっとしんどいことはたくさんあって、こうやってペラペラ人前に書き連ねられない、笑えない話もいくつかある。
けど、そのすべてを一応乗り越えてこれたのは、


俺には可能性があって、

使命があって、

社会が俺を必要で、

いつか全てが良い方向にひっくり返る、

本気で腹の底で思っていたからだ。多分。


自暴自棄になっても、心が闇に押しつぶされても、自分が実はとんでもないポテンシャルがあって、ジーニアスで、スーパースターで、最強最高、めちゃくちゃにクールだと、0.0001%でも思えたからこそ、今日があるんだと思う。





今のところ、今後の人生でしんどかったランキングが5位を超えてくる予定はない。



「サッカー」というのは、それほどまでに自分に絶対的なエネルギーとプレッシャーを与えてくれる存在で、スポーツとか仕事とかっていう概念を超えている。


サッカーはあくまでサッカーで、人生の中で食事とか睡眠とかと同じぐらいのウエイトを置いてたから、だからこそ病んで、しんどくて、きつかった。だからだからこそ、どれだけ苦しくてもやった。

しんどい前に、まずサッカーが世界で一番楽しくて素敵なものだということは前提としておくが、サッカーで上を目指すというのは傍から見るより相当にきつい。

なので、サッカーでの成功を夢見なくなった以上、普通の社会であの頃よりキツイことなんて起こるわけない。













というはずだった。














けど、最近それよりキツイ。
社長は大変だ、借金、売上、株主、役員、社員、さまざまな責任を背負い、自分たち以外の会社と対等に取引して成功しなければいけない。


サラリーマンが憂鬱そうな顔をして電車に乗るのがよく分かる。
東京は無数の負のオーラを解消させるために、世界で一番のエンターテイメント都市になっている。
それほどまでに東京で社会人をやるっていうのは、厳しい世界に飛び込んでるということ。その上でリスクを背負って何かするストレス指数はエゲツない。


ただでさえ国の自殺率は高く、日本で自殺する人の20%は経営者だと言うし、経営者のほぼ半分は精神疾患を患わってるというが、体感値としてそれも間違ってはいない。














その波に飲まれ、正直今はめっちゃ苦しい、サッカーしてたころよりも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・っていう記事にしようとして書き始めたんだけど、ひとつひとつ振り返っていくと、やっぱりサッカーやってたときの方が10000000倍しんどいじゃねえか。




なんか冷静になって考えるとすごいバカみたいだ。

あんなにしんどかった経験を乗り越えてる俺が、たかがこんなもの如きを乗り越えられないわけがない。




決して前向きではない、心もさほど晴れない、笑顔はピクつく。


お腹は常に痛いし、最近は左の下腹部が悲鳴が出そうなほど痛い。
咳は止まったけど、1ヶ月ぐらいゲホゲホ言ってたし、微熱は今日も下がらない。
人と面会し終わってひとりになると、何故か嘔吐感が込み上げてくる。吐いても何も出ない。
眠る前は朝が怖くて寝られない。起きたら起きたで、起きた瞬間から嫌な予感で心臓がバクバクし続ける。

最近は手まで痺れてきて、きっとこの次は「胃に穴が開いて吐血」とか「シャンプーしたらごっそり髪の毛が抜け落ちる」とか「血尿で便器が真っ赤っ赤」とか、まあそういうフェーズでは有ると思う。




構 っ て ほ し い わ け で は な い 、 こ れ は マ ジ だ 。




苦しいのは間違いない。


だけど、夢が全くかなわない恐怖、とか、こんなにサッカーやってるのに何にもならない不安、とか、そういうのに比べたらマジで些細。

本当に些細だと思うし、社長の辛さなんて、せいぜいキツめのフィジカルが続く毎日ぐらいにしかなってない。信号無視なんて以ての外だ。



本が売れないとか、イベントに人が集まらないとか、猛スピードで銀行の残高が減るとか、くだらない人間交差点で消耗させられるとか、ゴミみたいな噂、クソ卑怯な駆け引き、騙し合い、裏切り、そんなものは全て、20代前後の俺に言わせれば鼻クソにもならない。








サッカーを納得するまでやりきった時点で、俺の人生は最高に幸せだ。







ネガキャンレポートにする予定が、ただの自己満惚気noteになってしまったけど、そんなことも関係ない。



スーパースターも、愚痴ぐらい言うべ。おわり。

サポートしていただいたお金は、未来に残るエンタメを研究する個人的研究費に当てられます。新しいスタイルのマンガや、サッカーをイノベーションしていきたいです。どうぞよろしくお願いいたします