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心の清潔さは必要なのか?

清潔のマイルールについて、「大学生の視点」から考え、言葉にしてみようと今日思った。

なぜ「大学生の視点」というものにこだわるかというと、
単純に新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るってから、よく耳にすることが増えた、除菌や清潔というワードだけについて考えるわけではないから。

私は「清潔」という言葉が、私にとってどのような意義があるのか考えてみたいと思った。

そもそも「清潔」ってどんな意味を持ってるのだろうか。

自分のパソコンを開いて、ぱぱっと辞書で意味を見てみると

①よごれのないこと。きれいなこと。また,そのさま。
② 人格や生活態度などが正しくきれいである・こと(さま)。

スーパー大辞林

今までの自分の解釈とかけ離れてはいないなという感覚。

やっぱり「清潔」ってポジティブな意味を持っているから、
「清潔」になることは正しいと私は思い込んでいた。

けど、必ずしもいつも清潔である必要はないんじゃないの?
というのが、このコラムで私が伝えたいことです。

私が清潔でありたいなと思うときはこんなとき。

自分の身なりや自分の部屋はきれいに保ちたいと思う。
身なりを清潔に保つことは自分の印象に関わってくるから、着飾らなくとも、髪をまとめたり、洋服はきちんと洗濯したものを着たりする。

自分の部屋をきれいにする理由は、ゴミがあったり、ものがぐちゃぐちゃになっていると落ち着かないから。
自分の居場所をスッキリさせることで、私は個人的に気持ちもスッキリして、いろんなことに対するやる気が私の場合生まれてくる。

話は逸れるけれど、私は今アメリカに数年、留学をしていて、自分が綺麗好きであることに気がついた。
部屋をすぐ掃除したくなったり、共有スペースに放置してあるお皿などを放っておくことができない。
他の国の人々は、掃除機や食洗機を多用する傾向があると思う。
一方で、私は床がフローリングであれば、雑巾をかけたいし、食器は手洗いをしたいと思う。
掃除をするときに、手を汚すことは厭わない。だって自分の手で磨いたほうが物を大切に扱っている気がするから。

さて、ここからが私が今回着目したいポイント。

清潔じゃなくてもいいんじゃない?

多少汚れてるくらいがいいんじゃない?と思うとき。

私が思うに、私の心は清く潔くはないと思う。
大学で学んだことを素直に受け止めることもあれば、それに対して懐疑的なことがある。それって本当なのかな?とか違う視点から考えたら違う意見になるんじゃないのかな?とか。

でもこの汚れを悪いと私は思わない。
批判的になることは、現代社会を批判することになるかもしれない。
しかし、批判的になることを避けていては、社会の問題を見つけることはできないと私は考える。
だから、何かを学ぶ上で、社会の問題を発見する上で、心が清潔である必要はないと思った。

日本にいた頃の私はとても協調性があり、受動的だった。それはよく言えば、心は側から見たら清潔だったと思う。

しかし、私はその清潔だった心に戻りたいとは思わない。
その清潔さを持っていたとき、私は周りに流されて生きていたから。
何も考えずに、今ある全てが正しいと勝手に信じて生きていたから。

だから、私は多少の心の汚れを持って生きていきたい、それが私の清潔のマイルールとしたいと思った。


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