僕は骨を噛む  4

  四、

 病室に戻ると、父はとっくに昼食を済ませていた。どこへ行ってたの、と母が訊いてきた。あちこち行きすぎて迷っちゃったんだ、と僕は答えた。

 お前は本当にここに飽きないなあ、と父が言った。死体を見てきたことは言わなかった。

 それ以降、病院には行かなかった。

 母にどうしてか聞かれたが、もう飽きたんだと適当に答えておいた。僕がいかなくなった代わりに、不承不承ながらも兄と姉が週変わりの交代で病院へ出かけていった。

 僕は一号遅れのレース雑誌や、ニキ・ラウダとフェラーリの絵を描いたりして兄姉にお土産として託した。会いにいかないせめてもの罪滅ぼしだった。

 母が病院へ誘わなくなって何ヶ月後かに、父の退院が決まった。退院という言葉は悪い響きではなかった。父が会わない間に快方に向かったのだと思えたからだ。

 しかし、家族の様子は全く違っていた。母と兄は茶の間にベッドを持ち込み、大きな加湿器を買って運び入れていた。姉は涙を見せながら茶の間の畳を拭いていた。家族の受け取り方は僕と正反対だった。

 果たして、戻ってきた父の病状は快方どころではなかった。肌の赤茶けた色は黒ずんで、一層やせ細り、目が落ちくぼんで明らかに悪化していた。

 しかし、父ちゃんは治りそうだから家に戻ってきたのよ、という母の言葉を僕は真に受けていた。深刻な響きがどこにもなかったからかもしれない。

 父は難病だが、治療と幸運で快方に向かっている、というのが母の語るストーリーだった。風邪よりも少し悪い病気が長引いているようなものだ、とも言った。

 しかし、理由もなく幸運が訪れるという話はいくら何でもうますぎる。子供でも気付くべきだった。だが、僕は幸運を信じたかったのだろう。心の隅にあった嫌な色の予感を都合のいい奇跡話で覆い隠してしまいたかったのだ。

 冬以降ずっと見舞いに来なかったことに関して父は何も言わなかったが、何枚も絵を描いてよこしてくれたことに感謝の意を示した。

 帰ってきた当初だけでなく、壁に貼られたその絵を見る度にそれを口にするので思い出して却って心を痛めた。しかし、父の言葉に邪気がないのはよく分かっていた。

 僕は誉められて調子に乗って絵を描いては父に見せていた。描く絵ではいつも、ニキ・ラウダがジェームズ・ハントの前を走っていた。

 父が家に戻ってきた九月の下旬、この年のF—一世界選手権は実質的に終わっていた。

 ニキ・ラウダは十四戦出走で三勝を含め十一回入賞しており、九月上旬のイタリアGPでも二位に入った。次のレースで入賞してポイントを取れば、ほぼチャンピオンは決まる。僕と父は二週間遅れでイタリアGPの結果を知り、喜び合った。

「やったなあ。すごいよ。あんな酷い事故に遭った翌年にチャンピオンになっちゃうんだから。本当のチャンピオンだ」父の贔屓目は変わらない。雑誌に目を落とすと『不死鳥ニキ・ラウダ』の文字が踊っていた。

「三回しか勝ってないけど、あれだけ上位入賞し続ければねえ」

 ニキ・ラウダは十一回入賞のうち、三位以上の表彰台に十回上がっていた。

「で、来年はどうなるんだ。フェラーリに残るんだろ?」

 父はいつも雑誌を読むことはせず、僕に訊いてくる。

「ううん、フェラーリとは契約しないんだって。これだとブラバムに移籍するみたいだよ。来年はアルファロメオのエンジンで走るんだ」

「ブラバムじゃあ、駄目かな。来年は。でも、何でチャンピオンが移籍するんだ?」

「前から噂があったけど、去年の日本GPからフェラーリに悪く思われてたみたいだね。雨だからって棄権するなんてフェラーリのドライバーにふさわしくないとか勇気がないとか。あと二回のレースも走らないみたいだし」

 一冊の雑誌分の受け売りでしかなかったが、隅から隅まで何度も読み返していたので即座に答えが返せる。

「そうなのか。一年も前のことを結構引きずるんだな。じゃあ、フェラーリは自分で走ればいいじゃないか。自分の命を守るのにまでケチつけないで欲しいよな。ていうことは、ラウダは日本に来ないのか?」

「そういうことになるよね。よく読むと残り二戦はカナダ人のレーサーが走るみたいだ。この人、読みにくい名前だけど」

「カナダ人。車を作ってない国のレーサーじゃ駄目だろ」

「いや。オーストリアだって、あんまり車は作ってないよ」

「あれ? ラウダはイタリア人だろう」

「違う。オーストリア人だよ」

「なんだ、そうか。危なくイタリアの国旗を買うところだった。まあ、でもラウダが日本に来ないんならその国旗を買わなくて良くなったけど」

「え、まさか富士のレースに行くつもりだったの?」

「ああ、一回くらいこの目で見たいじゃないか。最近調子もいいし。お前をどっか遠くに連れていったことなかったもんな。まだ行きたかったら行ってもいいぞ。でも、母さんには黙っておけよ」

 僕は飛び上がらんばかりに喜んだ。憧れのF—一レースを観戦できるのだ。

 それまで数十秒だけのニュース映像を数回見たことがあるだけだったのに、生で一日中見られるのだ。父が言う通り、一緒に遠出をしたこともなかった。これも嬉しい。

 しかし冷静に考えてみると疑問が湧いた。果たしてサーキットまでの遠い道のりを父が一人で運転できるのか、去年のこともある。そもそも医者や母の許可は下りるのか。無理なことを言っているように思えた。

「大丈夫だよ。今は退院してるんだし、これくらいわがまま通せるさ。でも、まあお前の言う通り最近ちょっと出歩いてないから、落ちた体力を取り戻さないといかんよな。寝てばっかりじゃあ却って身体に悪い」

 そんな風に父はこれから毎日夕方、散歩をするから付き合って欲しいと言ってきた。

 F-1のためならどんな申し出も断る理由がない。僕は快諾した。善は急げとばかり、その日の夕方から手始めに近所の野球場まで歩くことにした。往復で二キロばかりの僅かな距離だった。

 父は秋口にしてはやや厚手のズボンにジャンパーを羽織って玄関に出てきた。パジャマ以外の服を着る父を見るのは久しぶりだった。この出で立ちは前にも見たことがあるはずだが、その時とは随分印象が違う。

 肩や太股と服の間に見苦しいくらい隙間があり、一サイズどころか二サイズ大きめの服を着ているように見えた。相当に身体の肉が落ちているのだ。やつれたことは知っていたが、改めて寒々しい思いに駆られた。

 歩き出すと父はすぐに遅れた。五分くらい経って気が付くと随分置き去りにしているのだ。僕は何度も立ち止まって父が歩き出すまで待った。それを繰り返し、普通の倍以上の時間をかけてようやく野球場に着くと、父はベンチに座り込んだ。息も荒くなっていた。

「大丈夫?」

 僕は立ったままベンチを見下ろしていた。

「ああ、大丈夫。久しぶりに歩いたからちょっとな。すまないな。父ちゃんから散歩しようって言ったのに止まってばかりで。格好悪いよなあ」

「いいよ。僕も最初は早足で歩きすぎてごめんよ」

 父は何度か咳き込んでいた。

「そんなことは。それより、今日はちょっと寒くないか? こんなに天気がいいのに。秋だからかな」

「え? そんなに寒くないけど。汗をかいたのかな」

 僕はそう言って、父が首に巻いてきたタオルを背中から入れて拭き取ろうとした。

 しかし、背中に汗の気配は感じられなかった。入れた手で父の背中に触れてみた。

 薄く弾力のない皮膚の下に角のない骨があった。手を動かしてみると皮膚の弾力のなさが気になった。

 僕は大学病院の女性の感触を思い出した。そんなはずはない、と思いながら指の腹で背骨の周りを強く押してみた。やはり背中の肉は指を押し返してこなかった。弾力がなくなっていた。

 僕はどこかに弾力はないものか、捜しながら背中をあちこち押していた。

「痛い、痛い。痛いよ。何やってんだ?」

 父は抗議の声をあげた。

「あ、ごめん、ごめん。触ってたらついつい強く押しちゃった。汗をかいてるのかと思って。汗はかいてないみたいだよ。ちょっと薄着だったんじゃない?」

 しかし、そんなはずはなかった。父はまだ九月下旬なのに四着も着ていた。僕は下着を含めて二枚しか着ていないのだ。

「そうかもな。身体を動かした割には寒くてな。何だかスースーするんだよ。服に穴でも空いてるのかな」

 父はそう言って笑った。

 僕は身体をくっつけてベンチに座り、肩を組んだ。これなら寒くないだろ、と言うと父は笑いながら頷いた。

 お前も大きくなったんだな、と言って僕の足をパンと叩いてきたが、その動きは鈍く、見た目よりも弱くて叩かれた気がしなかった。

 父の言う通り、僕は日に日に成長していた。足に置かれた父の手は、骨と血管だけが浮き出て、枯れた木のような色をしていた。自分のはどうなんだろう、と思って手を横に並べてみたくなったが、やめた。

「ずうっと部屋の中にいたから身体がなまっちまったのかな。外はやっぱり違うわ」

 そう言って父は試合が終わって人気の少ない野球場を見下ろしてゆっくりと息を吸い込み、一気にハアっと吐き出した。

 何度かそれを繰り返すと、何かに気付いて空を見上げた。

 僕もつられるように見た。何匹かの雀が群れて飛び、バックネットにとまった。

「雀は何歳くらい生きてるんだ?」

 父が訊いてきた。

「さあ、あんなに小さい鳥だからそんなに長く生きていられないんじゃないかな。十歳も生きればもう長生きだろうね」

「そうだよな。鳥がお前くらい生きていればもう相当な爺ちゃんなんだな」

 そう言うと父は納得したように頷き、またゆっくりと息を吸い込みハアっと吐いた。

「そろそろ帰ろうか。長い道のりで遅くなってもいかんし」

 父はそう言って大儀そうに立ち上がった。冗談に聞こえた。

「まあ、今日はこんなくらいでちょっとずつ長くしようよ。富士のF—一レースまであと一ヶ月あるんだから焦らず体力つければいいでしょ」

 僕がそう言うと父は力無く微笑んでそうだな、と言った。

 雲間から覗く太陽が群青色の空と雲にささやかな橙色を添えていた。陽は傾き始め、帰り道に踏み出すと少し風が出てきた。僕は吹いてくる風から父を守ろうとして前に立って歩いた。

 しかし、風よけに徹しようと思って後ろの方に注意を払っているはずなのに、いつの間にか父を置き去りにしてしまっていた。まだ野球場から二〇〇メートルも歩いていなかっただろう。

 僕は済まないと思いながらも、少し苛立ちながら父のところへ戻った。

 咳き込んで、はあはあ、と息を荒げ両膝に手をついて休んでいた。

「どうしたの? 大丈夫かい」

 僕のかけた言葉は、叱責と苛立ちを含んでいた。言葉ほど気持ちは優しくなかった。

「ああ、大丈夫だよ。大丈夫」

 父は苦しそうに答えた。これも気持ちと言葉が裏腹だった。

「頑張ってよね。最初からこれじゃあ富士まで行く体力なんてつかないよ」

「はは、そうだな。頑張らなきゃ」

 父の額に汗が見えた。僕がタオルでそれを拭ってやると、意を決したように父が言った。

「なあ、すまないけど家までおぶっていってくれないか。ちょっと」

 父はそこまで言って言葉を切った。

「えー? 家まで結構距離あるよ。おぶっていってもいいけど、それじゃあ体力つかないよ。甘えてちゃあ駄目だよ」

「ああ、でも思ったより長くてな。こんなに体力がなくなってるなんて思わなかったよ」

 父の弁解が嫌だったが、本当に辛そうだった。僕は少し考えてからいいよ、と背を向けて腰を下げ、父の手が肩にかかるのを待った。しかし、父は答えず何も言わないまま腰をかがめて呼吸していた。僕はまた苛立って言った。

「どうしたの? さあいいよ、背負うから。それとも怒ったのが気に入らないの?」

「ああ、違うんだ。ありがとう。怒ったなんて思ってなかった。ただ、お前が言う通りだと思ってさ。これじゃあ体力はつかないよな。やっぱりいいよ、自分で歩くから。自分の子供におぶって貰うのも格好悪い」

「そんなことないって。さあ、いいから背負うよ」

「いや、いいんだ。本当に。もう大丈夫だ」

 そう言うと父は先に歩き出した。

「いいよ、おぶさりなよ」

 後ろから呼びかけながら後ろめたい気持ちになっていた。何故病気なのに優しくしてやれないのだろうか? 何故即座におぶってやらなかったのか? そう自分を責めた。

 実際、背負ってやることぐらい簡単なことではないか。父は痩せてしまって僕は大きくなっている。僕は背負っても体力が加えられるばかりだが、父は無理をして歩くことで差し引かれていくばかりだったのだ。

 先を行く父は以外と速い歩みで進んでいた。その足取りを見て少し安心したが、

 背中の小ささに気づき、またしても得体の知れない不安が心の中に広がっていった。小走りで父に追いついて、辛かったら背負うよ、ともう一度申し出た。父は小さく頭を振り、僕の目を見ないで言った。

「いい。いいんだ。もう大丈夫だから。俺ぁお前の親父だもんな。さっきよりは大分元気が出てきたから」

 荒い息を吐き出しながらの言葉が強がりに聞こえた。しかし、黙って父の横について歩いた。風は弱くなっていた。

 父はこの後何度も止まっては休み、その度に僕の申し出を頑ななまでに断り歩き続けた。僕らは往きの倍以上の時間をかけて家にたどり着いた。


(続)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?