僕は骨を噛む 1
瑞穂 陽尺
一、
閉めきった部屋の中を漂う空気には形にならない父の言葉と思いがないまぜに漂い散らばっていた。
胸と腹を侵し続ける病魔とそれに抗じる薬へ戦場を提供する痛み、変わり果てた自分への苛立ちと以前の自分への憧憬、呪いにも似た嘆き。澱んだ空気は、そこへ足を踏み入れる僕の心にいつしか忍び込み、何かを語りかけようとしてくる。
しかし、忍び込んできた空気は何も訴えては来ない。形にならない思いが僕に正確に伝わってくることはない。伝わるにはあまりに薄まりすぎ、弱すぎるのだ。
僕は空気とそれを澱ませるものどもをかきわけ、時には胸一杯に吸い込むことも厭わず中にある声のようなものをつかまえ、理解しようとしてみる。だが、それはいつも徒労に終わる。
父は僕の目の前で干からびていった。急速に、そしてあっけなく。目に付くところ殆ど全て、そして心の中までも。
元気だった頃には溢れんばかりに身体を満たしていた精気や生命力は奪い去られていった。快活で話好きだった父。営んでいた床屋にはお客さんでない人も訪れ、雪深い田舎町の賑やかな社交場の良きホストでもあった。しかし既に見る影もない。
四肢は先まで細り、目、頬はいうまでもなく、胸元や臀部のように本来ならこんもりとしているはずの部位は、中からこそげ取られたかのように肉が落ちていた。骨の上に薄く皮が載ることでようやく人間の体裁を成しているだけだった。
着替えるか寝返りを打つかして身体を動かすと皮膚の裏で骨が舐め滑る。その様は父の中に巣くった忌まわしい生き物が身体の奥で這いずり回っているようにも見えた。
父に意志はあったが、それを具現化する手段は奪われていた。病院から戻ってきた当初は、歩いたり身体を動かすこともできた。動作の速さを別にすれば、それまでと変わらなかった。
しかし、病気の進行に伴いその動きはみるみる鈍り、やがて自分の力で寝返りを打つことさえままならなくなった。そしてつい最近までは思うように動かせない自分の身体に苛立ちを感じて声を荒げることもできたのに、声を出すことさえままならなくなっていった。
張りがあって力強かった父の声。その声を紡いでいた無数の糸は編み物が解れるように失われていき、今ではほんの数本しか残ってない。日毎に糸の繊維は失われていき、少しでも力がかかれば切れてしまいそうなか細い声は父の生命力そのままだった。
声がうまく出せない時、父は喉からか腹からか声のような音を捻り出す。それは声にならずに喉を抜けた風切り音だった。父のいる部屋から離れたところにいても聞こえてきた。
虚無な、しかし切実で逼迫した響き。簡単には空気を出し入れできないほど傷んだ肺と胃なのにどうやって音を出しているのか。父は通り道が塞がった道にささやかな発破を仕掛け、ようやく空いた穴にそれだけしかないありったけの空気を送り込んで、母や僕らに訴えていた。
途切れ途切れの呻き声が起こると、看護する母のうたた寝は中断される。目を覚ました母は父に大丈夫かと問いかける。心配そうに、とか優しくとかいう言葉では表現しようもない逼迫した問いかけ。間際に迫ってきていたものがやってきたのかと錯覚してもいたのだ。
父は一年半前、市内の大学病院に入院した。その半年ほど前から肌が赤茶色に変色し始め、薄く白い斑点が浮いてきた。やがてひどい痒みを覚えるようになり、身体のだるさを訴えるようにもなった。
変調に気付いてからは怪しげな薬のような強壮剤をあれこれ買い込んで試していた。時には蜥蜴の干物を摺り潰して口に入れ、聞いたこともないような薬草を煎じては鼻をつまみながら呑み込んでいた。
しかし、それらが全て無駄と分かると隣町の大きい病院に赴き、単なる皮膚病と診断された。塗り薬を貰ってその時はもう治る気でいたが、症状は一向に回復しなかった。
ようやくことの重大さに気付き、大学病院で精密検査を受けた。皮膚の異常の原因がよく分からない、これは膠原病(こうげんびょう)です、と医師に云われた。
膠原病? なんとお手軽で適当な病名だろう。そんな病気がどこから来てどうなっていくのか誰も知らない。聞いたことのない病名に母は狼狽えた。
伝染病なんですか、私達にはうつりませんか。もっともな問いかけに権威ある大学病院の医師は答えた。うつることはないと思います。現在はまだこの病気のことはよく分かっていませんが、うつりません。いまは御主人も大丈夫です。
そう、その時は大丈夫だった。家族に父の病気がうつることもなかった。しかし、父の体内では病気がうつっていた。入院してから年を越すと父は胃ガンと診断された。
その診断が出るまでに父の身体はさんざん切り刻まれ、蜥蜴(とかげ)や薬草に見劣りしないほど刺激が強く聞き慣れない薬で洗浄され、決して無害とはいえない放射線で体内を透かし見られていた。
原因不明で正体不明の病気。そんな患者は大学病院という学術研究の場では格好の実験材料にされた。
体のいい医学生のモルモットは好奇の目で見られ、最先端とかいう治療が施された。結果として我が家は治療費という名目で実験費用を支払わされていた。母の言葉を借りれば、家が三軒建つほどの額だ。
金銭面もさることながら、母にかかる看護の負担も相当なものだった。父が家に戻ってきて半年、寝たきりになってから三ヶ月。この間、文字通り付きっきりで父の面倒をみていた。
消化にいい食事を用意し、それを口に運び、身体を拭き排便を助ける。自由に動けなくなってからは体の向きも変えてやり、息苦しさを訴えれば吸入器をあててやる。
眠ってから何か異常があっても、すぐ対処できるようにベッドのすぐ脇で寝ている。肉体的にも精神的にも疲れは相当なものだっただろう。顔つきが次第に変わっていき、以前なら怒らないようなことで怒り、笑って済ますような子供達の過ちや些細な悪戯にも厳しく対するようになった。
その一方で独り嘆き、一家の行く末を案じてもいた。あるいは僕が吸い込んでいた空気には、母のそんな気分も漂い含まれていたのかもしれない。
この部屋は父が戻ってくるまでは茶の間で、賑やかな一家の団らんの場だった。歳の離れた兄姉は父を気遣ってか、あるいは神経質になってしまった母を嫌ってか、ここには寄りつかなくなっていた。
しかし、僕はまだ歳も浅く、拠を求める母の八つ当たりの餌食にならずに済んでいた。学校から帰ってきても、テレビもなく父の息の音しか聞こえないこの部屋で宿題を片づけたり、本を読んだりしているような静かな子供だったからだ。
ほどほどにおとなしく、都合良く話し相手にもなる僕は、ちょっとした息抜きができる小動物か観葉植物のような存在だった。
僕は自分の役割を理解していた。母が望むように振る舞い、間抜けでおかしな台詞をところどころで発した。
母は母で、一時でも現実を忘れさせてくれるのなら何でも良かったのだろう。僕に調子を合わせて心配事なんて何もない呑気なふりをしていた。
僕と母は寝たきりの父と仏壇に飾ってある曾祖母の写真の前で即興のコメディーを演じていた。家の裏には痛風持ちで半身不随の祖父もいた。そちらの面倒は祖母が看ていたからいいようなものの、母にすればそんな余興でもなければ、やっていられなかっただろう。
父とは少しずつだが毎日話をした。聞き役はいつも父で、僕は学校での出来事、最近作ったプラモデルの出来映え、二週間遅れで知るレースの結果等をほぼ一方的に流し続けていた。
大抵、父は興味があるのかないのか分からないような相づちを打つばかりだったが、レースの話だけは違った。もともと車が好きな父はF—一レースに興味を持つようになり、やがて一番の共通の話題になっていった。
きっかけは僕が病院に持ち込んだレース雑誌だった。それまではただ知っている国内のレースの結果を気にしているだけだったが、入院した年の晩夏のある日、思い出したようにF—一のことを僕に訊いてきた。
「なあ、そういえばニキ・ラウダっていうF—一レーサーはどうなった? ドイツのレースですごい事故やったんだろ。クラッシュして火だるまになったとか。もう死んじゃったのか?」
「ああ、ラウダね。事故した時、他のレーサーに助けられてるから。でも、その時に酷い火傷したんだよ」
「じゃ、死んでないのか?」
「うん、死んでない。何だか次のレースから復帰するらしいよ。最新号はまだ買ってないから詳しくは分かんないけど」そう言うと、おねだりにでも聞こえたのか、父は母のいない時に僕にお金をよこして新しいレース雑誌を買いに行かせた。丁度発売したばかりのその隔週発行の雑誌には、二週間以上前のイタリアGPの結果が速報として載っていた。ニキ・ラウダはこのレースから復帰し、何と四位に入賞していた。ドイツGPの事故から一ヶ月と少ししか経っていないというのに。速報という割には掲載するまでに時間があったのか、事故後の顔写真も載っていた。
「ほら、これが今のラウダだよ」
僕はそう言ってニキ・ラウダがヘルメットを脱いで写っている写真を見せた。
「うわあ、こりゃ酷いな。火傷か」
父は一瞬息を呑んで僕の顔を見て言った。驚くのも無理はなかった。タイヤ会社のキャップを目深に被ったラウダの顔は無惨なケロイドで覆われていた。
まだ若い彼の皮膚は醜く赤茶け、無数の皺が刻まれてまるでSF映画に出てくる地底人か半魚人のようだった。嫌らしいことにその写真の横には事故前のハンサムな青年の写真がレイアウトされていたので、悲惨さは一層増していた。
「うん、火傷みたいだね。身体の方も相当やられてるんだって。あー、写ってない方の耳は半分溶けてなくなったんだって」
僕は記事を読み上げた。
「ほんとか。しかし、すごい火傷だな。こんなに酷い目に遭ってよくレースにまた出る気になれるなあ。それで完走して四位に入ったんだもんな」
「勇気があるんだよ。元々の実力もすごいし。ラウダはね、去年は『水の上も歩いて渡れるかもしれない』って云われてたんだ」
「それってどういう意味だ?」
「いつもポールポジション取って連戦連勝で神様みたいにできないことがないんじゃないかってことの喩えさ。マシンのセッティングもレース運びも全部計算尽くだもの。だけど、そんなレーサーでもミスするとこんなになっちゃうんだね」
僕のその言葉に父はただ頷き、しばらく黙ってニキ・ラウダの写真を眺めていた。
「すごい火傷の跡だ。でも、こりゃ似てるな」
「誰に?」
「俺だよ、父ちゃんのこの皮膚の病気と似てるじゃないか」
「ええ? あんまり似てないよ」
確かに肌の色が似ていたが、ラウダのはもっと形がいびつだった。それに父の皮膚は内側から侵されていたし、怪物にも見えなかった。
「いや、似てるよ。父ちゃんはこれからニキ・ラウダを応援するぞ」
その時からニキ・ラウダは父と僕のヒーローになった。父は病気が治ったら、その年の秋に日本で初めて開催されるグランプリへ応援に行けたらいいなと言っていた。しかし、果たせなかった。当然ながら医師と母の反対に遭ったのだ。
(続)
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