僕は骨を噛む 6

  六、


 母が朝食を食べさせ始めたので、僕は二階にある自分の部屋に上がっていった。

 父が言ってきた言葉を思い出していたが、その意味を考えまいとしていた。そして絵を描き始めた。またもニキ・ラウダとフェラーリの絵だった。

 しかし、何故かいつものようにいかなかった。タイヤの楕円形やバックミラーの微妙な曲線がうまく描けない。地面と平行に浮かぶウイングがぶれてしまう。ヘルメットが美しい曲面を成さない。

 手が震えていたのだ。僕は泣いていた。父の言葉の意味を考えないでいることは何とかできていたのだが、表情と言葉を思い出すだけで自然に涙が出ていた。

 悪い父ちゃんでごめんな、と言う父を思い出しながらそんなことはない、そんなことはないさ、と僕は繰り返し呟いていた。

 昼になると叔父がやってきた。今日からしばらく泊まるからよろしくな、と昼御飯を一緒に食べながら言ってきた。

 しばらくというのはいつまでなのか訊いた。叔父は少し考えて、いつ頃かは分からないけどなるべく長く、いっぱい泊まれればいいけどな、と言った。仕事はどうするの? そう訊くと笑って店は叔母さんに任せとくからいいんだよ、と力無く笑った。

 叔父の逗留が始まって五日目の金曜日、僕が学校から戻ってくると主立った親戚達が家に揃って何やら話し込んでいた。

 父のところへ挨拶に行こうとしたら、今は寝ているから部屋へ行くよう母に言われた。父は目を閉じて確かに眠っているようだった。

 しかし、僕が部屋の戸を開けた時に反応していたようにも見えた。寝てないよ、と言おうかとも思ったが、母の口調に有無を言わせぬ調子を感じてやめた。

 戸を閉めて階段を上がる途中で部屋の中から僕の名前や、可哀相だけど、とかあの子も健気ね、などと喋る会話の断片が聞こえてきた。

 茶の間に行ってはいけないような気がして、裏庭に面した自分の部屋で過ごした。

 宿題を片づけるでも絵を描くでも、何をするわけでもない。裏庭に積もった雪の色が白から弱々しい夕日の色に、それから黒の強い群青から色を失っていく様子をただ見ていた。

 帰ってきた時刻にたなびいていた細長い雲は、夕方にはべったりとした重い雲に変わっていた。ストーブをつけていた部屋の窓ガラスには結露で無数の水滴ができていて、ところどころ膨らんでいた。

夕食だと母に呼ばれて階下に降りていくと、茶の間で食べるように言われた。

 いつもなら親戚は皆、夕食が終わった頃にやって来るのだが、今日は早く揃っている。長いテーブルの上に出前の鮨が並んでいた。既に何人かは食べ始めていた。

 兄と姉は無言のまま、まずそうに鮨を口に運んでいた。確かにこんな空気の中でこんなものを食べさせられてもおいしいはずがない。僕も座って食べ始めた。

 まずさを紛らわすつもりなのか親戚達に何度か話しかけられると、自棄気味に快活を装い、意味もなく語気を強めた答えを返していた。こいつはちょっと変だと思って貰おう。

普段はそう思わないのだが、父の見舞いとなると叔父以外の親戚は好きになれなかった。

何の根拠もないが、親戚達の見舞いは哀れみに来ているだけのように見えたのだ。本当に容態を心配して来ているのは叔父だけだと思っていた。

親戚達が引いてしまうような態度は抗議のつもりだった。来たくもないのに来ることはないでしょう。あなた達が言うみたいに健気でもないし、母を盛り立ててもいない。本当はそれだけ言って口を閉じてしまいたかった。

 要するに親戚達が嫌いだった。僕は話したくないのに話す自分を通して、来たくもないのに来ている親戚達を表現しようとしていた。

 しかし、誰がそんなことを見て取ろうか。あまりに分かり難すぎる愚かな表現だ。すると、明るい調子で要らないことまで捲し立てる僕を勘違いした誰かが小さいのに強いのね、と煽てた。

 我慢と緊張はその一言でプチンと弾け、僕は食べるのを止めて何も言わず席を立った。皆が見ていたが構うものか。

 戸を開ける間際にチラリと父の方を見た。騒がしいはずだが、関係なく目を閉じて眠っていた。父の側にいた叔父と目が合った。

 部屋に戻ると窓から月明かりが射し込んでいた。寒い夜だった。

 ストーブを消して茶の間に降りていた間に窓の水滴も少しは締まりを取り戻し、滴りを止めていた。

 無用に火照った身体に部屋の冷気が心地よく触れてきた。水滴のスリット越しに外を見ると雪が弱い月明かりに照らされ、ぼおっと青白く浮かび上がっていた。

 空では月にまとわりついた雲が濁った水のように忙しく流れながら増え続け、光を奪っている。その一方で地上では何も動いていなかった。

 真っ黒な木々も、それを包む空気も、光もだ。下の風景だけ見ていれば、目の前の時間が止まっているかのような錯覚に陥りそうだった。

 しかし、見えないところで時間は流れていた。目を逸らしたところで時間は動いていたのだ。月は濁りの中に消え、裏庭の雪はゆっくりと光を失い、表情のない闇に近づいていった。

 部屋の中もつられて暗くなっていったが、目が闇に慣れ始めていた。

 窓ガラスの表面に微かな光に映える水の帯を見つけた。育ちすぎた結露が自らの重みに堪えきれず破綻して零れ、他の粒達を巻き込んで不規則な水の流れを成している。

 近づいて見ると様々な粒があった。どの粒が落ちてどの粒が落ちずにいるのか。何故小さい粒が落ちることがあって大きい粒が落ちないままでいることがあるのか。そうである理由はどこにあるのか、と僕は考え始めた。

 しかし、無意味なことだった。どれが粒のままで、どれが水になって流れ落ちるのかなど誰かが決めているわけでもない。水の粒達が自分で決められるわけでもない。

 そこに何か法則めいたものがあるわけでも何でもないのだ。仮にあったとしても、僕には永久に理解できないだろう。

 指先で一つに触れてみた。大きな滴は指の熱で暖められて動かされ、均衡を失って下へ流れ落ちていった。その軌跡は予想に反して真っ直ぐではなく、左右に折れた複雑な線を成した。

 ふいに水の粒達が憎らしく思えてきた。いや、憎らしく思えたのはその粒達の運命や水の軌跡を司る何かだったのかもしれない。

 目に見えないところで僕らに影響を及ぼす法則。努力しても願っても叶えられない希望。予想もつかない結末。そういった手の届かない全ての事象に怒りと苛立ちを覚えていた。

 何かに導かれて調和を保っている窓の結露に破綻を加えてやりたくなった。両の掌をいっぱいに広げ、ガラス窓の表面を強く擦った。間の抜けた音が掌と窓ガラスの間から起こり、滴が水の帯になって下に落ちていった。

 光の帯の線は一層複雑になり、無秩序な水の反射は外の景色を出鱈目な白と黒の歪みに変えていた。虚しい行為だった。結露の滴を破綻させても何が変わるわけでもないというのに。

 白くなり始めた息を吐いて窓から離れ、机に座った。部屋の灯りはつけず、机に備え付けの小さな蛍光灯の下で、F—一のデッサンで埋め尽くされたスケッチブックを開いた。

 絵の左下には描いた年月日が記してある。僕は順を追ってその絵を眺めた。絵と描いた時期を見て、その時に父がどんな状態だったのか思い出していた。

 最後の散歩に出かけた時に描いた絵を見た。黒いキャップを目深に被ったニキ・ラウダがこちらに鋭い視線を向けている。写真をそのまま模写したその絵では、斜め前から見た耳が半分欠けていた。

 彼は欠けた耳を写そうとするカメラマンを睨んでいたのだ。僕はその絵をずっと見ていた。そうしていると、まるで父と向き合っているような気分になっていた。

 絵の中のニキ・ラウダは背負うのを申し出た僕を拒む父と同じ眼をしていた。もしかしたらこの絵を描く時、父を描こうとしていたのかもしれない。表情に含まれた怒りのようなやるせなさのような悲しみのような感情。

 いつか病室で父が自分と似ていると言ったのはこのことだったのだろうか。溜めていた息を吐き出した。長い時間、その息を呑んでいたのだ。

 何故そうしたのか今でも分からないが、僕はそこで消しゴムを取りだしてその絵を消し始めた。ニキ・ラウダの目と欠けた耳、ケロイドで覆われた頬、端正だった鼻筋、竦めた肩、とにかく全てだ。

 黒くなった消し滓を取り除きながら右腕を動かし続けた。そして日付だけ残して自分で描いたその絵をさっぱりと消してしまった。隣のページのヘルメットを被った絵も、他のページのレガツォーニを従えて走る絵も、ステアリングロックでモナコのヘアピンを抜ける絵もだ。

 何時間もの間、憑かれたように右腕を動かし続け、スケッチブックに描いた絵を全て消し去った。

 一体どれくらいの時間が経っていたのだろう。息を吐くと白く長く凍っていた。しかし不思議と寒さは感じなかった。身体が火照っていたのかもしれない。

 ただ腕のだるさと虚脱感だけを感じながら半分以下に減った消しゴムをペンケースの中に置いた。日付だけ残してあとは真っ白になったスケッチブックを改めて左手で繰りながら、ページの一つ一つに何が描いてあったのか思い出そうとしたが、容易に思い出すことはできなかった。

 この辺りにあの絵が描いてあった、と思う程度だった。日付と父の病状は一致するのだが。最初に消したページはすぐに分かった。ためらいか注意不足か、よく見ると絵の輪郭がうっすら残っていた。

 僕はその輪郭に父の顔を当てはめてみようと思った。そしてペンケースからデッサン用の濃い鉛筆を一本取りだして描き始めた。

 描き始めてはみたものの、顔が全く描けないでいた。スケッチブックに残った線に沿って少しは似通った輪郭の父を描こうとするのだが、どうやっても父の顔にはならないのだ。

 僕は父の顔を思い起こそうとした。ぼんやりとではなく、模写できるくらい明確に思い出そうとしてみた。しかし、できなかった。思い出して描こうとしていたのは病気前の顔だったのだが、浮かんでくるのは最近の痩せ細った弱々しい父の顔ばかりだったのだ。

 いくら書き進めようとしても、できるはずもなかった。顔の線を描き、眼と鼻と口の位置を決める。ここまではできる。

 しかし、首を描こうとするとどうしても細く描いてしまい、眼を入れようとすると瞼を閉じかけた薄目になってしまうのだった。

 そうしているうちに初めは正しいと思っていた輪郭も間違っているように思えてきた。

 そして消し残した輪郭よりも内側に改めて線をひき始めた。その正しい線は無惨なまでにニキ・ラウダの輪郭の内側を通り、拉げて逆さにした卵のような形を成した。

 中心に大きな鼻を置き、上の方が厚い唇、薄く下がった眉、切れ長の眼を描いていった。短く揃えた癖毛、頬から顎にかけての皺、両眼の周りの陰影、不自然な痘痕。僕はそれらを思い出せる限り忠実に手早く描いていった。

 描き上げた絵を見直して愕然とした。

 今まで描いたどの絵よりも実物に近かった。恐らく写真を撮ってみてもその絵の方が父の様子を象徴的に捉えていただろう。

 それは頭の中にとっておいてある父ではなかったが、紛れもない父だった。

 スケッチブックの中にいたのは、死に神に精気を吸い取られた哀れな男だった。どれだけ同情してもし足りないくらい惨めな生きた死人だ。目の前にいるだけで怒りを覚えそうなくらい情けなく力のない眼で男はこちらを見ていた。

 何を言いたい? 何を望んでいる? 問いかけても男は答えない。男にはそんな質問は無意味だからだ。これから死にゆく人間がそんな質問に答えを用意できるはずもないのだ。彼は何も言いたくはないし、何も望んではいなかった。

 ただ死の淵にあり、こちらを見ているだけのことだ。彼は僕を見ながら思いだしているかもしれない。昔のことを。そして懐かしんでもいるかもしれない。僕と同じ子供の頃の自分、僕と一緒に過ごした自分を。

 父ちゃん、と呟き、よくそうするように両手でスケッチブックの父の髪を整えるように撫でた。身体は震え、背筋が火照り、目頭が熱くなっていた。

 手の上に涙が幾つか落ちた。それらは指先を伝って絵に零れた。どれくらい零れたのか、何粒もの涙が馴染まずに父の頬の上で玉のようになっていた。

 父は潤いを拒絶していた。乾いたままでいいのだ、と。スケッチブックを持ち上げると涙の玉は流れ落ちた。

 その軌跡を見てガラス窓の水滴を思い出した。そして、えも言えぬ虚しさと怒りを感じ、どこが違う、どう違うんだ、と窓ガラスに向かって叫んだ。

 僕は机の上に転がっていた鉛筆を持ち、描いたばかりの絵の上に不規則な線を引き始めた。その絵を消してしまいたかったのだ。これ以上ないというくらい強く、擦るように線を引いた。

 細い線が無数に生まれ、黒で覆い隠していった。線を引く力は次第に強くなっていった。後の方は引くというよりは尖った鉛筆で絵を傷つけるといった方が正しかっただろう。

 真っ黒な線だけになったスケッチブックに穴ができ始めても、僕は狂ったように手を動かし続けた。

 と、そのとき押しつけていた鉛筆が、握っていた根元からボキっと音をあげて真っ二つに折れた。右手が不意に力のやり場を失い、不自然な動きで机に落ちた。スケッチブックの白い部分に赤く小さな粒が数滴散った。

 その赤は過剰な光を浴び、白と黒を圧するように光り輝いていた。手を動かすとその赤は黒光りする線の塊に落ち、滑った。滴りの元を見ると親指の付け根に折れた鉛筆が刺さっていた。

 痛みを感じないまま呆気にとられて血が落ちる様子を見守っていた。心臓から勢い良く送り込まれた血は不意の決壊に戸惑いながら滴っていた。

 血が美しいと思った。

 自分の中にこんなものが潜んでいたことに驚いてもいた。

 僕の中には命があった。血を生み出し、それを身体中に送り込む生命力が存在していた。

 僕は自分が憎んだのと同じ法則に基づいて生きている。それに気付いて目眩さえ覚えた。

 病院で見たあの死体の女性は手首を切り、自分の中に生命があることに気付いただろうか。血にまみえて死を畏れなかったのだろうか。

 それに動じないほど決意は固かったかもしれない。あるいは怖じ気づいて止血を試みたかもしれない。

 もう確かめるわけにもいかないが、彼女はきっと気付いただろう。そして取り返しのつかないことをしたと思っただろう。きっとそうに違いない。でなければあまりにおかしすぎる。気付かないままに死んでしまうなんて。

 傷口を手に持っていき、口に含んだ。血は身体に馴染むように暖かく、匂いのない濃厚な汗のような味がした。

 それは少しの間、口の中に流れ込んできたが、ほどなくして止まった。口を離して親指の付け根を見ると、若く赤い一本の筋が入っているだけだった。

 僕はまだ死ぬことはない。


(続)



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