僕は骨を噛む 2
瑞穂 陽尺
二、
ニキ・ラウダはこの年、奇跡的な復活劇を演じてみせた。この後の二戦中に一度入賞を果たし、チャンピオンに望みをつないで最終戦の日本GPに臨んだ。
しかし、富士スピードウエイで行われた決勝はコース上に川ができるほどの豪雨となった。通常なら中止になって当然の天候だったが、主催者はレースを強行した。
しかい、ニキ・ラウダはコース状態があまりに危険だと判断し、スタートしてから二周でマシンを降りてしまった。途中棄権だった。
その結果、彼のいない間に勝ち星を重ねてきたジェームズ・ハントに僅かな差でチャンピオンの座を明け渡してしまったのだ。父とはよくその判断について話した。
「あの日に雨が降らなかったらなあ」
父はニキ・ラウダの敗北を天候のせいにしているように思えた。
「雨とか関係ないって。ラウダは走った方が良かったよ。せっかく根性で復帰してあそこまで行ったんだから、もう少し頑張ればよかったのに。ライバルが走ってるのにたった二周でレースを棄権しちゃって。フェラーリから勇気がないって云われてるんだよ」
瀕死の重傷から復帰したラウダを賞賛して已まなかったフェラーリの総帥エンツォ・フェラーリは、日本GPの棄権で掌を返したように非難したという。
「いやいや、走らなくて良かったんだよ。勇気もあった」
「何で? 意気地がないよ。他のレーサーがスタートしたのに走るのをやめるなんてさ」
僕もエンツォ・フェラーリと同意見だった。しかし、ニキ・ラウダのために付け加えれば、他に三人のレーサーが同様に危険を感じてレースを棄権している。
「多分、ラウダは死ぬことの怖さと生きてることの大切さが分かってたんだな。あの事故がなかったら、休まず走り続けてチャンピオンになれてたかもしれないけど、他のレースでドイツみたいな事故に遭ったかもしれない。レースの結果はどうでもいいと思ったんだよ。何にしても命が一番大事だってね。それと勇気っていうけど、みんなに非難されてもそこで自分の命を守ろうとすることも勇気がある、というか当たり前のことじゃないか?」
「いや、違うよ。ラウダは走った方が良かったよ。リタイアじゃなくて棄権なんだ。自分からレースをやめるなんて格好悪いよ」
「でも、事故を起こして死んじゃったら格好もつけられないぜ」
「そうだけど、僕だったら走るよ」
「前も見えないのに道がツルツルなんだぞ、雨の運転は。一緒に高速道路で走ったことあるから分かるだろ。前の車から水しぶきが飛んできて、よく見えないんだ。父ちゃんが走った倍以上のスピードで運転するんだ。怖いぞ」
「怖くないさ」
「ちょっとミスしただけで死んじゃうかもしれないぞ」
父は悪戯っぽく言っておいて真顔になった。
「いいさ、格好悪いよりは」
僕がそう言うと、父は目の中を覗き込んだ。怒ったような哀れむような目だった。しばらく黙ったままそうしていて、父はやっと口を開いた。
「そのうち分かるさ」
そう言うと父は振り返り、もう疲れたとさっさとシーツの中に潜ってしまった。僕は父の贔屓目だと思った。それ以降、ニキ・ラウダの決断について話すことはなかった。
病状が重くなると母は病院に泊まり込むようになったが、そうでもない頃は二日か三日の間隔で病院に出かけていた。家からは電車とバスを乗り継いで一時間半の距離だった。僕は日が合えば土曜日や休日に連れだって病院まで行った。父と会うのもそうだったが、電車に乗れるのと、中を探検して回るのも楽しみだった。
病院の雰囲気を嫌がって僕の半分も訪れない兄姉に患わされることもなく、見舞い客が置いていった菓子を独り占めすることもできた。
不謹慎な旅行気分だったわけだが、家の中で大きな顔をして遊べない末っ子にとって、病院は何をしても放っておいて貰える新しい特別な遊び場だった。到着すると、父に挨拶するのもそこそこに一人であちこち出歩いていた。
それまでにも病院に行ったことはあったが、ここほど大きな病院に来たことはなかった。幾つかの棟が組み合わさって一つの塊になった灰色の建物は、無機質なロボット怪獣のようであり、朽ち果てた宇宙船のようでもあった。
僕は他の星の建物か、全く別の世界からの難破船に見立ててもいた。くすんだ灰色の壁に伝う雨の黒い跡が何かの襲撃の名残のように見えた。中に入ればどこに行っても蒼く陰鬱な光が満ち、嗅ぎ慣れない薬品の匂いが漂っていた。
歩いていて目に飛び込んでくるのは過剰なまでに物が排除された廊下、冷たく鈍い色の床、中性を主張する壁、機械類があふれかえる部屋、腕に管を刺して歩く青年、アンドロイドのように無表情な看護婦、一様に眼鏡をかけて理解不能な単語を並べ過ぎ去る医師、真っ白なベッドに横たわる干からびた老人。
僕はそれらをじっくり眺め、観察していた。どこかに秘密の扉が隠されていないか、彼らは仮面を被っているのではないか、ベッドの上の老人はどこかでしわくちゃの皮を脱いで変態を遂げるのではないか、などとあり得ない想像に胸を踊らせながら。
そんな院内をエレベータでシャトルよろしく移動していた。人の少ない日曜日に一人で乗れればそれはもう僕だけの乗り物だ。スイッチ一つで苦もなく最上階までたどり着き、秘密めいた地下の階へも運んでくれる。
案内のない階や屋上のボタンを意味もなく押しては上がり下がりし、全階のボタンを押しては後から乗り込む患者達から顰蹙の視線を受けていた。そんな習慣は父が病院で年を越した冬まで続いた。
年の明けた冬休みのある日、いつものように母に連れられて病院に出かけた。
朝から雪が降っていた。フル稼働する消雪パイプから流れ出た水がシャーベットのように道端に溜まり、歩みを阻んだ。おかげで駅からの道のりがいつもよりも長く感じられた。
ようやくたどり着いた病院の中は暖房の利きすぎでいつにも増して息苦しかった。
父の部屋に行き、雑誌で読みかじったF—一の情報を伝えるとすぐにお楽しみの探検に出かけることにした。
これから入院患者の昼食だという。僕は父が病院で食事する姿をあまり見たくなかった。病気になるほど濃い味付けを好んでいた父にとって、徹底的に薄味で刺激物が排除された病院の食事は堪えられないものらしく、不満を言わずに食べたことはなかった。
廊下に出ると食事の匂いがし、宇宙食のトレイを満載したカーゴがこちらへ向かってきた。
そのカーゴとナースセンターの前ですれ違い、別の棟に通じる廊下を歩いた。雪明かりだけが射し込む広い廊下のリノリウムは普段よりも冷たい光を帯びていた。
昼どきのせいか、荷物を抱えた見舞い客達と多くすれ違う。平日ということもあるだろう。だからかもしれないが、白衣姿の医師ともよくすれ違う。ひとくちに医師といっても様々だ。お連れを何人も引き連れて歩く者、看護婦と寄り添い歩く者、歩くのも大儀そうな肥満の者。
しかし、医師達の歩き方は一様で患者や見舞客のそれとは異なる。医師らは周回遅れのマシンを蹴散らすレーサーのように勢いをつけた早足で、あるいはそのつもりで院内を移動する。僕は急ぎ足の肥満した医師をあおるように後ろについて歩いた。
歩き進んだ別棟の待合ロビーで看護婦と談笑する若い医師が僕の目に留まった。高い背に優しげな眼。患者から嫉妬を受けそうなくらい血色の良い頬。白衣の上からでも均整のとれた体躯であることが見てとれる。
彼を見た入院患者は羨望の念を覚えずにはいられないのではないか。いや、健康な者でも晴れ晴れした彼の笑顔には目をひかれるに違いない。そればかりか知性も兼ね備えているのだ。
彼は僕が抱く理想の兄のイメージそのものだった。薄暗い待合いロビーの中、彼の周りにだけどこからか光があたっているようにも見えた。
僕はその医師に目を奪われていた。何となく立ち止まり、そちらの方をずっと見ていた。何の先生だろうか。あんなに逞しく優しそうな先生に診て貰える患者は幸せ者だとさえ思った。
やがて彼は僕の視線に気付き、ニッコリと笑いかけてきた。しかし、僕は照れてしまい、お辞儀で返すこともなく振り返って違う方向に向かって歩いた。
挨拶してくれたのに、どうしてお辞儀くらいできないんだ、失礼じゃないか。そう自分を責めながら、院内をあてもなく進んだ。通ったことのない道を選びながら歩いていくと、次第にすれ違う人は減っていき、窓のない廊下に来るともう自分がどこにいるのか完全に分からなくなっていた。
そう思った時、廊下の暗がりの向こうに荷物運搬用のエレベータを見つけた。乗ったことのあるエレベータではないが、これで上の方に出れば方角も分かるのではないか。
銀色の扉の前に立ち、ボタンを押すとすぐに昇降室がやってきて乗り込んだ。荷物運搬用だけに中は広く、汚れている。期待していた停止階の案内は書いてない。僕は最上階のボタンを押そうとパネルに手を伸ばした。その時、ちょっと待って、と誰かの声がした。あの若い医師だった。
ここまで歩いてくる途中で人が後ろにいるとは気付かなかったし、考えもしなかった。僕は驚いて飛び退いた。
「いやあ、ごめん。ごめん。驚かすつもりじゃなかったんだ。さっき待合いのロビーにいた子だね」
そう訊かれたが、僕は荷物用のエレベータに乗り込んだことを咎められるのかと思い、すぐには返事ができなかった。
「ああ、怒るつもりで来たわけじゃないよ」
僕はその言葉にホッとして頷いた。
「うん、やっぱりそうだよね。どこに行くの?」
若い医師はさっきのように優しげな笑いを投げかけてきた。僕はお辞儀を返すことができずに悔やんだことを思い出し、できるだけ快活を装って答えた。
「迷っちゃったんです。それで取りあえず上の階に行って見渡して方角を確かめようと思って」
医師は少しオーバーに頷いた。
「そうかあ。この病院は建て増しとかしてて、造りがちょっと複雑だから。急いでるの? すぐにどこか行かなきゃいけないとか」
「いいえ、そうでもないです。実はこの辺を見て歩いてただけです」僕は医師への償いのつもりで正直に答えていた。
「そうか、やっぱりね。君のことよく見かけてたから。でも週末しか来てないから誰かのお見舞いなんでしょ?」
若い医師が自分のことを覚えていたことに驚き、またどこか嬉しく思った。医師と共にエレベータで最上階に出て、病棟の廊下を歩きながら話した。
自分が五年生であること、父の見舞いであること、父の病名などを彼に教えた。医師は病気の話になると顔をしかめてふんふんと頷いていた。膠原病ってどんな病気ですか? と僕が問うと彼は少し考えて答えた。
「専門と違うからあんまり詳しくは言えないけど、臓器をつないでいる組織を全身的に冒す病気だよ。自己免疫疾患てやつだな。リウマチというか。お父さんみたいに皮膚に異常がでることもあれば、筋肉や関節に痛みが出ることもあるんだ」
「治るんですか?」
専門ではないという医師に、僕はすがるように訊いていた。
「うーん、病気は何でもそうだけど、早いうちの治療なら治るね。ペニシリン投与とか、血漿交換療法とか。ただ根本的な治療方法はなくて、結局は違う病気になっていくケースもあるっていうし」
医師の答えの歯切れがだんだんと悪くなっていった。それに話に出てくる言葉の幾つかが理解できていなかった。
これ以上病気について訊くのが済まないような気になって、話題を変えた。
「先生は留学とかしたんですか? アメリカとか」
全く唐突な質問だった。しかし、医師は戸惑うこともなく優しい口調で答えた。
「いやいや、僕は留学させて貰えるほど優秀じゃないよ。学生の時にヨーロッパを廻ったことがあるくらいだな。親に金を出させて」
医師はそう言って笑った。
「フランスとかイタリアですか?」
「うん、フランスもそうだけど、アルプスより北のドイツとかベルギーとか」
「向こうってレースが盛んなんですよね。日本と違って」
「そうだよね。新聞とか見てもスポーツだとサッカーかレースの記事が多かったしなあ。バイクも自動車も。ヨーロッパはいろんな意味で日本と違う」
「レースとか好きですか? 自動車の」
「ああ、わりと好きだよ。たまに観戦に行くし。フランスに行った時に初めて観てからだな」
「F—一ですか、それ?」
僕は色めき立って聞いた。
「いや、違う。ル・マンだよ、二十四時間ずっと走るレース。あれはスポーツカーだよね。町の一角を使って屋台も出て、お祭りみたいだったなあ」
「いいですね。僕も外国に行って見てみたいです」
「外国じゃなくてもいいじゃない。日本でもやってるでしょ。富士にもF—一が来たんだよね。そういえば三年前にも富士まで観に行ったよ。あの時はすごかった。何人も死んじゃって。レースは何の異常もない健康な人間があっという間に死んじゃうから残酷で怖いよ。まあ、だから面白いんだろうけど」
健康な人間があっという間に死ぬ、という言葉を僕は心の中で反芻した。健康でない人間はいつ死んでもおかしくないのか。
「事故で死んだ人とか見ました?」
「いや。あれはバンクの方だったから、僕のいたところからじゃ全然」
そう言うと医師は今まで見せなかった歪みのある笑みを浮かべ、僕をじっと見て訊いてきた。
「死んだ人に興味があるのかい?」
突然の質問にすぐ答えられなかった。医師は質問を継いだ。
「死体を見てみたい?」
死体なんて見たことはない。見てみたくなくもない。見てみたいのだ。
「見たことはないです」
そう答えて頷いた。
「じゃあ、これから見に行こうか」
そう言って歩みを早めた医師に僕は続いた。彼は僕の肩に手をかけて、霊安室は隣の棟の地下なんだ、と言った。
心を見透かされているような気がして怖かった。肩にかけられた手が時々ギュッと強く締まると、何かを言い聞かせられているような気がした。
(続)
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