僕は骨を噛む 7 (了)

  七、

 ふと誰かが廊下で僕を呼んでいるのに気付いた。父が呼んでいるような気がした。

 空耳か。いや、違う。意識をそちらに傾けると声の主が兄であることに気付いた。

 何だい? 大きい声を出して答えると、大股で歩いてきた兄が部屋の戸を開けて言った。すぐ降りてこい、父ちゃんが死んだ、と。

 降りていくと皆が父のベッドの周りに集まっていた。

 座って虚ろな眼で父を見る母、亡骸にすがって泣く姉、顔を真っ赤にしてあらん限りの涙を流す叔父。その横で泣く伯母、少し離れその様子を見守る者、そういう人達の横で葬儀屋に電話する母方の伯父、僕より遅れて部屋に入ってきて泣き崩れる祖母。部屋の中には取り込みきれないほどの思いが満ちていた。

 やがて叔父が僕に気付いて手招きをした。僕は中に進んでいき、父を間近で見た。目を閉じた父の顔は、この数日の寝顔と何ら変わらなかった。

 しかし、呼吸は止まっていた。胸に手を当ててみても鼓動は感じられなかったが、少し熱が残っていた。皮膚の手触りは古びたゴムのようで、そげ落ちた肉を押しても戻ってはこない。あの女性の死体の感触と同じだった。

 本当に死んでいた。あるいは父は何日か前にもう死んでいたのかもしれない。岸に打ち上げられた朽ち木のような肉体は色も艶も一ヶ月前と変わっていなかった。

 不思議なものだ。この死体がほんの少し前まで呼吸をし、僕らを見て何かを考えていたのだ。

 僕は悲しくなかった。

 心の中を占めていたのは家族や親戚達への憤りだった。殆ど皆が涙を流しているのを見ていると憤りは募る一方だった。

 考えてみればおかしな話だ。皆あれだけ悲壮な雰囲気を漂わせておきながら、僕の前では父の死に一言も触れないでいた。

 母は父の病気が治るという嘘さえついていた。まだ子供の僕を気遣って本当のことは伝えなかったというわけだ。何と白々しくよそよそしい思いやりか。僕には父の死への準備をさせなかったのだ。

 病気の悪化、ひいては死の可能性も言葉で否定されるばかりで父の病状を見極めようと冷静に観察するようになってさえいた。

 兄や姉は違った。父はもう助からないとはっきりと言い聞かされて準備もでき、自然に悲しみを盛り上げてここぞとばかりに泣いている。

 僕は無知で愚かだった。更にいえば臆病だった。類推していけば気付くことなのにそれを怠り、分かるはずのことから目を背けていた。自分も子供であるのをいいことに死を受け容れることを拒んでいたのだ。

 そう、自分に対しても憤っていた。それらを積極的に認めていれば父にもっと何かしてあげられたのではないか。

 そんな気持ちのはけ口を母に求めた。父ちゃんは死なないと言っていたじゃないか、と母を責めていた。

 何を今更だった。

 母は言い返すでも困惑の表情を浮かべるでもなく閉じた目から涙を流しながら、ただ黙ってやり過ごしていた。

 どんなに言葉を重ねても流す涙が増えるだけのことだった。

 僕は攻撃の舌鋒を周りの人達に向けた。別に誰かに特定していたわけでもない。何で泣くんだ? みんな本当に悲しいのか? 父ちゃんが死ぬことくらい分かっていたんだろう? なのに何でそんなにわざとらしく悲しそうな顔をするんだ、本当に悲しくない人はすぐに帰れ、などということを口走っていた。

 叔父や兄が抑えつけてきたが、僕は喋るのをやめなかった。

 母や親戚達に向かって嘘つきめ、と毒づいていた。僕は二階の部屋へ連れていかれた。

 叔父は僕の頭を抱え、背中を叩きながら泣いていた。もうそれ以上言うな、と何度も繰り返していた。

 

 はっきりと覚えているのはそこまでで、その後のことはあまり記憶にない。

 通夜や弔問に訪れる人達に悲しくもないのに体裁を取り繕うために来るな、とかお前らはここに来てはいけないんだ、とか言ってやるつもりでいたのだが、そういう時は祖父の部屋に行かされていた。

 言い損ねたことは祖父と祖母に向かって蕩々と述べていた。祖父達は切なげな顔で僕の話を聞いていた。

 今日三度目の火葬場に兄の運転する車で向かっている。

 一度目は午前中に親族で最後の見送りに来て、二度目には叔父や兄と骨を拾いに来た。

 しかし、二度目は火葬場の職員に追い返されてしまった。もう一度焼かなければいけないから二時間後に出直してくれということだった。

 冬で焼却炉の温度が上がりきらなかったせいかもしれないが、亡骸が十分焼けず骨だけになっていなかったのだ。大部分は焼けていたのだが、胃から胸の一帯が赤茶けて残っていたという。

 ガンが胃だけでなく肺にも転移していたのだ。あまり見ない方がいいと係員に言われたのだが、叔父は見せて欲しいと一人だけ中に入っていき、顔を青ざめ口元を抑えながら戻ってきた。

 町の火葬場は隣町とつながるトンネルにほど近い小山の上にある。最初の時に親族を満載したバスがようやく上がった急な坂も兄の車は苦もなく上っていく。

 骨を拾いに来たのは父に近い男衆だけだ。

 僕はこのメンバーに入っていなかったが、強く希望して連れてきて貰っている。前の二台の車には叔父、母の妹の夫、父の姉の夫などが乗っている。この車にはあぶれた兄と僕だけだ。

 僕は二度目の時も今も一言も喋っていない。父のことを思い出していたからだ。病院でのやり取りや野球場への散歩のようなことを思い出していたのだが、兄に話す気になれなかった。

 僕だけの父との思い出だ。それは歳の離れた兄にしても同じことだったのだろう。何も話さず思い出に耽っているように見える。父と過ごした年月は僕より長いのだ。二度目の坂道を上る時、兄は流した涙を見せないようにそっと拭いていた。

 車を降りた駐車場の脇には除けられた雪が積まれて壁のようになっている。

 儚い壁は裏手の林と火葬場を隔絶するようにぐるりと続き、道の端で途切れている。雪の中に建つ火葬場は別の無機質な世界への入り口だ。

 消しきれなかった誰かの匂いや面影、名残が辺りの空気の中に潜んでいる。これが死の匂いというものなのかもしれない。父の寝ていた茶の間の空気と同じだ。あの大学病院の空気もそうなのかもしれない。ここには僕がずっと捜していたものがあるはずだ。

 不自然に明るい挨拶の声がして火葬場の職員が現れた。今度は大丈夫ですよ、と叔父達を招き入れている。

 火葬場に入るとフレームに素焼きの寝床が乗った台車付きのベッドが出されていて、その上に細かく砕けた灰色の石のようなものが転がっていた。

 焼きすぎてちょっと割れちゃいましたけどね、と職員は申し訳なさそうに言っている。兄が僕の肩を突いて言った。あれが父ちゃんの骨だ、と。

 それは確かに骨だった。高温に晒されていた寝床に近づくとムッとした余熱が顔にあたる。僕は兄と並んで身体の形に並んだ骨の欠片を眺めてみた。

 頭の天辺から目の前のつま先までまんべんなく。そうだ、確かに身体の形に見える。父の身体はこんな灰のようにつまらない色の骨になってしまったのだ。

 ほらここですよ、と職員が腹から胸にかけて指でなぞっている。この辺りが焼けなくて残っていたんだ、と叔父が言葉を継いだ。

 皆その部分を見た。そこだけ色が違っている。ただの赤茶というよりは黒ずんだ赤で、まだ生きているうちに焼かれてしまった生き物の血の色に思えた。

 固まって僅かに隆起したそれは父の骨に張り付いて染みついて一体化していた。焼き殺されたその忌まわしい生き物は死んでもなお存在を主張している。こいつは父よりも強かったのだ。

 ガンは怖いな、と向かいにいた伯父が呟いた。血のつながっていない彼から初めて聞く実感のこもった言葉だった。

 彼が手を合わせると皆が同じようにした。職員は作業帽を脱いで一礼し、手を合わせた。顔にあたる熱気に堪えかねて天窓を見上げると空の色が薄い橙に変わり始めていた。

 叔父がどこからか骨箱を持ってきた。これで骨を拾って上げて下さい、と相棒の職員が一人一人に言いながら長い鉄の箸を渡している。僕には使いにくい長さだった。

 その様子を向かいで見ていた伯父が使いにくかったら無理するなよ、と言ってきた。僕はそれに反抗するように足先の骨をつまみ始めた。脇には幾つかの塵取りのようなものがあり、拾った骨は一旦そこに収めていく。

 骨拾いは伯父や兄が時々すすり泣く声が聞こえるほかは黙々と進められている。男だけで来たのも納得がいく。女達が叔父のように泣いてばかりだと捗らないだろう。それにあの骨の様子はあまりにも無惨で悲しい。

 僕と兄は叔父に呼ばれて、塵取りから骨が入る箱を支えているよう言われた。塵取りで拾い集めた骨が箱に流し込まれると中から白く濃い煙が立ちこめる。

 本当にこんな箱に入りきるのかな、と兄が呟いた。霧のように辺りを漂う骨の向こうの兄と目が合って僕は頷いた。大丈夫だよ、と叔父が言った。

 向こうで伯父が塵取りをシャベルのようにして調子よく掬っている。それをこちらに運んできた。これならすぐに終わるな、などと言っている。

 その時、彼が腰をベッドにぶつけた。バランスを崩して転ぶのは避けたが、持っていた骨が床に散らばってしまった。

 職員はすぐさま箒を取りに行き、これを使って下さいと差し出した。伯父は慌ててそれを取って掃き集め出した。

 叔父が非難の声をあげている。僕と兄も広く散らばった骨を拾った。素手はやめておけよ、と叔父に注意されたが僕は聞かずに手で拾う。

 すまんな、と謝ってきた伯父が動かす箒の横にあった崩れ方の少ない骨を取り握ってみた。熱くはなかった。

 しかし、掌よりもずっと暖かい。生きている父の体温のようだ。いや、これはずっと小さい頃に悴んだ僕の手を暖めてくれた父の手と同じ温かさだ。

 瞬間、その光景を思い出した。僕は握ったその骨を箱に入れられなくなっていた。そしてその手をポケットの中に滑り込ませていた。周りを見渡す。伯父が急いで掃き集めるのを見ていて誰も僕に注意を払っていない。大丈夫だ。

 伯父の失敗でおごそかな儀式は作業に変わり、骨箱への収納はすぐに終了した。

 骨箱は叔父達の車に行き、僕と兄は肩から塩をかけ、手ぶらで車に乗りこんだ。シートに座ると父の骨がポケット越しに感じられた。

 まだじんわりと熱を持っている。そっと手を滑り込ませて骨に触れてみた。ごつごつとした円筒が半分に欠けたような形だ。指だろうか。随分と太い。

 理由はないが僕はそれが右手の親指のように思えた。指先で強く摘むとそれはあっけなく崩れ、幾つかの尖った粒に変わった。あ、と声をあげそうになった。その時、家に行く前にどこか寄るのか聞いてくる、と兄が車外に出ていった。

 この隙にポケットの中から骨を取り出し、掌に広げてみた。もはや僕に訴えかけるような熱さもなく、形も崩れてどこの骨なのか推し量ることもできない。

 しかしこれは、紛れもなく父の身体を構成していた骨だ。父の生と死の要素が詰まっていたのだ。大学病院の医師が言っていたように、触れるとうつる死もこの骨に封じ込められているのだ。

 そしてその死は、あの窓ガラスの水滴を操る法則に基づいていつか僕をガラスの向こう側に誘うのだろう。

 僕はまた憎らしい理に反旗を翻したくなった。もしこれだけ塗れても死がうつっていないのなら。或いは僕に死の要素がまだ気紛れにも備わっていないというのなら、自ら死の要素を取り込んでやろう。自分から腐敗が始まるところを決めてやろう。父が残したこの骨に満ちている死を呑み込んでやる。

 僕は掌の上にある骨達の中から一番大きな、爪の先よりも少し小さい欠片をもう片方の手で取り上げ、思い切って口の中に入れた。

 俎上に載った試料は拍子抜けするほど味気なかった。

 そしてそれを前歯で噛んだ。小さく湾曲していた骨はすんなりと崩れた。そして奥歯に送って摺り潰すと音もなく砕けていった。

 味も匂いも感触もない。生と死が互いに混じり合い、打ち消し合っている。骨はただの抜け殻だ。

 あるいは灰を舐めているのとなんら変わりない。不意にそれを吐き出したい衝動に駆られた。

 しかし、僕はそれを打ち消すように噛み砕いた骨を呑み込んだ。喉に細かな粒がしがみついて、少しすると下っていった。ようやく止めていた息を大きくついた。そこへ兄が戻ってきた。

 車はすぐに出発した。真っ直ぐ家に帰るのだ。急な坂道を下りきったところで兄が僕に訊いてきた。

 さっきポケットに入れてたのは父ちゃんの骨か? 見ていたのか。

 正直に言うべきか考えた。だが考えるまでもない。そうだよ、と答えた。俺にも分けてくれないか、取っておきたいんだ。兄が言った。いいよ、とだけ答えていた。

 兄はそれにただ頷いて、車を走らせた。

 もう辺りは暗くなり始めている。信号のない広い道が続くと兄がまた口を開いた。またF—一レースがあるなら、とだけ言って兄は口を閉じてしまった。

 あるなら? と僕は聞き返して兄を見た。兄の目から大粒の涙が流れ落ちている。言葉が詰まっているのだ。僕はずっと兄の言葉を待っていた。

 視線に気付いて兄は続けた。

 あるなら一緒に観にいこうな、と。

 うん行こう、とだけ僕は答えていた。

 ほどなくして家に着いた。灯りのついた玄関の前に母と姉が僕らを迎えに出てきていた。

(了)


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