僕は骨を噛む 5
五、
父とはそれきり散歩に出かけていない。翌日から数日間雨が降り続き、晴れたらまた出かけよう、と言っているうちに十月になり、寒くなり始めていた。
母には散歩を禁じられ、二人でF—一レースを観に出かける計画など一笑に付されてしまった。散歩の話は話題にも上らなくなってしまった。
ニキ・ラウダはアメリカ東GPで四位に入り、二戦を残してチャンピオンを決めた。
それを報告する頃には、病状が悪化していたので富士に行くのを半ば諦めていた。また治ったら行けばいいじゃない、と母に言われたが心の中で何かが引っかかった。
この時に父の病気は治るのか、ともう一度訊いてみた。母は大丈夫よ、と目を逸らして背負うのを断った父のような口調で答えていた。膠原病って治らないって云われてるけど、父さんは運良く治るのよ、とも言った。
母は何かを押し殺していたが、僕はその言葉をずっと真に受けていた。全く愚かにもほどがある。ニキ・ラウダが助かって復活したのだから父も大丈夫なのだと思ったのだ。いや、思いこもうとしていたのだ。
日本GPはその月の下旬に行われた。チャンピオンは決まっていてそのチャンピオンも来日しない。いうなれば消化レースだった。
レースはジェームズ・ハントの独走で終わり、表彰台には優勝者と二位に入ったレーサーが飛行機の時間に間に合わないことを理由に現れず、三位のレーサーとメカニックが寂しい表彰式を盛り上げていた。全く最初から最後まで白けたレースだった。
レース自体には中身がなかったが、ニキ・ラウダの代わりに出たカナダ人レーサーが第一コーナーで他車と接触してコースアウトし、立ち入り禁止区域にいた観客が二人死亡するという事故が起こった。
テレビのニュースは様子や結果ではなく、死亡事故のことばかりを報じていた。その事故の映像がないので、代わりにその年の三月、南アフリカGPで起きた事故のフィルムを繰り返し流していた。
消火器を持ったコースマーシャルとレース中のマシンが接触して双方が亡くなってしまうという悲惨な事故だった。レースの事故の悲惨さを如実に伝える映像というわけだ。
死亡事故が起こっていながらレースを中止しなかったことに対して非難の声があがっております、と得意げに語るアナウンサーの声をバックにして、無関係のコースマーシャルは画面の中で何度も跳ね飛ばされていた。批判の声をあげているのが誰なのかは最後まで分からなかった。コースマーシャルが、怠慢なテレビ局がポイントを取り戻すための生け贄のように見えた。
南アフリカで悲惨な事故があったことは勿論知っていたが、映像を見るのは初めてだった。
名もない男は時速二〇〇キロでマシンに接触し、映画の身代わり人形のように宙を二、三回舞って地面に叩きつけられ絶命していた。彼が持っていた消火器が凶器と化してヘルメットを直撃し、ドライバーが道連れとなっていた。
瞬時に二人の命を奪ったその事故の映像を、僕は食い入るように見ていた。
死は確実にそこで生まれていたのだが、木偶人形のようなコースマーシャルや、バリアに突っ込んだマシンと拉げたヘルメットがどれだけ大写しになっても、そこから死を感じ取ることができなかった。うっすらとした影が頭の上を通り過ぎていくだけなのだ。
映像が不鮮明だということもあるのだろう。その頃は死というものを理解してもいなかった。
生きているものの命がなくなるということがどういうことなのか分かっていなかった。テレビや新聞で流される薄っぺらな死のイメージに慣れっこで、死を現実的なものとして認識していなかったのだ。
病院で死体を見てそれに触ることさえしたというのに、僕にとって死はまだ遠い世界のものだった。あるいは意識の中に死を入れまいとしていたからかもしれない。
しかし、何か死の匂いのような影のような気配のようなものは、周りに漂い始めていた。悲惨な映像にその匂いがあったことを後になって知った。
日本GPが終わった頃から、父は一層痩せ細っていった。
肌の表面は乾燥させたシナモンの木のようになり、お気に入りの縦縞のパジャマを着た姿はテレビのドキュメンタリー番組で見たアウシュビッツ収容所のユダヤ人を思い起こさせた。生きていく力を着実に失っていったのだ。
話をしていても頻繁に咳き込むので、話す機会も減った。それでも父のいる茶の間にいて一日に少しは会話を交わしていた。
毎日のように、富士に行きたかったなあ、と父は残念がっていた。それ昨日も言ってたよ、と言うとそうだっけ、と笑うのだが、笑顔に見えなかった。笑う力も弱っていたのだ。
十一月に入ると何日かに一度、茶の間から追い出されて部屋の中で父と母が二人っきりになった。
追い出される訳は聞かなかったが、二度、三度と追い出されるうちに事情を飲み込んでいった。
父の排便のためだった。排便といっても普通の排便ではない。生理現象を司る筋力さえ弱ってしまった父の肛門に、母が指を入れて便を掻き出すのだ。
食事の量はかなり減っていたが、僅かずつでも溜まった老廃物が腸を圧迫していた。何日かすれば父の下腹部は古い時代絵で見る餓鬼のように膨らんだ。
自分で排便できず溜まるばかりの便に父は苦しんでいた。解消するには誰かが指で掻き出す以外他に方法はなかったのだ。
ちょっと出ていってと母にいわれて、僕は二階の自分の部屋に戻る。耳を澄ましているとやがて下から呻き声が聞こえてきた。確かに父の声なのだが、聞いたことのない呻き声だった。
最初は何が始まったのかと驚いた。静かになった頃合いを見計らってそっと部屋へ入っていくと、父は鼻をすすり涙を浮かべていた。
窓が開け放たれてあるとはいえ、部屋の中の空気と母の表情からしても尋常なものでなかった。もう一度手を洗ってくる、と母が怪訝な顔で僕と入れ替わりに部屋を出ていくと背を向けた父はもう死にたい、と呟いた。
小さな声だったが、確かにそう聞こえた。父の口からでた死という言葉が矢尻のように僕の胸を突いた。それは簡単に心の中にくい込み、引っかかり、抜けないまま、じぃんとした痛みを作った。
ただ情けなさと恥ずかしさから口をついて出たであろう言葉が何故、あそこまで引っかかったのか。聞き返そうとしたのだが、できなかった。こちらを向いた背中が、どんな言葉も拒絶していたように思えたからだ。
十二月になると、少し離れた町に住む叔父が毎晩のように顔を出すようになった。歳の離れた父の弟だ。
時には奥さんや子供を伴ってきたが、大抵は夕食後の時間を見計らって一人で現れた。
既にあまり喋れなくなっている父の側に座って、苦しそうに咳き込む時は背中をさすったり、水を飲ませてやったりしていた。叔父がする思い出話に父は懐かしそうに首を動かしていた。
もうちょっと早くから来てくれてもよかったのにね、と母は憎まれ口を叩いていたが、叔父がいる時間だけでも気を抜くことができていた。
その月も後半、暮れともなると叔父以外にも親戚が顔を頻繁に出すようになった。毎日ではないが、日替わりで誰かが必ず来るようになっていた。
親戚達は訪れてもいつものように楽しげに母と話をするのではなく、ベッドの横で父に向かって一方的に語りかけ、夜になると義務を果たした勤め人のように帰っていった。
年を越して華やぎのない正月が過ぎると叔父だけでなく、親戚達も毎日欠かさず顔を出すようになっていた。
叔父は仕事がない日には終日我が家にいて、離れたところで父が眠ったところを見計らいながら母と小声で話し込むようになった。どんな話をしているのか聞こえなかったが、その会話が行われる度に目を閉じた父は顔だけ窓の方に背け、野球場へ歩いた時よりも小さくハアっと溜息を追い出すのだった。
そんな時の父の表情はこちらから見えなかった。泣いていたのだろうか、憤っていたのだろうか。僕は父が何を考え、何を感じているのかいちいち知りたかった。もちろん聞くこともできず、ただ想像するだけだったが。
ベッドの周りに漂う父の吐き出す息や溜息は明らかに僕を拒んでいた。近寄れず、話しかけられず、触ることもできずただ想像するだけだ。僕とは違う世界のことを考え、そこに足を踏み込み始めている父のことを想像も理解もできなくなり始めていたのだ。
一月最後の日曜日、母に起こされて目を覚まし、遅い朝食を食べて茶の間に入った。その日は快晴で陽の光が中庭の雪を照らしていた。雪の光は窓から射し込んで天井に反射し、部屋の中を過剰に明るくしていた。
珍しく暖房がついておらず、いつもなら茶の間に入ると感じる息苦しさはなく、清々しささえ感じた。しかし、同時に何かの寒々しさも感じた。
父は目を覚ましていた。入っていくと大きくなった目をカッと開いてこちらを見た。おはよう、と挨拶すると寝ていた父は小さく首を動かした。後ろ手で戸を閉めて父の横に座った。
ヒーターをつけなくていいかい、と問うと、いい、と短く答えが返ってきた。今日は少しは調子がいいようだ。ポンポンと毛布の上から父の身体を軽く叩き、寝起きで乱れた癖毛を手櫛で整えてやった。
手が父の額に触れた。べたつく汗をかいていた。きっと暑かったから暖房を切って貰ったのだろう。僕は替えのタオルを出して上半身の汗を拭ってやった。隣の台所で母が音を立てないように洗い物をしている。タオルが肌に軽く擦れる音が聞こえる。静かな朝だった。手を動かしながら、叔父さんは昼過ぎにでも来るのかな、と僕は訊いた。
応答はなかった。しかし、よくあることなので気にせず背中にも手を回し、汗を拭き取っていた。
おい、と父が不意に僕の名を呼んだ。
「あ、ちょっと痛かった?」
「済まなかった」
問いには答えず、父はゆっくりと声を絞り出すようにして言った。
「何? 気にしないでよ。これくらい」
「済まなかったな」
汗を拭き取っているのを言っているのではなかった。父は弱々しく腕を動かし、僕のタオルを持つ手の腕を握った。
もちろん強くはない。握ったというよりは手が軽く添えられたようなものだった。その手は何故か小刻みに震えていた。驚いて父の顔を覗き込んだ。父は泣いていた。どこから絞り出したのか大粒の涙が焦げ茶色の頬を伝っていた。
「悪い父ちゃんでごめんな。何にもしてやれなくて」
まだ何か続けたそうだったが、言葉はそこで途切れた。僕はどんな言葉を返していいのか分からなかった。
父がどういうつもりでそんなことを言ってきたのか分からなかったからだ。父は僕の目を見据えていた。その目は涙で濡れていた。
乾ききった肌の切れ目にある潤んだ両眼は、表皮から覗く茘枝の実のように瑞々しく、意志のようなものが確かにそこにあった。ぼんやりと漂っていた雲のような思いがその両眼の中に集まり、凝縮されていた。
「何言ってんの。全然悪くないよ」
そう言った後、僕は言葉を継げなかった。
かあっと身体が熱くなり、何を言ったらいいのか分からなくなっていた。
その代わりに父の手を握りしめ、自分の下唇を血が出そうなほどきつく噛んでいた。そして父の目を見て、ただ頭を横に振っていた。
きっと父は僕の手を握り返していただろう。しかし、もはや僕が握る方が遙かに強く、力は殆ど感じられなかった。
父が手に伝えたつもりの意志はそこへ来る途中で身体のどこかに吸い取られていた。父の手はただ、ぶらさがるように僕の手を包み込むだけだった。
「もう病気は治らん」
呻くように父は言った。
「何言ってんの。大丈夫だよ。治るさ。ラウダみたいにカムバックできるよ」
その言葉には答えがなかった。父は目を逸らして苦しそうに喉を鳴らして大きく呼吸した。
後ろで戸が開く音がして母が入ってきた。母の手には朝食の僅かな粥があった。盛られた白い陶器から小さく湯気が立ちこめていた。僕と目が合うと母は力無く頷いた。
(続)
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