今の日本のコロナ禍とホモ・サピエンスとしての生き方について

本日(2022/2/10)、蔓延防止等重点処置いわゆるマンボウが延期された。正直、岸田総理に対して失望したところもあれば、それに対しての国民の反応も違和感を覚える。

私は、今のオミクロン株にそこまで過剰な対策を起こすべきではないと思うし、コロナ禍になってから2年も経っている世の中でそれを支持する人達に対しても疑問である。なぜ未だに新型コロナウイルスが感染症の第二類であるのか甚だ疑問であるし、もしそれに当てはまっているのであればエボラ出血熱と同類で致死率50%程であるべきはずである。そのような恐ろしい感染症であれば保健所の対応や濃厚接触者への対応も厳しいレベルでいかなければならないが、従来株やデルタ株に比べれば遥かに軽いもので、保健所や医療機関の負担を考えても一刻も見直す点であると考えている。

ただ、オミクロン株についての日本政府の対応等について語る記事ではなく、今の日本人が生き方について考える良い機会であると考えている。なぜなら人は何を目的にして生きているのか、何を求めて努力など勉強や仕事に対して努力しているのか見つめ直す機会であると思っているからだ。

本題に入る前に、2年前に中国から新型コロナウイルスが広がり新型コロナが蔓延する前の生活と後では生活環境が一変した。今までは風邪をひいたり花粉症やインフルエンザ予防のために付けていたマスクが年中付けていることが当たり前になっているのである。当初は仕方なく付けていたものが、いまでは外出時はつけるのが当たり前になっており少しでも発熱や咳などにたいて敏感になる世の中である。

そして今やマスクをつけないことや、濃厚接触者だったがPCR検査で陰性であるのに数日間自宅待機を命じられるなど過剰なともいえる世の中になっている。そして批判する人らはPCRがどういった原理で菌とウイルスの違いもわからない人達がいっていたりもする。

世界の人達が新型コロナウイルス蔓延前の世の中を求めているのに、なぜこのような「普通の生活」に戻りづらいような世の中にしようとする人達がいるのか。科学的にも2年前とは比べ物にならないほどコロナに対して理解が進み、ワクチンが開発され、飲み薬も出来てきているのに反発する人達がいるのか。それは個人的見解であるが、ヒトというのは「理解できない」ことや「未知なことに対して」拒絶するところがあるのだろう。

であるのにも関わらず、自主的に調べない人が多いと感じる。2年前は特効薬など存在しないのであれば政府批判や人が顎マスクとかいうより免疫を高める方法を調べるべきではないのか。鈴木拓著作「最高の体調」という本を当時読んでいた時に思っていた。

こういったヒトが「未知に対して」過剰に反応することは世界の歴史からもわかる通り、その一つとして有名な話がある。ギリシャ時代では数学や科学が発展したものの、ローマ時代ではそういった新しいことに挑戦し富を得ることについて違和感を感じる人が増え弾圧されるようになり、科学の進歩が止まってしまった。またプラトンの思想からもわかるようにそういった人生経験からなる敵対意識が科学発展を抑えるようなものだと考えている(一個人の見解)。

そういった歴史を繰り返したものの産業革命以降、科学発展が飛躍的に進み、人口も恐ろしいほど増えた。これも科学的発展により大陸の人類がより狭い世界になることにより弊害は生まれるものの、人口は爆発的に伸びた。そしていまの新型コロナ世界でなった時にこれをマクロに見た時にどう思うだろうか。また、現在ではイギリスや欧州では1日何万人も感染者がいるのにもかかわらずマスク着用義務が外されている。かつてイギリスは日本よりも厳しいロックダウンをおこなった国である。ただ、いろいろ知見や擦り合わせによって柔軟な対応ができているかもしれない。

今回、コロナの世界の政治に述べるために書いているわけではなく、「いま何のために生きているのか」ということを改めて考えるきっかけになったからである。

タイトルにもある通り、ホモ・サピエンスという言葉がある。これはヒトが「知恵がある人」といった高校でも学んでいる人がいるであろう。

現代になって世界の人々がインターネットでつながる世界であり知識を学ぼうとするのであればアクセスしやすい世の中である。つまり新型コロナウイルスの正しい知識も陰謀論もあらゆる情報が、すぐにでも手に入りやすい世の中になっている。しかしながら「普通の世の中」に戻したい人達が政治に関心が無かったり、ウイルスの定義を知らない、世界情勢を知らないというのは余りにも勿体無いと感じてしまう。

ここまで発展を遂げて歴史を学んできたのであれば、それを糧にして一歩進むべきであると思う。

また、私たちは「ホモ・サピエンス」だけではなく「ホモ・ルーデンス」である。ホモ・ルーデンスというのは「遊ぶ人」という意味である。現代医学によって寿命は伸び、スポーツやF1といったモータースポーツやNetflix、いまや仮想空間といったようなメタバースも話題になるようになっている。その中で、新型コロナウイルスの蔓延で「生きる意味」を考えるべきではないだろうか。ただ生きるだけではなく、争いではなく幸せを考え、遊びを覚えたヒトであるこそ生きている上で娯楽を楽しみ、ヒトを楽しむべきだと私は思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?