自分の中のルッキズム

僕は人を見た目で判断する人間が嫌いだ。人の表面的な部分だけを見て全てを知ったかのような態度で「お前はいい、お前は悪い」と振り分ける人間が
大嫌いだ。でも本当にそれだけなのだろうか、もし僕が(人を見た目で判断すること)が嫌いなだけならば
こんなに自己嫌悪に陥るほど悩むことはないだろう。この嫌悪感の正体は自分自身だ。僕がこんなにも嫌っているはずの「ルッキズム」の考え方はこれまでの人生で自分に強く身に付いてしまっている。
人のルッキズムに対して怒りを覚えても自分の中のルッキズムがチクッと痛む。嫌いなはずの考えがもう離れないものになってしまった。僕はいつこの病にかかったのだろう。幼稚園のときはそんなものは無かった。もちろん人の顔にかわいいやカッコイイという感情は持つと思う。でもそれは人を評価する要素の中で影響力の低いものだった。小学校ぐらいから少しずつこの病が進行していった。中学のころにはもう完璧に手のつけられないほど悪化していた。この「ルッキズム」という病は様々な体験によってどんどん進行する。それはテレビでアイドルや俳優が声援を浴びている時かもしれない、いつも人のことを傷つけているようなやつが学校でモテている時かもしれないし、人の優しさを受けれる量が見た目によって変わること知ってしまった時かもしれない。この体験は見た目がいい事で上手く生きていけることだけじゃなくて、もし自分の見た目が悪かったら他の要素は見てもらえず落第の評価を受けるかもしれないという恐怖心を持つことになる。人は恐怖心を持つとその恐怖に対処しようとする。
自分の見た目を気にするようになる、人の見た目にも敏感になる、人と比べる、より自分の見た目を気にするようになる、人の見た目が気になって仕方がない、自分より見た目が優れた人を見て落ち込み逆に劣っていると思う人を見下す。こんな最悪のループを繰り返す。これは僕のことだ。僕の嫌いという感情は「見た目によって人から拒絶されること」に対する恐怖からきている。だからどれだけルッキズムが嫌いでもそのことばかり考えてしまう。頭の中はそのことでいっぱいだ。実はそれほど皆気にしていないのかもしれない、誰も僕に興味なんて無いかもしれない。でも僕はもう病にかかってる。絶対に治ることは無い病に。頼むから明日朝目覚めたらすべての人の病が治っていてほしい。そうなれば僕は今よりも少しだけ朝が好きになるかもしれない。

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