苦手な人 使徒パウロ 3

太田愛人氏の『パウロの手紙を語る下』第7回P15から神の怒りについて、偶像崇拝→恥ずべき情欲→悪徳のカタログという図式の中に、同性愛を位置付け否定しています。ソドムの滅ぼされた理由は性道徳の堕落?ではないという説は反映していないようです。また偶像崇拝から恥ずべき情欲、悪徳のカタログという図式も大雑把で短絡的過ぎて説得力を感じません。悪徳について丁寧に検討説明するなど汚らわしくてできなかったのかも知れませんが。

ローマ書12章は、心静かに読めました。

南山大学監修第2バチカン公会議公文書の典礼憲章で、『アンテオケの聖イグナチオ書簡』(ネラン、川添訳)とあるのですが、Amazonでも修道会オンラインショップでもヒットしない。手元の『NEOPLATONISM and CHRISTIAN THOUGHT』の索引で漸くIgnatius of Antiochを見つけた。聖ペトロがローマに去った後にアンテオケの司教を引き継いだのがこの聖イグナチオだと記載がある箇所P67にパウロの名前があるので後で再確認します。パウロはディオニシウスに洗礼を授けたとあります(同P67)。

パウロ書簡はカトリック『女性の神学』から排除されたと、神学ダイジェスト133号P18にある。私的には歓迎なのだが。ヨハネ•パウロ二世の書簡等で伝統的神学の延長の文書発表が続いている。女性たちは聖書の再読と神学体系の再構築を祈りつつ進めようとしている。暫くはこのアクションから目が離せない。
ローマの信徒への手紙16章6節で
『あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく』とありますが、ここのマリアについては聖書注が無い。使徒ヨハネと聖母マリアが訪れたエフェソはローマからアテネより更に東方。マグダラの聖マリアの可能性があるか。
マルタの妹のマリアである可能性もあるのか?
いずれにしろ、パウロ書簡で“マリア"
への言及は初見だったので注目している。
マグダラの聖マリアとベタニアのマリアとは同じ人物と言う説もあるらしい(『マグダラのマリアと聖杯』マーガレット・スターバード著P64〜)。
『女のキリスト教史』(ちくま新書)P91〜の中で、使徒パウロをダブルスタンダードと表す竹下節子氏の理解を私も共感してしまう。P85〜の弟子たちの不甲斐なさも素晴らしい的確な指摘で痛快である。母子家庭に育った身としては男の考え方は苦手だ。
四旬節A年第三主日ロマ書5章1-8節朗読で略されている3-4節でパウロは、『苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む』と述べて、苦難を誇りとしています。これは異教徒や異端に対するジェノサイドの正当化に利用されかねません。神の教えに相応しくないなら、聖書からこの節またはロマ書を除く処理が必要ではないですか?太田愛人氏の前掲書下巻では、この箇所について、内村鑑三、高村光太郎を引き合いに出し、却って称揚しているトーンで書いている。仁義礼智忠信孝悌の教えにマッチングしやすいかもしれないが、それではパウロのこれだけ苦難を乗り越えたんだから報われると期待する姿勢だけが後光がさしてくる。違うでしょう?
神学ダイジェスト69号('99年冬)の「聖パウロと女性」(ニル•ギメット著)では、コリントの信徒への第一の手紙を中心に、聖パウロの生きた時代における彼の言葉の革新性と現実性を読み解いていて興味深い。私の1、2の雑記をも含めて見直す必要性があるのかも知れない。ただ、聖パウロの当時の革新性(時代の制約を受けた)が明らかになっても、現代のジェンダーギャップが埋まるわけでも女性差別が解決するわけでもない。理解が深化するのは、望外の喜びだが。


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