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私にとっての【音楽】って、一体何だったのだろう?
改めて考えてみた。
子供の頃から、自分にとって【音楽】というものは、「悪化した人間関係から自分を立て直すというか、もう一度認めてもらうためのもの」「傷ついてみっともない(と、傍からは思われているであろう)自分から挽回するためのもの」というパターンを繰り返してきた。
いわば、音楽は、私にとって「ナメられないための
魔法の杖」であり、武器であり、処世術であり、
「水戸黄門様の印籠」のようなものであった。
いじめられたり、友人に見放されたりした時に、【音楽をやること】でそれを回避したり、自分の音楽を披露することで新たに認められて自信を取り戻したり。
実際、同級生からのいじめは、私がピアノが弾けることがわかった時にピタリと収まったし(ということは、ピアノができないままだったら、いじめっ子たちに見くびられていたままだったかもしれない)、友人達に依存しすぎて重たがられて見放されても、音楽をやることで、
新しく、自分を【すごい】と認めてくれる人と
出会えたりして、「ぼっち」の辛さは解消された。
こうしたパターンを繰り返すうち、私の中での「音楽をやる【理由】や【意義】」が、【他者との関係性で揺らぐもの】になってしまっていた。
(例え認めてもらえなくても)「好きだから音楽をやる」とか、「楽しいから音楽をやる」ではなく、「みんなに認めてもらえるから、【すごい】と言ってもらえるから】音楽をやる」になってしまっていた。
そんなことでは、音楽に申し訳ないとも思っている。
一緒に活動する音楽仲間にも。
音楽を【自分を認めてもらうための道具】としてではなく、
【やっていて楽しいこと】になれば、また世界が
違って見えるのかもしれない。
音楽に限らず、「これは面白そうだ」とか、「これをやったら楽しいかも」よりも、「これをやったらどう思われるか」とか、
「これをやったらちっぽけな私をどれだけ大きく見せられるか」
という判断基準で人生の選択をしてしまった自分。
「何かが突出して出来なければバカにされる、できない自分を否定される、その場所にいさせてもらえなくなる」
そんな、強迫観念に似たような感情に飲み込まれて、
本当は自分に向いていないことでも、「やらなきゃいけない」
という気持ちで、無理をしてやってしまっていた自分。
常に他人の目を気にして、自分の望みは蔑ろにしてしまっていた。
自分を、あらゆる攻撃から守るために。
効力の強そうな「武装方法」ばかり探していた。
だから、いまだに、「自分は何をしたら楽しいのか」
「自分は、何をしている時にほっとして、心から安心できるのか」が
わからないのだ。
「好きなことをして生きていく」って、今流行りだけれど、
今の自分には難しいな、でもいつかできるようになったら
もっと人生楽しいのだろうな、と思いつつ、日々を過ごしている。
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