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陰キャは克服すべきか?

タイトルが挑戦的であり、しかも以下に書く内容も、ものによっては有名人なら炎上するような内容となるかもしれない。所詮は戯言なので、不快に思われた方はそのまま閉じるか、コメントで軽く指摘していただきたい。

テーマに対する結論としては、人に依るためなんともいえないが、基本的に克服する努力はしたほうがいいと思う。

そもそも、陰キャの定義が非常に曖昧であり、範囲が広い。自分もこの課題に悩んでおり、しかも「陰キャ」という概念を理解するのに時間がかかったため、陰キャが深刻化してしまった節がある。

悩む結果、その関連本を読み漁るようになったが、定まった結論が出ない。というのも、「自分らしく生きればいい」という結論のものもあれば、「陰キャは克服すべき。惨めな思いをしたくなければね」といったものもある(拡大解釈あり)。何が正解がわからないのだ。

正解が一意に決まらず、多様であることが近代の特徴のようなものだが、これでは効果がないのではと思ってしまった。というわけで、自分なりの解釈を加えていこうと思う。

まず、陰キャとは何か。

陰キャと呼ばれる人たちは大雑把に分類されるが、非常に多様である。

人付き合いより、特定の趣味に強く興味を持つ人(いわゆる「オタク」)、何事にも後ろ向きで、暗い雰囲気を持つ人(いわゆる「根暗」)、初対面とのコミュニケーションを苦手とする人(「人見知り」)、他人と行動するより一人で行動することを好む人など……。他にも様々だ。

これらは全て「陰キャ」として同じように捉えられがちだが、各々は似て非なる部分も持っている。

例えば、コミュニケーションの活発さを考えても、オタクはほとんど会話をしないと思いきや、趣味において親和性を感じれば、非常に饒舌になったりする。人見知りでも、慣れれば普通に話せることもある。

人間の性格は多様であり、どこからが陰キャでどこからが陽キャと定めるのは難しい。絶対的なものではなく、あくまで相対的なものだ。

おそらく、コミュニケーションにおいて自らが相対的に不利であると感じる場面があり、その理由付けとして「陰キャであるから」としているのであると思う。

例えばオタクであれば、自分の興味と相手の興味が一致し得ない場面では苦痛に感じるだろう。一人が好きである人ならば、集団行動を強制されて、相手のペースで物事が進んでいくときについていけないと感じるかもしれない。

初対面でも臆さずコミュニケーションを取り、いつでも明るく前向きに誰かと過ごしている……。いわゆる「陽キャ」と呼ぶ人たちをこのようにイメージし、それに対してどこかが劣っている自分を「陰キャ」と定義する。それが陰キャという言葉が存在する理由ではないだろうか。

では、どうすればいいのか?陰キャたちは、陽キャにならなければいけないのだろうか?

少し雑な対応策として、「陰キャはただのハンディーキャップに過ぎない」という姿勢で考えるのが大切ではないかと思う。

人には得意なことも不得意なこともあるという原則を考えれば、特に真新しい考え方ではないが、自分自身のこととなると基本を忘れてしまいがちだ。

陰キャを苦しめているものは、「あいつら(陽キャ)」に比べて自分は劣っているという主観、偏見という内的なものと、「もっと他人と関われ」「他人に怖じ気づくな」という圧力をかけられるという外的なものがある。

まるで、「陰キャであるのは本人の自由意志でやっていることであり、人間社会では不便で都合が悪いのでやめなさい」と言われているように。でも、そんなことを選択したつもりはない。どうしてこういう性格になってしまったのだろう、と。(アドラー心理学の目的論から考えると、陰キャであることを望んでいると解釈される可能性もあるが)

着脱可能な「オプション装備」ではなく、本人に備わっている「標準装備」であると考えてしまうことで、解決の糸口が見えてくるのではないかと思う。

ドラゴンクエスト11に、「はずかしい呪い」というオプション機能がある。これは主人公が仲間や街の人に話しかけるとき、時々羞恥心が生じて話しかけられなくなるという、いわゆる「縛りプレイ」でたる。まさに陰キャになれる機能なのだ。

日本人の一定数は、気づいたときにはこの「縛りプレイ」を行っている。しかし残念ながらこの機能はボタン一つでOFFにはできない。にも関わらず、この機能を外したり、外させようとして悩んでいる。

もしかすると、今後心理学が発達して人格を入れ替えられるようになったり、医学が発達して陰キャになる因子となる遺伝子を変えたりできるかもしれない。しかしそれまでは、自分と上手く付き合っていくしかない。

当然、今の自分では社会に適応できないとするならば、社会に適応できるよう努力は必要である。それでもやりづらいことがあれば、その人はハンディーキャップを生かすやり方の方が合っているのかもしれない。

一応いうと、陰キャは不要ではない。現在の社会で生きにくいだけであり、それを不要とみるのはあまりに近視眼的である。

現状に腐ることなく一生懸命生きることが、陰キャに対する誤解を解き、結果的にあらゆる人に優しい世の中になるのではないだろうか。

最後に、長文になってしまう割には、平凡な結論になってしまうのが忍びない。どうしてもあらゆる可能性を盛り込み、前提条件の確認に手数をかけてしまうからだ。それでも、今後はより簡素に詠みやすい文章にしていかなくてはならないと思う。

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