プジュルマ 第01回


夜中に目が覚めた。

 ぐっすりと寝こんでしまっていた。

 一度中途半端に目が覚めてしまうと、寝つけない。
ベッドの上でうつろに目を開けたまま、窓から差し込む光の強弱を眺めていた。

 目が慣れてくるとその中に模様が見えてくる。

 シミなのか、模様なのか、意味のない図形が一面に広がっている。

 身体は疲れ切っていた。昼間に歩き回り、乾燥し、太陽の明るさに魂を吸い取られていた。

 太陽がとっくに店じまいしてもその明るい街の中で、渇いた体に泡の立つ水分を入れていた。
誰かがおもちゃ箱に仕舞うように、私をひょいとホテルの部屋に片付けた。
糸の切れた操り人形は、ベッドに横たわって動けなくなっていた。

 それからどれだけ死んでいたのか。
次第に覚醒し、人形に魂が帰ってきた。

 プルーストの水中花のように、心と体に形が戻ってきた。

 周りの音が、聞こえるようになった。急に意識の中に音が入ってくる。

 それまで聞こえて来なかった音。

 機械の連続音、どこかのビルの上で回っているエアコンの音、外を走る車の通過音、巡回する消防車の警笛。
様々な音が外から中に入ってきていた。

ドアの向こうからも音がしていた。

廊下なのか部屋の中でなのか、誰かが大声で叫んでいた。

酔っているのかアブナイ男なのか、このドアのすぐ外で叫んでいるかのようにわめいていた。

ベッドの頭の周りには、抑揚と音節だけに削ぎ落とされた、雲のようにまとわりついく意味を持たない声が聞こえていた。
アルコールを流し込みながら聞こえていた言葉が、頭から溢れ出てまだ辺りにただよっていた。

それは深い森の中で、木々を見上げながら聞く鳥の声のような、あるいは遠くで落ちている滝の音を聞いているように部屋の周りを取り囲んでいた。

そういえば昨日、この街から150マイル離れたメンドシーノという村へ行ったのだ。

今になっても、まだ日本の時間が胃の奥から押し上がってくる。「さぁ起きろ動き出せ」と。
寝付けなくとも寝具の中でいれば、いずれ眠くなって、気がつけば朝になっているだろう。しかし今は寝られそうにない。

天井を見上げ日本は何時かと思った。時差を計算しようとして何度も指を折る。

朦朧とした頭には、指が指のままにしか見えなかった。目を閉じて「今は午前中か」と思った。

部屋は下町の中心からすこし外れたところにある。バスの通る表通りから2ブロックほど入った古いホテルの3階にあった。

部屋にはバスルームがない。トイレやシャワーは廊下の先にある共同トイレの中にある。

そのトイレは安宿に似つかわしい造作で、そっけなく水色に塗られた壁は腰から下がまだら模様によごれていた。打ちっ放しのコンクリート床はいつ覗いても濡れていた。

退屈な時間に目覚めてしまった。

ケーブルテレビもない安宿で、することもなく、寝ることも出来ない。

宿の隣にデリがあったのを思い出した。のらりと入り込んで何か食べるものを買い、ビールの1本でも飲んだら、またすぐに眠くなるだろう。
シャワーに行くのに二の足を踏むくせに食べるだビールだとなると簡単に体が起きる。

ドアは廊下の明かりが見えるほどすきまがある。

木製のしっかりした作りの古びたドアを閉め、廊下の反対にあるエレベータの前で箱が上がってくるのを待つ。

エレベータは年代もので、廊下側には外に開く木製ドアがあり手前に開くと中には蛇腹の格子ドア、それを左に追いやって乗り込む。

映画ブリットで証人を保護していた安ホテルのエレベータに似ていた。
映画と同じ街で同じようなものに乗れたことがなんとなく嬉しくなった。

下のフロアに降りたとき、上では気づかなかった外を歩く人や酔っ払いのわめき声が聞こえてきた。

鉄格子のフロント中には人の気配も眼光もない。

蛍光灯が青白く光り、ペンキを塗った天井がキラキラと輝く。

外の空気は冷たくすこし湿っていた。
遠くで走り回る消防車の「バーバー」という警笛と、タクシーを呼ぶドアボーイの「プープー」という笛音がどこからともなく聞こえている。

出て左に5歩もあるけばそこがデリである。デリは外側からは明るくないが中はやたらと明るく、青白い光ですみずみまで照らされている。
間口1間ほどの狭い店には売れそうなものならなんでも並べてあった。

いらっしゃいとかこんばんわとか一言も言わず、テレビに顔を向けたまま動かない店員が入口で番をしている。

店の中の棚の間を縫って、奥まで突き進み、奥にある冷蔵庫にたどり着く。
ガラスの外側には流れるほどの露がついていて「中はすごく冷えてるゾ」と主張していた。その濡れたガラスの奥には瓶や缶が「動きたくない」と何年もそこにあるように座っていた。

私が部屋を出てきたのは腹に何か入れて胃袋に血を集めその勢いで眠ろうと思ったためだが、デリの明かりに取り囲まれ、真っ先にビール入っているガラスケースの前にきていた。

曇ったガラスの中にはビールが段ボールごと冷やされていたり、ワイン瓶が並んでいた。
棚の下の方には輸入ビールや瓶ビールがそこにあるのが場違いであるかのように隠されていた。

瓶ビールは美味い、でも栓抜きが必要だし瓶の重さと後の始末が面倒だ。

北海道の道庁所在地の名前や、中国神話の霊獣の名前がついたビールまで置いてある。
こんな場末のデリで出会ったことに驚いたが、彼らが懐かしくなるほど日本を離れていたわけでもなかった。

この国のビールは青やら赤やらの派手な身なりだが、中身はあっさりとライトに仕上げられている。ライトゆえにたくさん飲める。

「たくさん飲めば?」と言いたげに大量にならんでいた。

缶ビールは6本束のまま冷やされていて6本分の値段が書いてありご丁寧に「バラすな」と書いた紙が貼り付けてある。

旅行者が多い所だから、こういうローカルルールを書いておかないと勝手なことをする輩が多いのだろうか。

6本でしか売らないと知ると妙に嬉しくなった。沢山買い込む理由を考えなくても良くなった。大手を振って多めに買って帰れるのだ。

棚の取りやすい高さで手が届きやすかったというだけで何を選ぶか悩むことなく赤い缶の6本束に指を絡め「こっちへ来い」とばかりに棚から引っこ抜いた。

デリのカウンターは入り口近くにある。

目的である「パンになにか挟んだもの」を選んで買って帰らなければならない。

ビールの束をカウンターにドスンと置き、壁に書いてある「なんとかサンド」をくれと、つぶやいた。
店員は、時間がかかる、と不服そうに言うので「じゃ、これでいい」と冷蔵ケースの中に居たサンドイッチを指差した。

それはチーズとハムがこれ以上パンの間にはさめないくらい詰め込まれ、手で持つだけで中身がはみ出してきそうなサンドイッチだった。パンで中身を挟んであるというより大量のチーズとハムの外側にパンがくっついているだけだった。
乱雑にラップでグルグル巻かれ、まるまると太ったサンドイッチは小動物のように愛嬌良くケースの中でこっちを見ている。

店員は、何か付け合わせは、とめんどくさそうに聞いてくる。聞かれるごとにノーノーノーを3~4度繰り返し握ったままの大きめの札を一枚差し出した。

6本のビールに1切れのサンドイッチではビールが残ってしまう。そうなると残ったビールだけを流し込むことになり、それも寂しい。

なにごとにもバランスが大事である。ふとみると豚の皮の揚げたものと干した牛肉が小袋に入ってぶら下がっていた。「これも欲しい」と引っ剥がして差し出した。

店員はビールは茶色の紙袋に、残りはペラペラのスーパー袋に投げ入れてカウンターの上に置いた。
そしてレシートを置いて、渡した金の額になるまで釣り銭を数えながら並べていた。

デリを出てホテルに再び戻る。
ロビーはまだら模様の白い壁と網カバーだけの蛍光灯が明るかった。
フロントの向こうにエレベーターがあり、そこで箱が下りてくるのを待つ。
ホテルを出た時のまま、動いていないならそこに箱があってもいいのだが、デリへ行ったほんのすこしの間に客の出入りはあったようだ。

自室ドアの前に立ち、ぐにゃぐにゃの鍵穴にこれで大丈夫なのかと思うくらい小さい鍵を差し込む。右に回し左に戻しを何度やってもグルグルと手応えなく回るだけの鍵を適当に回していると、音もせずいつのまにか鍵は外れている。

建て付けの悪いドアは少し下がり気味で、押して入ると部屋の敷物に擦れ「がさがさ」いう。
中に入りドアを元の位置に押し込むとドアの内側には2つ3つと別の鍵がついていて「ここいらあたりは物騒ですぜ」と語りかけていた。

食い物の袋をベッドの上に投げ、そのままベッドの上に座る。重い窓は閉まり切らず、風をはらんだグレイのカーテンは外の音と共にゆれていた。
舞台の緞帳をくぐって客席を覗くようにカーテンの下からもぐりこみ、厚塗りの青いペンキでデコボコした少し高い窓枠に肩から肘を置き、あごをのせて通りを眺めていた。
窓から見あげる空は絵の具を洗った水のようにどんよりとした色で、その下で都会の明かりが見えない星を気取っていた。

頭をかすめて後ろのカーテンが揺れた。吹き上がってくる空気の中にざわめきが混じり、いままでそこにいた場所の音が上がってきた。

買ったものを食べ残すこともなくビールが温くになって残ることもなく、満足した胃袋を抱え、さぁ寝ようと思った。

電話が鳴った。

「どこ?」

頭が止まった。

「うん、ちょっと遠いかな」

相手は攻勢に乗じる。

「何してんの?」

これは簡単だった。

「今から寝るとこ」

「どしたの?誰かいっしょなの?」

「いや、誰もいないよ。」

「そ、じゃ、、またね……」

さすがに誰だか判ったが、わかったときにはもう切れていた。

電話の向こうで、勝手にしゃべり、勝手に去っていった。

腹は満たされ、眠くなるはずの時間がそのまま止まってしまった。

夜明け前に少しウトウトできたが、寝不足のまま早朝に出発することになった。少ない荷物なので簡単にパッケージし、廊下に出て隣の部屋の前に立った。

「用意できた?」

ノックしても返事がないので仕方なく呼んだ私の呼びかけに、中から気のない返事が返ってきた。

「わかってるわよ。もちょっと待ちなさいよ」

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