フェイク文化

本物と偽物
インスタントラーメンが
世に出てからこの何十年

インスタントラーメンは
ラーメン屋で食べる本物とは
別物であると認識されてきた。

かなり長くインスタントラーメンは
本物に近づこうとしてきた。

そして今や
インスタントラーメンや
カップラーメンは、
ラーメン店で食べるそれとは
別の食べ物として認識されている。

代用品でも偽物でもなく、それはそれなのである。

利便性や経済性
希少価値など様々な理由から
人は色々なフェイクを作ってきた。

カニの風味のかまぼこや
魚の卵のようなカプセル。

本物として売るためのフェイクではなく
それはあくまで代用品である。

作る側は
代用品であることを認識しつつ
経済的な理由や
手に入り辛さを乗り越えるために
置き換えられた別物として考え
作り出した。

そういう風に
偽物として生まれたものではあっても、
確かに本物に近く、
また本物を感じるように作られているし、
近づけようと努力している。

偽物が生まれたその時は、
あくまでそれは似たものであり
食べる側も
本物と並べるべきものではない
別のモノという
作り手の言外の意図を理解している。

ところが……

そのうち
本物を食べた事がないグループが
存在するようになる。

あるいは、
あまりに本物との接触が少なすぎて
インスタントと本物の間に
繋がりがあると思わない人がでてくる。

彼らにとって本物のラーメンは
インスタントラーメンのオリジナル
模倣した大元ではない。

インスタントラーメンが
ラーメンのフェイクという
位置づけではない。

そういう本物を意識しない人には
本物と偽物の差を思い起こす
すべを持っていない。

ラーメンと言えば
インスタントラーメンなのだ。

うまいまずいを比較するのは
同じインスタントラーメン同士を
比べることになる。

このカップラーメンと
あのカップラーメンでは
こっちがよりうまいと。

そこに本物のラーメン店のものは
入ってこない。

本物を知らない人にとって
本物は、彼らが普段接しているフェイクなインスタントなものとは似て非なる別物である。

普段食べている
フェイクな物のオリジナルとして
その上位に存在する本物
普段のインスタントの上に
存在するものとしての本物という
捉え方はしない。

異なる世界にあって
フェイクとは並列に存在する
同じ麺類ではあるが別のものなのだ。

彼らの中では
いつもの
お湯を入れて食べるラーメンと
本物のラーメンは別なものだ。

本物を知らない
知りたくないグループにとって
ラーメンとはこうあるものという
心の中の軸足は
インスタントラーメンの上に
置かれている。

本物を彼らの前に提示しても
インスタントラーメンの
上位に存在する
オリジナルという意味合いを持ち得ない。

インスタントラーメンこそが
彼らの言うラーメンなのだ。

こうして
フェイクが一人歩きをしはじめる。

フェイクが独自文化を獲得できたとき
本物とは決別して別のモノになる道をいく。

あるいは
決別して別物になってしまっているからこそ、独自の文化を獲得できるのだ。

根源がどうあろうと
受け取る側にとっては関係ない。

知っているインスタントこそが
ラーメンなのだ。

フェイクを扱い
作っていく
売って行く人たちは

「これは本物から
インスピレーションをもらった別物」

「本物と同じ材料を使って
時間をかけて独自の手法で処理している」

「袋詰めするときに
手で押さえているから手作り」
等々
言い訳がましい講釈をつけてまわる。

偽物じゃないか!
と言われたくなくて
自分から偽物ですよと遠回しにいう。

そんなことを
言い訳しているうちは
本物の亡霊から逃れられていない。

本物を知っている人には
本物と並べる売り方は通用しない。

こういうモノは
別の文化なのだと説いて売ってまわる。

本物でないのに
本物に近づけようとすると
余計に本物との差が目立ってしまう。

お湯を入れて食べるのをやめて
おやつにしてしまうくらい
別物になるほうがいさぎよい。

素直にインスタントラーメンだと
認めてしまうほうが
周りもその領域であつかってくれる。

偽物が
本物の土俵で
偽物である言い訳をいくらしても
胡散臭くなるだけだ。

ということで
あまり意味の無いことを
ウダウダ考えず
回転寿司を食べに行くとしょう。

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