いいわけ

むかし
「見つけたのか、見つけられたのか判らないけれど、
あなたという存在を知った上で
そのままに放置出来ない事を運命というのだ」

とかなんとか、シャレた事を言った事があったけれど…

私は
イロんな現象や事物に出会った時
特定のモノについては
ソレを見逃せない
知らん顔が出来ないわけで……

見つけたそのモノが
自分の尻から
放り出されたモノでなくとも

自分の周りに存在する
自分が知見したものは
自分との関わりを持つモノとして
自分の一部として
shareしても良いのではないかと
思うようになった。

他人の尻から放り出されたモノと
自分のモノをマゼコゼにするのは

他人が用を足して
まだ香りが残る
すぐ後に排便する時のような
違和感をこれまで感じていた。

しかし、汲み取りの
タンクに溜めておいたソレを
一杯になってから外に出す行為を
体験していく中で

一定期間
溜めてから外に出す時には
既に自他の糞尿に
区別がつく状態ではない
という事を感じる事が出来た。

というか
自分の尻から出たとたん
それまでの蓄積された糞便群と
交じりあい
自分のモノとして
落下してしまえば
確固たる区別が出来ない
状態になっているわけだ。

たまった肥溜めから
出て行くその時には

自分のものも
関わった他人ものも
大きな糞尿群の一部として
自分であり他人であり
混ざり込んだカタチの
ヒトツの人糞として
形容されるモノとなっている。

アンディ・ウォーホールや
マルセル・デュシャンのように

意図して
或いは表現する為の道具や素材として
他者の作品を用いる……

とまで昇華されていなくとも

自己と他者を混ぜても自己表現である…
と思えるようになった。

ユエに
そろそろバキュームカーに来てもらって、溜まったタンクの中身を吸い出してもらわねば。

ああ、長い講釈…

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