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水俣で感じた事

水俣で過ごす最後の夜に書いたものです。

水俣は、想像したより、水俣は小さな街でした。

奈良の行きつけのカフェで食べた柑橘ケーキが水俣産で、その柑橘の鮮烈な酸味がするケーキの美味しさと、私が教科書で学んだ「水俣」のイメージがかけ離れたものだったから、直接行って水俣の昔と今を知りたい、その思いだけで相思社に訪問しました。

この街について「水俣病が起こった街。美味しい柑橘がある街」釣り合わない二つのワード。それ以外何も知識も持たず、乗り込んだのでした。

相思社で過ごした3日間はあっという間で、初めて会う人たちと対話出来た体験は今はまだ咀嚼できない濃密な時間です。

過去にあった歴史的事件で負のイメージを背負ってしまったから、そのイメージを別のコンテンツで覆い隠そうとする街は多いです。そうではなくこの街は、水俣病と共に歩み、向き合い生きていくべきだ、と外者の私は考えていたのだけど、これまでの歴史、今の政治などが絡み合うとこんな困難な問題になってしまうのか、と思い知らされました。

観光パンフにあった、「さあ、みなまた」の文字と江口寿史のセンスのいいイラスト。私もこういうデザインは好きです。中身も華やかで観光客受けしそうな内容でした。そして観光戦略が他の観光地とよく似ていました。水俣に来る人は、こういうのを求めて来るのだろうか?という疑問も。

一応乗ってるけど、華やかさの中に埋もれた隅っこの方にある資料館の案内。

歩いてみると、華やかなパンフに釣り合わない寂れた街。

そして、穿って見ると、「みなまた」という文字からは、過去の刷新とイメージ戦略を嗅ぎ取ることも出来る気がしました。

自分の街への錯綜した心情を抱えて生きる人たち、生まれ変わった水俣の街のイメージを外の人に持ってもらいたい政治や行政の世界の人たち。今の日本社会にも通底する社会構造があるように感じます。うまくまだ言語化出来ません。

今日は泊まり客の中学2年生の子と一緒に摘んで調理した山菜を食べながら、そんな話をしました。行ってる中学の話も一杯聞きながら。

今度は誰かを一緒に誘ってこの街を訪問したいです。

 

水俣を出た翌日ー。

全然咀嚼出来ないままですが、水俣は「日本の縮図」と言っても全然大袈裟ではないと痛感しています。

自分たちの街への錯綜した思いを抱き続けて生きる水俣の人たち。

いつの日か、水俣の人たちが何も臆する事なく、水俣の街のことを堂々と語れる社会が実現されるのでしょうか….。

負のイメージを背負わされた街に生きる中で出てしまう自己肯定感の低さ。それを持ち続け生きることのやるせなさは、いつも「奈良が好きだ」と迷いもなく言い続けられる自分には、知る余地もない苦しみだと思います。

街案内をしてくれた相思社の職員のお兄さんが、昨日あった地裁の判決を教えてくれました。第二世代の患者たちの認定における地裁はあえなく敗訴したそうです。因みに感染症対策という名目で傍聴席に入れるのはたった11人だったそうです。

東京から移住したというそのお兄さんは、裁判をこう振り返っておられました。

「非情な行政・司法の態度には呆然とした」と。

「患者側、弁護団の明らかに正しい理屈が捻じ曲げられ、患者が訴えた行政による検診のパワハラまがいの態度への告発、弾劾は全く意に介しませんでした。」と。

弁護士が「患者とただ一緒に検診のやり方を変えるつもりはあるのか」という問いに対して、行政は「わたしたちの公的検診は間違ったことはなにもありません。なので、変えるつもりもありません。」とはっきり答えたそうです。

患者をいなかった事にしようとするその態度には、誠実さの文字は見当たらないでしょう。

三権分立はこの国にはあるんでしょうか。

司法の役割って一体何なのか。司法が力を失っていくこの国のカタチは危ういと思います。

案内の最後に「水俣に移住してみたいと思いますか?」と聞かれ、私は返事が出来なかったのです。「もしこの条件があれば」というレベルでしか、住んでみたいと思えなかった自分がいました。

誰かがこんな風に言ってました。

「一緒に頑張ろう」という言葉は、自身もその中に身を投じて一緒に苦しみを背負っていく覚悟があるものが使う言葉だ、と。

だとすれば、私は口が裂けても使ってはいけない言葉です。

じゃあ、何が出来るんだろう?

無力は百も承知で、

別の場所で誰かに語り、また訪れて街の人と対話し続けることが今出来る精一杯なんだと思います。

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