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僕のどしたんが話を聞いてしまう前に

 10月である。秋である。つまるところセンスのないコピーライターが「○○の秋!」を広告の中にしょっちゅう入れだす時期である。「食欲の秋」「読書の秋」「スポーツの秋」etc…まあなんぼも浮かぶけれど、このどれらもが秋の本質をまるで突いていないのはお分かり頂けるか。

 ならば、お前の言う秋はなんぞ、と問われたら、これはもうこの二十二年の歳月を以て、一つ、確信のある秋があるのだ。

 「交際の秋」 これ以外に、ない。

 中高大と、共学に身をやつした者ならばとっくに大納得であろうが、秋口のカップル成立率は、その他の季節の成立率と比べると、アメリカのハンバーガーと日本のハンバーガーのサイズくらい違う。コメダのサンドイッチとドトールのサンドイッチのサイズくらい違う。キンタロー。と橋本環奈の顔のサイズくらい違う。

????現実????

 ともかく「交際の秋」だ。身に覚えのある者も多かろう。かくいう僕もその一人だ。大一の秋である。それまで女に興味無い感じ出してたのに、普通にビックウェーブに乗った。周囲からは「結局女かよ」と言われたが、当たり前だ。僕がこの世で女より好きなものは、芸術と酒くらいである。
 芸術=酒>>女>>>>>越えられない壁>>>>>>>その他一般である。そうは言っても、例えば燃え尽く落葉の舞うその刹那に、浮世の儚さを重ねる風流や、ハロウィンがなんだ、クリスマスがなんだと朝までバカ騒いで飲み空かす為の友情なんかを、持ち合わせ無い事はないが、しかし優先の度合いは遥かに下回る。

 しかせど、本当に交際に、それらを犠牲にしてまで得る価値があったかと問われれば、これは甚だ疑問である。風流も友情も、交際すら、雑な流れに乗らなければ、きっと十全に味わえて、僕は何もかもに長じて、未だに綻びの綾も見えぬ艶いだ友情の下にあったろうに。ここに「交際の秋」の本質がある。 

 わざわざ「交際の秋」だのと大層に言わずとも、「ハロウィンだのクリスマスだのを見据えて、この時期に付き合いだす奴が増えがち」みたいな言説は、既によくよく言われていることだ。しかし、そこに眠る実際に対して目を向けた者が、どれほどいるだろう。
 「日本は年度が春に変わるから、秋に人間関係が完成しやすいだけ」など、幾分優しさを持って見る人もいるが、冷静に考えれば、夏の頃には人の動きは収まる。そこでわざわざ一拍置く必要もない。何故秋か。
 大半の人が一度は目にした「クリスマスの予定決まりました~!有馬記念」のようなツイートに宿る若干以上の痛々しさに、僕の魂は今、投げ出されている。秋。

 秋を考えるための一つの前提として、誰もが持つ「誰にも何も分かって貰えない」という感傷を、他者に向ければ、それは愛にも笑いにも暴力にもなり得て、「分かって貰えない」事は変わらずとも一応の解決を見る、というのを示す。
 女がヒステリックに叫んでいる横で、男が不機嫌そうに酒を飲む光景も、いかにも幸せそうに手を繋いで歩くカップルの姿も、本質的には同じものである。カップルの男は「コイツ歩くのおっせえな」と思っているし、女は「コイツマジで服のセンスねえな、横歩くなや」と思っている。表にしないだけで。
 しかしそのどちらもが、一応感情を形にする事を叶えている。「分かって貰えない」から糾弾するし、「分かって貰えない」からダンマリを決め込むし、「分かって貰えない」からお互いそこに目を瞑って手を繋ぐ。感情は解決する。
 
 だが「分かって貰えない」が個人の内側に向いているうちには、それはただ「孤独」の一語以上になんの力も持てない。一人で部屋にいる時より、何人かでいる中で、周りが自分の知らない話で盛り上がっている時なんかの方が、よっぽど孤独を感じるのはその為だ。孤独はわざわざ弄らなければ、寂しさとも悲しさとも結びつかないで、ただ「孤独」であってくれる。
 本来、そんなに素敵なことはないのに、人間は、例えば犬猫を見て撫でたくなる時のように、孤独を弄りたくてしょうがない生き物なのである。何故か。ありがちな言葉であるが、人は一人では生きられないからである。

"孤独とは、ある一匹の猫ちゃんである
これを撫でない者だけが、孤独に耐える"
                      アリステレス

 畢竟、人々が恐れているのは、孤独ではない。孤独を消費する自己の虚しさである。秋はその虚しさにつけこむ、イヤらしい毒素なのだ。

 秋は寒く、夏にあれだけ栄えた木々も散りゆき、外で友と飲む酒も、もはや我慢大会の様相である。辛い。ある人が、その身にもて余す孤独を、寂しさや悲しさに結びつけようとする誘惑に負けたとて、誰がそれを責めれよう。つきつめてその状態が続いて、その捌け口が「クリスマスの予定決まりました~有馬記念」だとして、世界に他に、そんな痛々しく、かつ切実な叫びがあるか?
 そのような極限にあって、孤独を他者と結びつけようとするのは、こっちの方がむしろ健康ではないか。人は付き合う。秋に負けて。我が身の孤独を結んで。風流を、友情を忘れ。ある疑問に答える。友情の内に孤独は消費されない。何故ならその二人は、分かり合わなくても良いからである。分かり合うべき二人の対置においてのみ、孤独は感情になる。

男女の友情は、どちらかがどちらかに、
理解されようとしない限りにおいて、続く

 さて、本題に入る。今秋の寒さは、誰もが体感する通りである。また本格的に始まりだした講義や、やたら立ち込める金木犀の香りに、嫌気がさすのも人情である。ここにおいて、僕は誰かが誰かに孤独を慰めようとするのを、全く責めようとは思わない。それは至極当然だし、健康的だ。存分に付き合ってくれ。できれば僕の見えないところで。
 しかし僕自身の事となると話は別である。様々、秋の毒だのと言い訳を並べても、一度は受けた毒であるので、そろそろ抗体なんか持つべきだし、何より二十二才留年大学生が、必死に孤独を埋め立てようとする様の滑稽は、あまりに図りかねる。僕は何度かそういう人を見たが、ああ、醜かった。
 例えば僕は有意識の内にはそういった醜さを、断固として醜いと言える。しかし理性というのは、すなわち知性の働きだから、酔っ払ってタコより柔らかく脳ミソを溶かした己に、それを期待することなど出来ない。孤独に飢え、酔いに飢え、秋に犯された先にいる僕は、それはもう僕ではない。ただ人肌を求めて蠢く、一匹の巨大などしたんである。

大学生のマスコット、どしたん

 どうすれば良い。僕は自分が「話を聞いて」しまう可能性を、まるで否定できない。ならば僕は、懇願するしかあるまい。僕が「どしたん?話聞こうか」という前に、僕を殺してくる他者を。頼む。僕を殺してくれ。僕がキレイでいる内に。僕にかかった毒は、人に移る毒だ。僕の友達たちよ、僕を殺してくれ。僕のどしたんが話を聞いてしまう前に。どしたんは際限が無い。無限に話を聞く。そんなに悲しい事はない。頼む、殺してくれ。僕のどしたんが話を聞く前に。


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