それって本当に彼氏君が悪いんですか?

 実際悪いのだと思う。だが問題はその割合の話ではなかろうか。100:0で悪い彼氏君というのを、僕はまだ見たことがない。というより、人間同士の関係において、そのようなどちらかだけに傾いた責任というのを僕は知らないのだ。
 それは例えば、いじめのような現象においてもそうである。よくよく「いじめられる側に原因はない」だの言い張る、ボケたコメンテーターをニュースで見るが、そんなことは決してない。些細であれ甚大であれ、原因というのが必ずあって、その拡大の末にいじめという現象があるのだ。
 しかし僕はそれによって、被害者に責任があるとか言いたいのではない。だが原因とその拡大というメカニズムがある限りいじめは無くならないし、それらを無くすのは現実的でない。なら絶対に存在するいじめというものにどう立ち向かおうか、というのが建設的な議論の土台であろう。
 「いじめられる側に原因はない」というのは、そういう本質的問題を、自らの理想でねじ曲げた、最も醜悪な言説であり、問題を見えづらくしているという点で、もはや加害者の方に加担しているとすら言える。
 ならばどうすればよいのか。サディズムの元祖、マルキドサド公爵はその著作にて、女を痛めつける描写をする際、何故その女を痛めつけねばならないか、というのを徹底的に自己弁明してから行っていた。それら加害の自己弁明というのは、そのあまりの徹底さ故に、むしろ彼の根底に宿る加害への罪悪感というのを感じさせるものである。
 例えば呼吸をする時に、わざわざ「私は息を吸わねばならない。何故なら吸わねば死ぬからである。それによって二酸化炭素が増えようとも、また私が生きることが他人を傷つけることになろうとも、私は吸わねばならない。私は死にたくないのだ。」などと弁明しないように、罪悪でないのなら正当化の必要などない。
 つまるところ、いじめの加害者たちにたりないのは、加害の精神であるように感じる。罪を自覚しながらいじめを行うとすれば、彼らはその正当化を行わなければならない。客観的に正当性のある論理、例えばものを盗みまくる奴だったから、だのがあれば、いじめは続くだろうが、なければ自然と無くなるだろう。そしてまた、客観的に正当性のある制裁というのは、突き詰めていけば司法の役割に等しい。そういうことを否定する術を、僕は知らないのだ。
 それはまた全世界の彼氏君、彼女さん、にも通じるものである。およそ殆どの彼、彼女等に足りない精神とは、愛ですら乗り越えがたい、互いの加害の事実への認識である。悪いのは彼氏君でなく、彼女さんでなく、また「どしたん話聞こうか?」してる誰かでもなく、妹キャラで彼氏に近づいてくる後輩の女でもなく、朝の満員電車の苛立ちでこんな文章を書いている僕でもない。ただ誰かを加害している事実がそこにあるだけなのだ。

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