「森のムラブリ」

先日の山形での農業体験の際、言語学者の伊藤雄馬先生にお会いした。

4月初旬の身体知のセミナーで一度お見かけしていたのだが、その時は私の参加した時間が遅く、伊藤先生の講演は聞くことができていなかった。今回はたっぷり時間もあったので直接お話を伺うことができた。

伊藤先生は言語学者としてタイとラオスの国境付近に住む「ムラブリ」と呼ばれる人々の調査を行っている。ムラブリたちは定住せず、文字を持たない。そんな人たちの言語を一つ一つ根気よく書き起こし辞書を作成中の伊藤先生。それができるのもムラブリの人たちと信頼関係が気付けているからであり、誰でもできることではない。

伊藤先生の感性は、一緒に農業体験をしたみやじまあつし先生の感性と近いものがある(多分)。同じ感性を私自身は共有できてはいないので断定はできないのだが、おそらく両者の言葉の端々からきっと近いのであろうというのは伝わってくる。それを「近い」と認識できる私自身も実は一般的な人々よりは少し違った感性があるのかもしれないが、それが真実なら少し嬉しい気もする。

伊藤先生の言葉の中で一番印象的なのは「現在、過去、未来、可能性、そしてまた現在に戻ってくるけど、その時にはメビウスのように回転して一層違うところへ帰ってくる」
なんだかよくわからないのだが、どうやらこっちと反の世界をつなぐゲートの話をされているようだ。その辺の感覚も直感的には私にはわからないのだがきっと9月25日の身体知のセミナーのテーマとも繋がる話題なのだろうと興味が湧いた。

農業体験の後、伊藤先生が出演されているドキュメンタリー映画「森のムラブリ」を見る機会を得た。ムラブリの人々は、文字がないから家族の名前忘れるとか、所有の概念がないなど、いまの日本に暮らしている私たちにとっては衝撃的な内容も多かった。今私たちが正しいと信じていることにも本当にそうなのか、生きるとはどう言うことなのか?あるいは「人に伝える」とはどう言う事なのかなど考える材料が沢山あり大変興味深かった。

ウチのクリニックでは自閉症の子どもの相談を受けるが、彼らは箱庭療法のなかでは彼らは喋らずとも豊かな内的な世界が広がっていることも少なくない。それを周囲はあまり理解せず、なんとか社会に適応させようと一生懸命「訓練」や「トレーニング」と呼ばれることを施す。でも本来、無意識レベルの愛さえ交換していればそれなりに成長していけるのではないかと思っているし、訓練やトレーニングは魂の本質からは離れてしまうのではないかとも思ったりしている。

今回映画を通して普段の診療を振り返り、私たちが言語で伝えることにこだわり、ルールに従う窮屈さなど改めて感じた。

色々な意味で伊藤先生との出会いは衝撃的であった。

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