「石浦昌之の哲学するタネ 第1回 哲学とは?」
★ 放送前にお便りをお寄せいただきまして、ありがとうございました!次回放送時にご紹介させて頂きたいと思います。本放送へのご意見・ご感想はお気軽にhttps://www.farnorthnetwork.com/contact まで!何卒よろしくお願いいたします。
OPテーマ いしうらまさゆき「Human Dragon」(2015年4枚目のアルバム『作りかけのうた』より)
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【オープニング】
そろそろ夜は涼しくなってまいりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?「日本初の出版社が運営するインターネット深夜放送・極北ラジオ」本日からスタートする「石浦昌之の哲学するタネ」…ということで、私・いしうらまさゆきが哲学するための必要最小限の基本知識を「タネ」と呼びまして、混迷の時代にあって、答えのない問いに答えを求め続けるためのタネ蒔きをしようじゃないか、というのが、この番組のコンセプトです。極北ラジオ第1弾は近畿大学で教鞭をとられている社会学者竹村洋介さんの夜をぶっとばせ!ラジオ体操特集はお聞きになりましたでしょうか?まだの方はアーカイブでも聞けますので、明月堂書店のHPをチェックしてみてください。オープニングは手前味噌ですが私いしうらまさゆきの2015年のアルバム『作りかけのうた』から「Human Dragon」という歌をお届けしました。
ちなみに私が生まれ育った時代はまだ昭和の色濃い時代でした。ファミコンブーム、相撲・若貴ブームなんてのもありました。小学4年生の頃に昭和天皇がお亡くなりになって。平成になりまして冷戦が終結し、バブル崩壊、社会に出たときは就職難の焼け野原のようになっていました。特に音楽で生きていこうと思っていましたから、リーマンショックを経て迎えた昨2016年は歴史に残る時代の分水嶺だと思われます。1960年代、ロック世代のラブ&ピースの精神を継承したオバマの理想主義が効力を失い、反知性主義のトランプ政権が誕生しました。イギリスではEU離脱(プレグジット)が国民投票で決まり、北朝鮮と米国関係の緊張、そんな米国に追随する日本のキナ臭い動き、戦後民主主義を否定する憲法改正…あるいはAIの登場で人間とは何か、という古くて新しい問いも浮上してきました。
インターネットの登場で私たちの生活は格段に便利で合理的になりましたが、溢れる情報を浴びて賢くなったようで、ほぼそれに溺れてしまっているような気もするんです。ほぼ溺れ死にかけているのかもしれません。答えのない問いを問う余裕を与えない時代、経済合理性の浸透により短期的な成果を求める余り、基礎研究は予算を削られ、金儲けに役立たないとみなされた人文科学の知の排斥も深刻です。大学も文学部が風前の灯になってしまいました。これは文化や芸術の衰退とも関係しているような気がしなくもありません。
番組のタイトルは『哲学するタネ(種)』としたんですが、そんな時代にあって、考える時間をそう簡単には奪わせないぞ、というささやかな抵抗です(笑)。これからは「知識を活用する時代」になるといいますが、活用するためには知識が必要です。インプットなくしてアウトプットはあり得ません。ここで「楽をする」勘違いを犯してはいけないんです。人間は経験から形作られる…と考えるならなおさらインプットは重要です。しかし昨今、社会を見渡せばタネ(種)を蒔かずに花を咲かせようとしている感があります。当たり前ですが魔法使いでもなければ、タネ(種)を蒔かずに花を咲かすことなどできないのです。大学の「ゼミ」は英語の「セミナー[seminar]」のドイツ語読み「ゼミナール」に由来します。「セミナリー[seminary]」(神学校)という派生語もありますが、ラテン語の「セーメン[semen]」(種、精子)が語源です。ラテン語や英語の祖先となったインド・ヨーロッパ祖語の「se」には「種を蒔く」という意味があり、英語では「タネ(種)」を「シード[seed]」といいます。つまり学問にしても、何かを生み出すにしても、タネ(種)を蒔かなければ始まらないのです。ちなみにタネ(種)は人に蒔いてもらうだけのものではありません。自分で蒔くことだってできるのです。
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ジングル1
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【子どもは哲学者】
「子どもは哲学者だ」とよくいわれることがあります。「なぜ空は青いの」「悪いって何」「なぜ地球は丸いの」「人が死ぬとどうなるの」…子どもと接すると、自分を取り巻く世界や誰かが発した言葉に驚き、疑問をもち、その意味や構造を理解しようと次々に質問を繰り出してくることがあります。その質問に対し、科学的かつ客観的な解答を用意したところで、全然納得してくれないことだってあります。しかしどうして大人になってしまうと、そうした質問をすることを止めてしまうのでしょうか。
子どもの無邪気な疑問のように、自分を含めた世界[world]を理解しようと問いを繰り返し、普遍の真理[truth]に辿りつこうとするプロセス…それこそが「哲学(フィロソフィー[philosophy])」です。しかも哲学とは人から教えてもらい、「これが哲学ですよ」という解答をありがたく頂戴するものではなく、答えを求めて自分なりに「哲学する」、その過程に他なりません。もちろん哲学から派生した科学という学問で、世界を説明する方法もあるでしょう。現在の学問は、自然科学・社会科学・人文科学と分類されますから、文系と言われる学問分野でも科学的な方法論で現象解明を行うのが常です。その場合、「1+1は何か」という自然科学的命題であれば、客観的な「2」という答えがひとまずは出るでしょう。しかし一方で、「正義とは」「自由とは」「神とは」…そのようなはっきりとした形をもたない形而上学的概念については、誰しもを納得させる客観的な答えを出せそうにありません。「これが自由です、さあ見て下さい」と手のひらに載せて見せることはできないものだからです。また、たとえ法律学における「自由」を語ることができたとしても、それはある時代の、ある国における「自由」にすぎません。一方、宗教も哲学同様、世界を説明する一つの方法ですが、「信じるか、信じないか」という部分が重要になってきます。そう考えると、哲学の一つの意義は「科学的・客観的な答えの出ない問いを問い続けることにある」 といえるかもしれません。哲学の世界にはその他にも「嘘をつくのは悪いことか」といった道徳を哲学する倫理学(エシックス[ethics])、「ピカソの絵とゴッホの絵はどちらが上手か」といった美的判断に関わる美学(エスティックス[aesthetics])という分野もあります。「科学で世界の全てが解明できる」というのは極めて傲慢な近現代人の思い込みであり、例えば価値判断の問題などにしても、まだまだ哲学が活躍する領域は多くあるのです。
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弾き語りコーナー:いしうらまさゆき「Universal Soldier」
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ジングル2
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【「当たり前」を疑う】
私にとって、私たちが一様に信仰する科学という思想・学問の全能性に疑いをもったことが、哲学に興味を抱くきっかけになりました。ニーチェ[1844-1900]が「神は死んだ」と宣言したように、近代人は神への信仰を捨て去り、代わりに科学を信仰・崇拝するようになりました。いわば近現代人は総じて「科学教の信者」になった…ということになるでしょう。科学が私たちの生活を便利で豊かにし、幸せに導いてくれていることには疑いを挟みませんが、一方で全能なはずの科学が大量破壊兵器や核兵器を生み出し、人殺しを行い、自然を人間のための食い物にして環境破壊を行っている事実を、一体どう説明すればいいのでしょうか。あるいは科学が生命の誕生や死を操作し、それをビジネスとすることは、果たして人間社会における道徳的な筋道=「倫理」として許される行為なのでしょうか。科学もたかだか人類にとって500年余り、大方は有益だとみなされている思想の1つにすぎないのです。
科学をはじめとしたわれわれを取り巻く「当たり前」を疑うためには、時間や勇気が必要です。「哲学(フィロソフィア[philosophia] ・愛知)」の語を生んだ古代ギリシアの哲学者ソクラテス[B.C.470?-B.C.399?]は、アテネの民主政治(デモクラチア)の下で死刑判決を受け、自ら毒杯を煽り、刑死の憂き目に遭いました。いつの時代も「当たり前」を疑う人間は為政者にとって不気味な存在なのです。そしてまた、「これは本当に正しいことなのか」と突き詰めて考えさせない方が、上に立つ人間にとっては都合よく、効率的なのです。部下が上司に「その指示は本当に正しいんですかね?」と問うて来たら、上司はすごく嫌でしょうし、あまりにもしつこいとクビにされてしまうかもしれません。「グダグダ言わずに今すぐ指示通りに動け!」ということになるわけです。そんなわけで「哲学者」だった子どもも、大人になれば、そうした為政者や社会の無言の圧力に屈して、物事の本質を問い、真理を希求することをやめてしまうのです。それでも私は、「時間の無駄だ」「非生産的だ」といわれようと、対話の中で「ああだ、こうだ」と「哲学する」ことが大切だと考えています。その理由は、世界史や日本史を一瞥するだけでわかります。人間は愚かな間違いをこれでもかと繰り返してきた生き物だからです。
【「暇」から哲学がはじまる】
世界の思想史上、哲学と呼べる思想はギリシア・ペルシア・インド・中国でほぼ同時期に誕生しました。ドイツの実存主義哲学者ヤスパース[1883-1969]は、その時代を「枢軸時代」と呼んでいます。西洋哲学誕生の地は古代ギリシアです。ギリシアというと2010年代には金融危機がおこり、EU(欧州連合)のお荷物のような負のイメージもありますが、ヨーロッパ文化の源流となった重要な場所です。
紀元前6世紀頃になると、古代ギリシアのポリス(都市国家)では奴隷制が発達します。アテネでは人口の約3分の1が奴隷となり、スパルタにも奴隷階級が存在していました。彼ら奴隷は家事労働や農業労働、銀山の採掘などに従事させられます。勤労はこの時代、積極的な意味合いをもちませんでした(勤労が積極的な意味合いをもつのはルネサンス以降のことです)。一方、奴隷に雑事を押し付けたことで支配層の市民には暇が生まれます。この閑暇(スコレー[schole])が、実用性と無関係な哲学(学問)、芸術、競技…という文化を生んだのです。奴隷に負担を負わせることによりもたらされたとはいえ、「ゆとり」は社会にとって大切なものなのです。「schole」は「school(学校)」や「schola(スコラ・学 校)」の語源にもなっています。学校に通ううちは、人生の中で最も暇な時期だということです。だからこそ、好奇心に基づいて自分なりに学問探求を行ったり、スポーツに打ち込んだりすることができるのです。
近年では、学校教育にもえげつない程の実利が求められるようになり、新たに導入される教育内容は増える一方です(「ゆとり教育」は失敗したとみなされ、揺り戻しが来ています)。企業側は入社してからの教育コストを安く抑えるべく、「英語をやれ」「プログラミングをやれ」と即戦力を求めて騒ぎ立てています。生徒も教員も息つく暇がない程ですが、学校や学問の本質からはかけ離れてきている気もします。仕事中にボーっと思索にふけっていれば、「早く仕事しろ!」と怒鳴られ、暇であるはずの通勤中の車内も思索や読書どころかスマホで延々とゲームやLINE(コミュニケーションアプリ)に興じている人が多くなりました。シャレにもなりませんが課金課金(カキンカキン)とコインの音が聞こえるようです。閑暇(スコレー)すら経済活動に絡めとられている現状は果たしてどうなんだろう、と思うときもあります。
さて、そうして暇になった市民たちは、理性(ロゴス[logos])に基づき、自然の中にある万物の根源(アルケー[arche])探求を始めます。これが哲学のはじまり、自然哲学です。神話ではなく、理性(ロゴス)に基づいて自然現象を理解しようとした点が重要です。「ロゴス」とは「言葉」のことで、そこから転じて「論理・理法・理性」という意味にもなりました(「ロジック[logic]」「ロジカル[logical]」という語もあります)。古代ギリシア人は秩序だったコスモス(宇宙)としての世界を、人間に備わるロゴスによって把握する合理的世界観をもつようになり、これが近代の自然科学を生み出す母体となるのです。そして哲学のみならず、あらゆる理性的な学問に備わる、個別・特殊・具体的で多様なものの中に、普遍・一般・抽象的なものをみいだす営みが始まるのです。
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曲:いしうらまさゆき「ゼロの季節」(2014年3枚目のアルバム『語りえぬものについては咆哮しなければならない』より)
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【エンディング】
ではそろそろおしまいのお時間となりました。次回からは一人の哲学者・思想家を取り上げて、その思想を紹介していきます。ソクラテスを取り上げる予定です。
ちなみに本日の記事は明月堂書店ホームページ、そしてnoteというサービスを使ってアップロードしていますので、そちらも是非ご覧になってください。
最後に新刊のお知らせです。金沢大学教授・哲学者の仲正昌樹さんの「FOOL on the SNS―センセイハ憂鬱デアル」、絶賛発売中です。「SNS言論空間の吹き溜まりを徘徊する〝末人論客〟に情け無用の真剣勝負!」…とありますが、明月堂書店久々のヒット作!として増刷もされたそうです。SNS上に匿名で好き勝手書き散らす、自称知識人みたいな人達のハンドルネームをつぶさに追跡して、その論理の破綻をつまびらかにする…という正気と狂気と紙一重のような一冊。これは面白いです!仲正さんは9月のNHK 100分de名著に出演され、ハンナ・アーレント『全体主義の起源』を取り上げていました。「FOOL on the SNS―センセイハ憂鬱デアル」詳細は明月堂書店ホームページをごらんください。以上、明月堂書店の提供でお送りいたしました!
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