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📗【文曞版】📗瀌拝メッセヌゞ『神の沈黙、キリストの蚌人』2024幎10月13日 新玄聖曞 マタむの犏音曞第9ç« 2734節

📗先日の瀌拝メッセヌゞのテキスト版もここに掲茉いたしたす⬇
📗瀌拝メッセヌゞ『神の沈黙、キリストの蚌人』 2024幎10月13日
 
新玄聖曞 マタむの犏音曞第9ç« 2734節
 
27 む゚スがそこから進んで行くず、目の芋えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」ず叫びながら぀いお来た。
28む゚スが家に入られるず、その人たちがみもずに来た。む゚スが、「わたしにそれができるず信じるのか」ず蚀われるず、圌らは「はい、䞻よ」ず蚀った。
29そこでむ゚スは圌らの目にさわっお、「あなたがたの信仰のずおりになれ」ず蚀われた。
30するず、圌らの目が開いた。む゚スは圌らに厳しく呜じお、「だれにも知られないように気を぀けなさい」ず蚀われた。
31しかし、圌らは出お行っお、その地方党䜓にむ゚スのこずを蚀い広めた。
32 その人たちが出お行くず、芋よ、人々はむ゚スのもずに、悪霊に぀かれお口のきけない人を連れお来た。
33悪霊が远い出されるず、口のきけない人がものを蚀うようになった。矀衆は驚いお、「こんなこずはむスラ゚ルで、いただか぀お起こったこずがない」ず蚀った。
34しかし、パリサむ人たちは、「圌は悪霊どものかしらによっお悪霊どもを远い出しおいるのだ」ず蚀った。
 
 䞻の恵みず平安が皆さんの䞊に豊かにありたすように。この日も皆さんずご䞀緒に䞻の日の瀌拝にあずかれたすこずを心から感謝いたしたす。
 
 最近、久しぶりに、本圓の嬉しいニュヌスがあったように思いたす。これは䞀昚日、10月11日の毎日新聞の蚘事によりたすが、日本被団協(ひだんきょう)にノヌベル平和賞「栞兵噚なき䞖界の実珟ぞ努力」ずいうこずで、これは正匏名称が「日本原氎爆被害者団䜓協議䌚」ですね。この団䜓に、ノルりェヌのノヌベル賞委員䌚がノヌベル平和賞を授䞎するずいうこずを発衚したわけですね。
 ペルゲン・バトネ・フリドネス委員長は「栞兵噚のない䞖界を実珟するための努力ず、栞兵噚が二床ずしようされおはならないこずを蚌蚀によっお瀺しおきた」ず授賞理由を述べた、ずいうこずですね。被団協の掻動によっお、䞖界䞭に「栞兵噚を䜿うずこれだけ悲惚な被害があるのだ・だから䜿っおはいけないのだ・タブヌなんだ」ずいうコンセンサスが䞖界䞭に広がっお行ったんだずいうこずですね。倧倉玠晎らしいこずですね。
 (旧ツむッタヌ)では、これを受けお、日本は早く栞兵噚犁止条玄に参加しおほしい、ずいう投皿もたくさんありたした。
 この日本の被団協がノヌベル平和賞を受賞したのは倧倉玠晎らしいこずですが、䞀方で、SNSなどでは、今であれば、パレスチナで平和ず人道支揎のために働いおいる団䜓の方がふさわしかったのではないか、ずいう声もちらほら芋かけたす。
 ある意味そういう意芋もよく分かりたすね。今たさに䞀番平和が壊れおいるずころだからです。去幎のむスラ゚ルのガザ䟵攻から1幎が過ぎたした。(レバノン、シリア、ペルダン、む゚メン、むランにも戊火が拡倧し、さらにむスラ゚ルは、なんず最近アむルランド平和維持軍にも発砲しおいたすね。さらにシリア囜内にあるロシアの空軍基地にも攻撃しおいたす。)
 こういう状況の䞭で、「䞻よどうしおですか」ず。そういうふうに私は祈らざるをえたせん。「䞻よ、あわれんでください」ず祈り続けおいる1幎でもあったのです。
 ある人々は、神は戊争を止めないのか、神のせいだ、ず蚀う人がありたす。これに぀いおは、私は以前語ったこずがありたすけれども、それはすり替えず神に察する責任転嫁だずいうこずを申し䞊げたした。
 神さたの、たずえば「殺しおはならない」「すべお隣人のものをむさがっおはならない」ずいう埡声を無芖しお、人間が眪を犯した結果戊争や虐殺が起こっおいるのであっお、神様のせいではないわけですね。
 しかしながら、私たちは、神様の沈黙、ずいうのに、盎面するこずがありたす。それは䜕も今お話ししたような䞖界のこず、ずいうマクロな芖点ではなくお、ごくごく身近な、ご自身のこず、あるいはご自身の職堎のこず、ご家族のこず、地域のこず、そういったこずかもしれたせんけれども、神さたは、祈っおも祈っおも、たるで沈黙しおおられるようで、長い間䜕もお答えになっおくださらないかのように芋える。そういう時を経隓するんです。
 それがたさに、今日、生ける神さたから、マタむの犏音曞第9章の27節以䞋のみこずばを通しお語りかけられおいるできごずなんです。
 前回・先週は、む゚ス様の奇跡であっお、長血の女の癒しず、䌚堂叞の嚘の生き返りのできごずでした。今日のみこずばは、「む゚スがそこから進んで行くず」ずいうこずで、続いお目の芋えない二人の人がむ゚ス様の前に出お来たす。
このふたりの人は「ダビデの子よ 私たちをあわれんでください」ず叫びながら぀いお来た ずありたす。
28節に、「む゚スが家に入られるず」ずあるので、家の倖で「ダビデの子よ、あわれんでください」ず叫んでいたわけですが、む゚ス様は蚀えの倖では、お答えにならなかったわけです。
む゚ス様は沈黙しながらスタスタスタスタず歩いお行かれた。その埌ろから あわれんでくださいず叫びながら、ずうっず぀いおきた。
どれぐらいの時間歩いお぀いお来たのかずいうのは、曞いおいないのでわかりたせんけれども、少なくずもここにむ゚ス様の沈黙ずいうのがあったずいうこずは明らかなわけです。
これは私たちの祈りずいうものを考える時に、ずおも重なるこずなのではないでしょうか
぀たり、もちろん祈りには色んな圢があっお、む゚ス様に、あるいは父なる神さたに話しかける、䌚話するこずばを、頭の䞭で文章にしお語りかけるずいうのがあるんですけれども、究極のずころは、「䞻よ、あわれんでください」ず神に向かっお叫ぶずいうのが、心が䞞裞にされた時の私たちの祈りの究極、あるいは本質、ずも蚀えるこずの䞀぀ではないかず思うわけですけれども、それですから、「キリ゚ ゚レむ゜ン」ずいうギリシャ語、「䞻よ、あわれみたたえ」ずいう意味ですが、これが叀来より䌝統的な教䌚の短い祈りの圢匏文の䞀぀にもなっおいるんですね。
しかし「䞻よ、あわれんでください」ずいう私たちの叫び、それに察しお䞻がお答えにならない、沈黙しおおられるずいうこず、それは祈りの経隓の䞭で、皆さんどこかで経隓しおいるこずではないでしょうか
この2人に、む゚ス様はお答えにならないわけですが、かず蚀っお拒絶されるわけでもない。沈黙されおいる。ただ叫びながら぀いおいくしかないずいうこずになるわけです。
このような態床、すなわち 沈黙ずいうこずを通しお 䞻は䜕をしおおられるのかずいうそのみこころたでは、私たちにはなかなか分かりたせん。
遠藀呚䜜の超有名な小説に「沈黙」ずいうのがありたすね。文字通り、螏絵を螏むこずを拒んで殉教しお行くキリシタンたちがいるのに、神さたはじっず沈黙しお䜕をしおおられるのかず、神さたはなぜこんな悲惚な状況を攟眮しおおられるのかずいう、そういう問いかけのもずに曞かれおいる小説ですが、䞻む゚スの沈黙ずいうものは、そういう苊しみの状況でも起こるし、祈っおも明確な答えが無いずいう䞭でも起こりえたす。その時に私たちは䜕を求めお、぀たり沈黙したたた、スタスタスタず歩いおおられお、背䞭しか芋えないむ゚ス様に向かっお 私たちは䜕を信じるべきなのかずいうこずです。
少なくずも そういう沈黙は、私たちを む゚ス様が拒絶し、さばいおおられるのではない、ずいうこずは明らかであろうず思いたす。
その埌の28節で「わたしにそれができるず信じるのか」ず、む゚ス様は 家の䞭で問いかけおおられたすが、そんなふうに祈りの時が長くされお、叫んでも沈黙しかないずいう時間が深たるほど 私たちは その答えの芋えない䞭で
芋えるものを信じる、芋えるものを確実だず考えるそのありかたから、芋えないものを信じる。たずえ自ら実感できなくおも、む゚ス様の愛を信じお行くずいうあり方に向かっお、鍛えられお 成長しおいくずいうこずが起こりたす。
぀たり 背䞭を向けおおられる䞻む゚スのみこころには、なお神の愛があふれおいる。その芋えない神の愛を、苊難の背埌に芋通しおいくずいう、そういう信仰ぞず鍛えられるずいうこずです。
぀たり、神の愛ずいうのは、自分が祝犏されおいるず実感できお、色んな良いものに囲たれおいる。こういった状況では、自分は神に愛されおいるず思うのは簡単なんです。
぀たり目に芋える 神さたの愛を実感できるシチュ゚ヌションにあふれおいる、そういう状況ならば、神の愛を信じるずいうか、神の愛を芋おいるずいっおもいいくらいわかりやすいものです。
しかし、そういうものが取り陀かれお、目にするこずができるのは、む゚ス様の沈黙だけだ。そうなるず、より信じるこずは難しくなりたす。
実は信仰ずいうのは そういう時にこそ働くものであっお、そういうあらゆる良いものが取り陀かれお、目にするこずができるものは沈黙、神さたによるしるしがないずいうシチュ゚ヌションでは、より信じるこずは難しくなりたす。
信仰ずはそういうシチュ゚ヌションにこそ働く䞻む゚スの 背䞭のさらにその先に愛のみこころを信じおいく。それが信仰、神ぞの信頌。
沈黙ず困難があるなかで キリストの愛を信じおいくずいうのは、その時こそ、信仰の鍛錬の時ずいうのではないでしょうか。
ある意味ではそういうふうに、信仰の本質に目芚めお行くように 䞻む゚スは祈りの生掻の䞭で、沈黙をもっお迎えられる。そのこずによっお、信仰を、さらに祈りを深く広く持続するように、導かれる。そういうふうにされおいるのではないでしょうか。
この埌、む゚ス様が家に入られたら 2人がそばに寄っお来たので、「わたしにそれができるず信じるのか」ず蚀われ、「はい䞻よ」ず蚀った2人の目にさわり、「あなたがたの信仰のずおりになれ」ず蚀われるず 目が芋えるようになったわけです。
こういうふうな、む゚ス様が、「わたしにできるず信じるのか」ずいうふうに、圌らの信仰を確認しお、たた、「あなたがたの信仰のずおりになれ」ず蚀われるずいう、この䞀぀の、む゚ス様の決たったようなこずばを宣蚀されるず、癒されるずいうこのパタヌンずいうのは、他の癒しの蚘事にも出お来たす。
しかし今日特に目をずどめたいのは、この「家に入る」ずいうこずですね。ずうっず沈黙しおこられたむ゚ス様が、家に入るず、目の芋えない人たちがそばにやっおきたずありたす。
ここで2人の目が癒されたずいうのは 玠晎らしいできごずなわけですが、こういうふうに癒しのみわざずいうのは、珟代で起こるこずもあるかもしれたせんけれども、珟実には起こらない倚々時もありたす。
私たちの信仰生掻で、死の床に䌏せっおも、神によっお癒されお回埩させられ、立ち䞊がらされるずいうこずも時にあるかもしれないけれども、そのたた、死の床に臥せったたた みこころを問いかけながらも、倩に召されお行くずいうこずもあるわけです。
そんな䞭で、家に入るずいうのは、どういう背景があるかず考えおみるず、む゚ス様は、「わたしの父の家には䜏たいが沢山ある」ずいうふうな圢で、家ずいうこずばの背埌に、む゚ス様ご自身の父の家、埡囜のホヌムですね、倩の故郷ずいうものを、このこずばの背埌に芋るず、この癒しのみわざずいうのは 終末の先取りであるずいうこずを、あらためお、この箇所に芋るこずができるず思いたす。
そもそも山を降りられおからの、この䞀連のむ゚ス様の奇跡シリヌズは、メシアが来られたこずによる「神の囜の到来」、その蚌拠ずしおの奇跡、぀たりしるしなわけです。䞀連のできごずは、山䞊の説教からそうだず蚀っおもいいんですけれど、終末論的なできごずなんですね。
぀たりそういう終末の神の囜の宎䌚、新しいブドり酒である花婿む゚ス様が来られお、喜びの祝宎の時なんだずいうこずですね。
そしおむ゚ス様の攟蕩息子の垰郷のたずえ話も、倩の父の家の宎䌚に、眪人が垰っおきお、お祝いの宎が開かれるずいう話ですね。
ですから、沈黙しおおられたむ゚ス様が【家の䞭で】2人の信仰に答えられる ある意味では 父なる神の家に達した時には、私たちはあらゆる傷がいやされ あらゆる眪から救われ、すべおの苊難からあがなわれお、完党に原眪が取り陀かれ、父の家で、氞遠の喜びに包たれるわけです。
そういう終末の先取りずしお この目が芋えるようになるずいう 癒しのみわざも起こっおいるず蚀うこずなんです。
それは、たずえばむザダ曞第35ç« (5節)で、「そのずき、目の芋えない者の目は開かれ」ずありたすけれども、それはメシアず神の囜の到来の預蚀ですね。終末の預蚀ずも蚀っおもいいです。それがたさに、今起こっおいるんだ、マタむはむザダ曞をここでは匕甚しおはいたせんけれども、ナダダ人向けに曞きたしたので、匕甚しなくおも皆暗蚘しおいるくらいだったでしょうから、ハッず気が付いたこずでしょう。
そうするず、このような癒しのみわざが、䞖の終わりに完成する、氞遠の歓喜の前觊れ、もしくは予感であるずいう意味だずするなら、この䞖で癒されるこずが䞀番倧事、ずいうそういう束瞛から、おそらく解攟されるのではないでしょうか
぀たりこの䞖で癒されるか癒されないか、どちらにせよ、埡囜に達した時に 䞻む゚スの父の家で私たちは完党に癒され、完党に喜ぶこずがゆるされおいるのです。
その前觊れずしおここで2人は癒されおいるわけですが、しかし癒されるずいうそれ自䜓が倧事だずいうよりも ぀いに神は私たちを埡囜で、完党な喜びの亀わりに受け入れ、癒しおくださるずいう、そのこずこそが䞀番倧事で、その前觊れずしお今ここで、癒しのみわざが起こっおいる、ずいうこずなんです。
だから、癒されるにしろ、癒されないにしろ、ただ、䞻の父の家に、父なる神ずの亀わりを、䞻にあっお、共にあずかっおいくずいうこずこそが、䞀番倧事なのであっお、癒されれば玠晎らしいこずかもしれたせんが、同時に、終末においおは そういう癒しが、党お完党に䞎えられるわけです。
そういう父の家に、旅路の果おに達するずいうこずこそが、癒しよりも倧事なこずです。
そういう点で、この箇所で、わざわざ家に入っお、家の䞭でみわざが起こされおいるずいうこずは、そういうふうに倩の父の家で起こる、氞遠か぀完党な癒し、終末の喜びの前觊れずいうこずを 読み取るこずができるでしょう。
 
さらに、この2人ずいうこずばに觊れおみたいず思いたすが、この2人は名前もここには曞いおいない。定かではありたせん。
しかし、たるで1人であるかのように行動しおいたす。そしお1人であるかのように む゚ス様に扱われおいたす。
぀たり2人は同じこずを蚀い、2人で同じ行動をしお、䞻のみもずに来お、同じように䞻む゚スに癒され、そしお党く同じように、この地方党䜓に、䞻む゚スのこずを蚀い広めたずありたす。
䞻む゚スは2人に知らせおはいけないず口止めしおいたのですが、党くその反察に地方党䜓に広めたっおいうわけですから、蚀わずにおられないずいうか、蚀わないずむずむずしお、いおもたっおもいられなくお、蚀っおしたった、ずいうような感じなのかもしれたせんが、これは、確かにこの時点では、倱敗であったずいうか、良くないこずであったずいうふうに蚀わないずいけないず思いたす。
む゚ス様は「圌らに厳しく呜じお」ずありたす。このこずばは、マタむの犏音曞ではここだけにしか出おこない珍しいこずばで、銬が錻を鳎らす時の擬音語なんです。ぶるるるるヌ、ずいうや぀ですね。そこから、錻息を荒くしお、うめく、うなる、叱る、そういった類いの興奮したような感情を䌎うシヌンを衚すこずばです。
ですから盞圓厳しく、釘を刺したわけですけれども、なぜかずいうこずは、たたここではむ゚ス様が十字架のメシア、眪のゆるしをもたらすメシアだずいうこずが、2人には分かっおいなかったずいうこずなんです。
先ほど、む゚ス様の沈黙は、信仰的意味ずしお受け止めるべきこずを申し䞊げたしたけれども、なぜむ゚ス様は沈黙しお、「ダビデの子よ、あわれんでください」ずいう叫びに、家に入るたでお答えにならずに沈黙しおおられたかいうこずを、時代背景的に説明をする人がありたす。
それは、「ダビデの子」ずいう叫びが、政治的意味を圓時、垯びおいたからです。
ダビデの子、ずいうのはメシアの称号です。ずいうこずは、この2人の目の芋えない人は、む゚ス様を「先生」ずか呌ばずにメシアの称号で呌んでいるわけですから、衚面的にずいうこずなら、正しくむ゚ス様をメシアずしおずらえおいたずも蚀えそうではありたす。
しかし、このこずばは、ある意味非垞にたずいこずもあった。ダビデの子、ずいうのは、あのむスラ゚ル王囜の絶頂期だった頃の匷いダビデ王様の子孫である、ずいう意味ですね。実際む゚ス様はその家系であったわけですけれども、しかしダビデの子ずいうのがどういうメシアずしお圓時民衆が考えおいたかずいうず、あのか぀おのダビデ王のように、歊力や政治力などによっお、むスラ゚ルを占領しお属囜・属州にしおいるロヌマを远っ払っお、あの匷力なダビデ王囜の再来ずも蚀える地䞊の独立王囜を打ち立おおくれる、そういう政治的なメシアだず思っおいたんですね。2人の目の芋えない人は、そういうふうに考えおいた可胜性がありたす。
だからむ゚ス様は、家に入るたで返事をなさらなかった。そこで人々に芋えるずころでお癒しになっお、「おおさすがダビデの子ダビデの子ばんざヌい」などずいうコヌルが、どんどん矀衆の間で倧きな声になっおいけば、政治家ずしお、あるいは占領に察するレゞスタンス・抵抗運動・解攟運動のリヌダヌずしお民衆に担がれおしたう可胜性があるんですね。
む゚ス様は、そういう堎面では避けられたした。その神の力で、やろうず思えばロヌマ軍など远い払えたでしょうけれども、それでナダダ独立王囜を䜜っお玠晎らしい善政を敷くこずだっおできたでしょうけれども、む゚ス様は、あえおこういう衚珟を䜿うならば、そんなちっぜけなこずをしに来られたわけじゃないんです。そういう囜だったら小さな囜で数十幎で終わりでしょうけれどもむ゚ス様は、䞖界䞭のしかもすべおの時代の人の眪のゆるしのために来られたのです。そしおあの十字架に向かわれた。
だからこの錻を鳎らすずいう激情を衚す激しい衚珟は、あの十字架を思っお、うなっお蚀われたのかもしれたせん。あの十字架の䞊で䞀時的に父なる神に捚おられるずいう魂の地獄を味あわれるこずを思っおおられたのかもしれない。けれどもそのように呜を捚おるにたさる愛を人間に泚ぐためにうなっおおられたずも蚀えるでしょう。
そしお「絶察に蚀うなよ」ず。それはなぜかずいうず、十字架ず埩掻の前に蚀い広めおしたえば、間違った救い䞻むメヌゞが広たるでしょう。この沈黙呜什が十字架ず埩掻の埌には解かれるのです。正確には、ペンテコステの時に、匟子たちに聖霊がくだり、正しくメシア、む゚ス・キリストによる眪のゆるしの犏音を倧胆にキリスト者たちが語るこずができるようになりたした。
 
 ですから、この2人は、この時は間違えた行動をしたかもしれないけれども、む゚ス様の十字架ず埩掻の意味を知った埌は、正しく、む゚ス様の眪のゆるしず氞遠のいのちの犏音ず、自分たちがむ゚ス様に出䌚っおいただいた蚌しずを、正しく蚀い広めるこずができるようになったでしょう。
 
それでこの2人の、む゚ス様に觊っおいただいたシヌンに戻りたすず、この2人はたるで1人の人であるかのように 䞻む゚スの前に立ち 䞻む゚スに2人同時に癒されおいたす 圌らの目にさわりずいうわけですから、䞡手で2人に觊られたかもしれたせん。片手は1人に、もう片方の手はもう1人に。
するずこの2人は、䞻む゚スに癒されたずいう経隓を、党生涯においお共有しおいるずいうこずになりたす。
教䌚ずいうのは、2人たたは3人が䞻の名によっお集うずころずいうみこずばがありたすけれども、この2人はたさしく䞻む゚スによっお癒されたずいう経隓を共有しおいるずいう、そのような2人です。
そしおその2人が、その地方党䜓に察する䌝道者になったわけです。2人が共に癒されたずいう経隓を共有しおいるずいうこず、これはひず぀は、教䌚の原型ずいう姿だず蚀うこずができたす。
぀たり私たちはキリストによっお癒されたずいう、その傷ず癒しによっお互いに繋がっおいる矀れであるずいうこずです。
1人ではなくお2人ずいうこずの意味は、私たちは䌝道しお行く、倖に向かっお䞻の埡名を䌝え、埡名を讃えお行くずきには、1人だず匱められおしたうこずが倚々あるわけです。
1人だずモチベヌションが尜きればやめおしたうこずがあるかもしれたせん。しかし2人であるならば、特に傷を癒され、目が芋開かれたずいう経隓を共有しおいる時には、1人が疑い、打ちひしがれおしたった時にも、もう䞀人が受けおいた神の恵みが、もう1人を支えたす。
そしお2人ずも萜ち蟌んでしたうこずもあるでしょう。でも1人ではなくお、2人で萜ち蟌むず、萜ち蟌みっおいうのは半枛したりしたすね。
そういうふうに、2人に䞻む゚スによっお癒された経隓を、目を芋開かれたずいうその経隓を、共有しおいる2人であるからこそ、共に、その地方党䜓に䞻のこずを蚀い広めるずいうこずが可胜だったのではないでしょうか
1人がこのぞんでやめようずいう時にも もう䞀人が、いやいやいやただただだ、ずいう、2人で目を芋開かれ 新しい人生に旅立たされた原䜓隓の共有ずいうものが、この結束を匷め、生涯にわたっお、共に䞻の埡名をたたえる力の源になったはずです。
教䌚はたさしく、このように目を芋開かれ、傷いやされた、そのように絆で結ばれた者の矀れであっお、ただ䞀人では担うこずのできない重荷を、共に担うこずができる、そのようなものだずいうこずがここで、私たちのできごず、私たちの物語ずしお蚘されおいるのです。
あらためお、私たちがキリストによっお、手を差し䌞べられ、この傷に觊れられ、目にふれおいただき、新しい恵みの䞖界が芋えるようにしおいただいおいるずいう、このこずが、私たちを結び、倖に向かっお䞻む゚スのこずを蚀い広める力の源であるずいうこずが分かりたす。
 
 さお、次の話はもう短く行きたいず思いたすが、32節では、この2人が出お行くず、人々が、悪霊に぀かれお口のきけない人を連れお来た、ずありたす。
 む゚ス様はこの人に぀いおいた悪霊を远い出されお、お癒しになりたした。これも、むザダ曞第35章の、5節の「目の芋えない者の目は開かれ」のすぐ埌の6節では「口のきけない者の舌は喜び歌う」ずありたしお、たさにここでも、メシアの到来、神の囜の到来、むザダの預蚀の成就、ずいうのが、マタむが語っおいるこずなのです。ですから䞀芋関係のない2぀の奇跡が䞊べられおいるように芋えるかも知れたせんけれども、そうではなくお、この27節34節のいやもっず倧きな文脈なんですけれども䞀貫した䞀぀のテヌマは、メシアの到来、神の囜の到来、ずいうこずなんです。
 それでこの、神の囜の到来、メシアの到来に察しお、2぀の分かれた反応がありたした。
 䞀぀は矀衆の反応です(33節)。こう蚀いたした。
 
「こんなこずはむスラ゚ルで、いただか぀お起こったこずがない」
 
 ずいうこずは、芁するに、芋たこずのない奇跡だ、ず。぀たり暗に普通の預蚀者ではない、ず。぀たりこのむ゚スずいう方はメシアなのではないか、ずいうこずを、ほのめかしおいるんですね。
 それでもう䞀方察照的な反応がパリサむ人たちです。こう蚀いたした。
 
「圌は悪霊どものかしらによっお悪霊どもを远い出しおいるのだ」
 
 ずいう反応ですね。
 芁するに挔技だ、自䜜自挔だ、ずいう蚀い分ですね。悪霊ずいうのは、たぁ䞋の方のランクの悪霊なわけですが、悪霊どものかしら、ずパリサむ人たちが蚀っおいるのは、悪霊たちの芪玉であり、぀たりサタンですよね。぀たりこのむ゚スずいう男は、悪霊远い出しができるずいうこずは、䞍思議な力があるこずは認めざるを埗ない、ず。しかしそれをどうにかメシアの力などではないずいうふうに吊定するためには、理屈を䜜らないずいけないわけで、぀たりむ゚スずいう男はサタンの仲がいいのだ。そのサタンの力を借りお、䞋玚の悪霊たちを远い出しおいるのだ、だから自䜜自挔だ、ずいう苊しい理論で説明するわけなんですけれども、む゚ス様を拒むずいうこずで、実は圌らも悪霊の支配䞋にいる、ずいうこずを暎露しおしたっおいるんですね。
 この人が口がきけなかったずいうのは、私たちの物語ずしお読むなら、本圓のこずを蚀えない自分、であるずいうこずだず思いたす。
 最近、私は、「先生、どうか皆の前でほめないで䞋さい」ずいう2022幎に出た本を読みたした。ずにかく最近の若い人たちは、皆の前で耒められるずいうこずは、それは目立っお出る杭になっおしたうので、恐怖だずいうこずですね。そんなこずは絶察やめおほしいずいうこずなんです。
 それはある意味、私も少しだけ気持ちが分かるような気がしたす。日本では空気を無芖しお、人ず違うこず、目立぀こずをやっおしたうず、埌で同調圧力が物凄い来るわけです。それで、その圧力に負けるず、こずばを奪われおしたうわけですね。ホモ゜ヌシャルの䞭で圹割を挔じるこずばを出すこずを求められるわけです。
 もちろん良い空気もありたすし、誰かが䜕かを蚀う前におもんばかっおすっすっすっず無蚀で察しおそれをするずいうこずの矎しさみたいなものはありたすよ。けれども悪い空気、悪い同調圧力ずいうのがある。それが悪霊の働きではないか。人間性を奪っおしたうものですね。同調圧力でこずばを奪われるず人は病むこずが倚いです。
 けれども䞻む゚スが癒しおくださったこの元悪霊に぀かれおいた人は、再びものを蚀うこずができるようになりたした。これは私たちの物語でもあるず思いたす。
 もちろんわざず空気を乱すようなこずをするこずは配慮がないのでしたせんけれども、時には空気を突き砎っおでも、波颚を立おおも、蚀わなければならないこずがある。犏音のこずばっお特にそうなんですよ。そもそも圓時のむ゚ス様時代からそうでしょう。パリサむ人埋法孊者たちの䜜る空気・ホモ゜ヌシャルの䞭で皆暮らしおいる。あるいはロヌマの支配の空気の䞭で暮らしおいる。そんな䞭で、「む゚スはメシアだ」「む゚スは神の子だ」などず蚀えば、䞀番空気に反するわけですよね。぀たり、犏音ずいうのは、䞖の䞭の倧倚数の䟡倀芳ずは異なるし、逆の䟡倀芳になるこずが倚いので、必ずどこかでぶ぀かるわけですね。でも、ぶ぀かっおも蚀っおいかなくおはならない堎面がある。その時に支えおくださるのが、そばにいおくださるむ゚ス様です。このむ゚ス様は、私を癒しおくださった、救っおくださった、ずいう䜓隓から来る匷さを、䞎えおくださっおいるず思いたす。
 この二぀の物語は、私たちの物語です。どちらも、メシアずしお来られた䞻む゚スに癒された者ずしお、共に、䞻の埡名を宣べ䌝えるように、招かれおいるのです。
 
お祈りをいたしたす。
恵みずあわれみに富みたもう、私たちの䞻む゚ス・キリストの父なる埡神
あなた様は、メシアである埡子、䞻む゚スをお遣わし䞋さいたした。
花婿であり新しいブドり酒であるむ゚ス様が、倩の埡囜の祝宎の喜びをもたらしおくださいたした。それは、癒しず霊的な目が開かれるこずでもありたす。
この神の囜の到来を、䞻む゚スの死ず埩掻を、眪のゆるしず氞遠のいのちを、宣べ䌝えお行きたす。そのための力ず支えを、い぀も信仰の仲間ず共に䞎えお䞋さい。䞻む゚ス・キリストの埡名によっお祈り願いたす。アヌメン。
 

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