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【文書版】礼拝メッセージ『パリサイ人と取税人』新約聖書 ルカの福音書第18章9~14節

✴️昨日2022年10月23日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✅『パリサイ人と取税人』
新約聖書 ルカの福音書第18章9~14節
 
9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
10「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
14あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
 
 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 
 最近も統一協会がらみの報道が多いですが、高知の被害者の方がメディア等に出ていらっしゃいますが、この方のところに、先日16日、なんと教団改革本部長の勅使河原さんが、突然アポなし訪問をしてきたということですね。その後20日に、統一協会は6回目の会見を行なっていますね。
 その会見がひどいもので、被害者に謝るとか、寄り添うとか、そういった姿勢がいっさい無い。とにかく6回のすべての会見がそうでしょう。
 とにかく勅使河原さんも、むしろもっと上層部の人が、と言った方がいいかも知れませんけれども、「自分は正しい、自分たちは正しい」と信じて疑わない。そういう姿勢が見えてきますけれども、幸いなことに、質問権の行使によって、解散請求に一歩進んだようにも思えますし、二世信者の方々が声を上げ続けてくださって、またジャーナリストの鈴木エイトさんたちも呼びかけに入っている統一協会解散を求めるオンライン署名が、先日16万筆を突破したということで、本当に、この方々のご尽力に、頭が下がるばかりの思いがしております。
 
 ということで、統一協会の基本姿勢は、「自分は正しい」他にもありますけれども、一言で言えば、それに尽きると思いますが、今日はですね、自分は正しいと信じて疑わない人を、イエス様はたとえ話に登場させておられます。
 これは「パリサイ人と取税人、あるいはファリサイ派と徴税人」と呼ばれることの多い、主イエスのたとえ話の中でわりに有名なほうですね。

 パリサイ人、翻訳によってはファリサイ派となりますけれども、2人の人が祈るために宮に上ったとありますね。これはエルサレム神殿のことです。
 一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
 この取税人というのは、税金を取る仕事の人ですが、大変嫌われていたんですね。今の税務署の職員さんと言えば、たいへんきちんとした、税の知識の豊富な訓練を積んだ人というイメージがあるかな、と思いますけれども、当時のユダヤでは全くイメージが違うんですね。この取税人は大変嫌われていた。公務員じゃないんですね。ローマからの請負で、入札制でこの仕事をする権利をもらっていたんですね。
 だから、ユダヤ人からは、俺たちのユダヤの国を、植民地にしているあの憎っくきローマの手先め、ということで、ユダヤ人からは大変嫌われて、そして孤独な人生を歩んでいたと思われます。来週はザアカイさんの話をいたしますけれども、ザアカイさんもその取税人ですね。
 そしてパリサイ人の方は、「自分は正しい」と信じて疑わなかったと先ほど申しましたけれども、統一協会とは(少し)違って、社会的には押しも押されもせぬパリサイ人といったところでしょうか、大変社会的にも認められていて、尊敬もされていた。私たちがパリサイ人、ファリサイ派と聞いた時に、ともすれば意地の悪そうないかにも悪代官のように描かれた教会の紙芝居などで、パリサイ人というのは、とっても悪いやつらなんだ、というイメージがついているかもしれませんけれども、当時の民衆からのイメージでは、尊敬の的だったわけですね。もともとは、律法も守らないで、だらけているイスラエルの民の中で、これではいかんと自覚した人たちが、自分たちだけは、律法をきちんと守る、しっかりと神に従う生活を作ろうと、自主的にやり始めた人たちなんです。ですから、時代が下って、イエス様時代には、立派な人、敬虔な人、清廉潔白な人、聖書をとってもよく読んで、実践している人、確かにパリサイ人にはそれでも偽善性があったわけですけれども、民衆もその偽善性に気付いている人は多分少なくて、ほぼほぼ皆パリサイ人を尊敬してあこがれの的だった。社会的にも地位が高くて、尊敬と信頼を受ける人たちだったわけですね。
 だからですね、民衆からも、「正しい人たち」という評価を受けていましたし、他にも、口伝律法と呼ばれる口伝えの律法ですね。モーセの律法、旧約聖書には書いていないものを、沢山の細かい決まりを先祖伝来作ってきて、それを口伝えで伝えているもろもろの決まり、それらも完璧ぐらいに守っている人たち、それがこのたとえ話の、パリサイ人のせりふにも出ているわけですね(12節)。
 
12私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
 
 この週に二度断食というのは、毎週月曜日と木曜日だったそうです。まあ厳しい生活をしているように思いますね。ところがユダヤの律法には、年一回断食しなさいよ、ということで、週二回、年間にすれば、52週くらいありますから、104回ですか、自発的に、100回以上余分に断食してですね、それはこの自分たちが積み上げる功徳によって、中途半端で世俗的な人たちの責任まで引き受けて、自らの身を悩ませた、、、ということらしいんですね。
 それから、「自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げて」いるということですね。旧約聖書には、10分の一を捧げなさい、と書いてありますけれども、私改めてもう少し詳しく調べて勉強してみたのですが、どうやら全収入の10分の一では無かったようなんですね、当時も。
 申命記の第14章の22節23節をみますと(読まないでスクリーンに映す)。
 
旧約聖書 申命記第14章22~23節
22 あなたは毎年、種を蒔いて畑から得るすべての収穫の十分の一を、必ず献げなければならない。
23主が御名を住まわせるために選ばれる場所、あなたの神、主の前であなたの穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつまでも、あなたの神、主を恐れることを学ぶためである。
 
 ということで、「あなたの穀物、新しいぶどう酒、油の十分の一、そして牛や羊の初子を食べなさい」
 
 ということで、ささげなければならない、ということばも、アサルというヘブル語で「取り分ける」という意味なので、それらの10分の一を取り分けておいて、神殿に持ってきて散財したっていうんですね。要するに大地の実りでパーティしたということだと思いますが、ささげた人も食べたんですよね。そして、こういう持ってきたもので、神殿で仕えるレビ人たちと困窮者たちを養うという、そういう税金的なもの(あるいは富の再分配的なもの)でもあったのに加えて、「家畜も含めて大地の実りの十分の一」であって、他の収入は含めなかったようなんですね、当時から。そしてある学者の説明によれば、「十分の一の捧げ方や使い方は時代によっても地域によっても違ったようで、必ずしもいつも作物の十分の一を献納したわけでもなかったらしくあります」ということですね。時代や地域によっても変動があったようですね。ちょっと説明が長くなりましたけれど、要するに、その背景が、パリサイ人のせりふにも出てきているわけです。(ルカ第18章14節後半)
自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
 
 ということで、つまり、私は他の人たちが、「大地の実り」の10分の一を持ってきている、けれども私たちは、自主的に、それだけではあきたらず、「全収入の」十分の一をささげます、と言って、熱心にやっていたわけですね。
 
 だから鼻高々で、自信満々で、立って、手を広げて、目を天に上げて、祈っていた。これはユダヤ人の祈りのスタイルですね。「神よ、私が他の人のように、ことにこんな取税人のような罪びとではないことに感謝します。」
 
 ところがもう一方、取税人の方です。皆から罪びとと言われ、自分の罪を自覚しています。だからこそ、遠く離れて、私は神殿の真ん中の方に行く資格はない、多分異邦人の庭と言われるようなところでしょうか。一番すみっこのほうで、ちぢこまって、目を天に上げようともしないで、ユダヤ人のこういう祈りのスタイルを取ることができない、神に合わせる顔がないと思っているので、天に目を向けることができないんです。そして、自分の胸を打ちたたいて、「神さま、こんな罪びとの私をあわれんでください」って言うんです。涙ながらに、嗚咽して。
 
 そこでイエス様は言われる。
 
14あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
 
 ということで、イエス様は、ここで大どんでん返しのドラマを描かれます。ことばでイラストレーションなさっています。神さまから義と認められて家に帰ったのは、パリサイ人ではなくて、取税人であった。
 イエス様の周りで聞いていた人たちはビックリしたかもしれません。義とされるのはパリサイ人でしょ、っていう常識をひっくり返しておしまいになった。
 しかし、分かりやすく極端にパリサイ人の隠している罪をデフォルメして語って下さっているので、確かにこのパリサイ人は悪いわって、この時、聞いていた人たちにも明らかに分かったかもしれません。
 パリサイ人はきちんとしているけれど、愛がありません。取税人を「神よ、この取税人を助けてください」などと祈っていません。あわれみや共感が無いどころか、見下しています。
 そして取税人の方は、悪党と呼ばれていたけれども、こんなに神さまの前にへりくだって、謙遜になっている。
 きちんとしたパリサイ人がどんなに醜いかがクローズアップされているし、悔い改める取税人の真摯で必死な姿勢が、感動を、聴き手に呼び起こしたかもしれません。
 
 私たちはここからですね、パリサイ人のように高慢な者ではなく、自我が砕かれて謙遜な者になりましょうとか、あるいは、祈りにおいても、神さまの前に高慢な祈りをするのではなくて、へりくだった、謙遜な「悔い改めの祈り」をしましょうとか、そういうメッセージを聴きとるんでしょうか。しかし、そうしますとワナにはまるわけでして、私たちは、「あんなパリサイ人にならないようにしましょう」という視点が身について行くかもしれないんですね。
 そうしますと、ちょっと半分笑い話みたいになりますけれども、私たちはともすれば「あんな高慢なクリスチャンとは私は違う」「神よ、私はこんなにも涙ながらに悔い改めの祈りをしています。主よ、私があんなパリサイ人みたいなクリスチャンではないことを感謝します。」と心の中で、そういった祈りをするようになるかもしれません。
 こういうふうに、人はみんなパリサイ的なんですね。どうしたって律法主義的パリサイ的になる。祈りにおいても、聖書の読み方・受け止め方においても、なんです。
 
聖書を読む時、聞く時に、これは〇、これは×、と言う視点で読みやすい性質が私たちにはある。「こういう人は〇で、こういう人は×なんだな。」そうするとすぐに「よっし、私は〇の方になろう、×の方のような人にならないように心がけよう。」と思いますし、それに実にしばしばよくこびりつくのが、「×の連中はダメだね」と人を見下す思いなのです。
 
 で、そういうことを考えます時に、私もこのみことばを、「自分に語られたことば」として聞く時に、やはり自分はパリサイ人の方に似ている、と思うわけですね。
 まあ、牧師なんていうのは、一番パリサイ的になりやすい、と言います。真面目で、熱心に信仰に励もうとしやすい人ですから。
 少し話を戻しまして、冒頭でお話しました、統一協会の話にしても、私は心の中でひそかに、こう思っているわけですね。
 
「神よ。私がカルト宗教、ことに、こんなひどい統一協会ではないことを感謝します」と。
 
 プロテスタントのは伝統宗教の一つとみられますし、プロテスタントの私たちはこう思いやすいところがあるのかもしれません。
 確かに、統一協会を擁護する必要は一切無いと思います。プロテスタントの私たちも、社会全体と共に、カルト団体に対して批判の声をきちっと上げ続けること、これはとても大事なことだと思います。黙ってはいけない部分がありますね。
 でも、これはある人のことばですが、カルトとまとも、あるいはカルトと正常―まあ何をもってまとも・正常と言うかというのもありますけれども―カルトと私たち(異常とまとも)の間っていうのは、深い溝があるんじゃなくて、薄い膜なんだ、って言うんですね。その通りだと思います。
 私自身も、過去に、みことばで霊的ハラスメントをしてしまったことがあります。ですから大変申し訳なかったと思うんですけれども、プロテスタントでも、黒でなくても、うっすらグレーに、かすかにカルト性を帯び始めることもある。「自分が正しい」と思って自己反省をせずに、走ってしまいますとそういう道になりかねませんから、「人のふり見てわがふり直せ」ではありませんけれども、たえず「自己批判」もしながら、「自分は正しい」とか「私たちは真っ白」などと思わずに、常に「自分(たち)は間違っているかもしれない」という意識をもって、日々悔い改めて改善を続けながら歩んで行くことが大事だと思います。
 
 しかし、ここで語られていることは、じつはもっと深くて、「人のふり見てわがふり直せ」ということでさえない。このパリサイ人のせりふにもっと注目してみたいと思うわけですが(11節)、
 
11パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。
 
 心の中で、と訳されていますけれども、これはちょっと意訳に近いと思うんですね。原文は「自分自身に向かって祈った」ということばなんです。「ひとりで祈った」と訳している聖書も(口語訳、前田訳)ありまして、その方がこの祈りの本質を表していると思うんですね。
 つまり、祈りには相手がいますね。本来は神さまに対してなんですけれども、このパリサイ人は「神よ」と言いながら、神に向かわずに、自分に向かって祈っていた。神ではなく、自分を相手にして祈っていた。ひとりで祈ったというのは、「みんなと一緒に祈ったんじゃくて一人で祈った」という意味ではなく、【相手無しで祈った】ということなんです。それは、「祈りになっていない」と主イエスは言っておられる。
 確かに、祈りの形は模範的なものでした。声もよどみなく、はっきりよく通る声だったでしょう。途中で詰まることなくすらすら言えました。祈りの時の格好も背筋が伸びて完璧です。自分の良心に照らしても、心の中にやましいことは何一つなかった。しかし、そこでこそ、だからこそと言っていいと思いますが、彼には【神はいらなかった】んです。「神よ」と祈りの定型句としてつけていただけで、神の助けは何もいらない。だってそうでしょう。当時のパリサイ人よろしく、律法の行ないによって救われると思っていますから、自分の力で全部やれているので、神さま必要ないんです。だからこそ、「ひとりで祈った」「自分自身に祈った」イエス様のみられるとこそ、ほんとうは祈りにはなっていなかった。だからこそ、彼は神殿のおそらく真ん中にいながら、心においては、神と最も遠いところにいたんです。
 
 一方取税人も、律法の行ないによって救われると思っていました。だからこそ、こんな私じゃ申し訳ない、神様に合わせる顔がないって、目を天に上げることもできずに、いっちばん隅っこにいて、自分の胸を打ちたたいて、「神さま、こんな罪びとの私をあわれんでください」って、言ったんですね。
 「こんなのは祈りになっていない」って、周りのユダヤ人たちは思ったでしょう。第一、ちゃんとした祈りの時の格好をしていないし、ことばも詰まって涙と鼻水垂らしながら、「あんなのは独り言だ。あのパリサイ人の先生の立派な祈りを見たか」と周りの民衆は見たかもしれません。
 しかしまさにそこで、義とされたのは、この取税人だって、主イエスは言われるのです。
 この「義とされる」ということばは、ともすれば誤解されるところがあるかもしれません。正義の義という漢字で翻訳されていますから、「正しさ」という意味だと思われるかもしれませんが、この「義」というのは、旧約でも新約でも【関係概念】のことばなんですね。「神さまとの良好なお付き合い」という意味です。義、というのは。ですから聖書で「義人」と出てきた時には、正義の人、というよりも、「神さまと良いお付き合いをさせていただいている人」というふうに「神様との関係」でとらえた方がいいです。
 そうとらえると、お分かりになると思います。神さまとの関係が良好になったのは、取税人が、神さまをどうしても必要とした人だったからです。律法を守ることも、自分の力ではできません。だから神さまあわれんでくださいって。
 
 この取税人の「あわれんでください」というこのことば、これは「なだめてください」というニュアンスのことばです。もっと言えば「わたしの代わりに死んでくれるなだめのいけにえをください」または「この神殿でささげられているいけにえのゆえに、私をあわれんでください」という意味なのです。
 
 だから取税人は知っていたのです。自分自身の行ないでは、神の前に立つことはできない。もちろん、あのパリサイ人の先生のように、立派な祈りはできませんとか、もしくは、あんな偽善者のパリサイ人と私は違いますとも、取税人は思っていなかった。ただ神だけを相手にした。でも、罪ある私は、神の前に立つことはできない。旧約の習慣にあわせて、その償いは、本来は自分のいのちが流されること、血が流されなくてはならない。それならば、身代わりに、血をながしてくれる、いけにえが、私にはどうしても必要なのです。そう、彼はむせび泣きながら、声をしぼりだした。
 
 その「なだめのいけにえ」とは何か?ここと同じことばを、使徒パウロはローマ人への手紙の中で、このように説明しています。
 
新約聖書 ローマ人への手紙第3章24~25節前半
24神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
25神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による【宥めのささげ物】として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。
 
 つまり、【このイエス・キリストこそ、なだめのいけにえだった!】血によるというのは、ご自身が十字架の上で流された血潮です。この血潮によって、私たちの罪がゆるされ、三日目のご復活によって、私たちに永遠のいのち、天の御国の約束が確かに与えられました。
 ですから私たちは、あの人はパリサイ人なんだろうか、この人は取税人なんだろうか、と問う必要は無い。いやむしろ、自分はパリサイ人なんだろうか、取税人なんだろうか、と問うことさえ、する必要はないのかもしれない。私たちはいつも両方である、と言うことができるかと思います。
 私たちはいつもパリサイ的にもなります。自分の行ないを誇っては、自分はこれだけできました、と自分に言い聞かせて、自分の正しさを証明しようとする心があります。そしてそれは同時に、誰かを「私があんな○○な人ではないことを感謝します」と見下す思いともつながっている。そんなどうしようもない罪びとである私たちは、いつでも神の前にひざまずいて、神よあわれんでください、って、祈る時に、まさにあの十字架が輝き見えるのです。見よわが罪は十字架にくぎづけられたり!そのゆるしを受ける祈りをするように、私たち全員が招かれています。ここにはそういう神からの招きが、語られているのです。「わたしはあなたの祈りを聞く」そう主イエスは今、あなたに呼びかけておられる。
 
 そのイエス様のみこころを、なおはっきりと明らかにするために、ルカは、今日はお読みしなかったこの続きの15節以下に、イエス様が幼子たちを、もっと正確にいえば、乳飲み子たちを受け入れて下さったという記事を書きました。
 人々が乳飲み子たちを連れてきた。そうしたら弟子たちは、女子供の来るところじゃない、帰れ。」と言った。けれども主イエスは、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。邪魔をするな。わたしは、この子供たちを祝福したいのだ。」そして言われました。「神の国は、このような者たちのものである」
 どうして、乳飲み子たちは神の国に入ることができたのでしょうか。立派な悔い改めの祈りをしたからでしょうか?もちろんそうではありません。ただただ単純なことです。イエス様が、その乳飲み子たちを見て、心の底から愛おしいと思われたからです。そして、こころからその乳飲み子をいとおしむように、その子供たちを抱きかかえてくださった。手を置いて祝福してくださった。主イエスはそのようにしながら、ここに神の国がある。ここに神が生きておられる。そう言われたのです。
 乳飲み子たちが偉いとか、そういう話ではありません。この乳飲み子は、神に愛されているのです。その神の愛に、文字通り、全身をゆだねているのです。ただ、それだけなのです。その乳飲み子の姿、神に愛された人間の姿を、主イエスは、たとえ話の中で、一人の取税人として語っておられるのです。いつもパリサイ的になりがちな私たちを、取税人になりなさい、と言っておられる…というよりも、取税人の位置、神様のおそばに呼び寄せて、抱きしめてくださっているのです。私たちはすでに、神の愛に包まれながら、神の前に立っているのです。お祈りをいたします。
 
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
ほかの誰の前に立つのでもなく、ただひたすらにあなたのみ前に、私たちは立たせていただいております。あなた様が、私たちを愛していてくださるからです。このあなた様のご愛のほか、何も誇るものは私たちのうちにありません。胸を打ちたたきながら祈ったこの取税人のように、また、すべてをゆだねて主イエスに抱かれている乳飲み子のように、ただ、あなたの愛の中に立ち帰ります。主イエス・キリストの御名によってこの祈りをみ前におささげいたします。アーメン。
 
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