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【文書版】✅「世界病者の日」のフランシスコ教皇の言葉についても語ります。✴️礼拝メッセージ『神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに世を愛された』新約聖書 ヨハネの福音書 第3章1~21節

昨日2022年3月5日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✅メッセージの中で画像の「世界病者の日」のフランシスコ教皇の言葉についても語ります。
✴️『神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに世を愛された』
新約聖書 ヨハネの福音書 第3章1~21節

1さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。
2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」
9ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
10イエスは答えられた。「あなたはイスラエルの教師なのに、そのことが分からないのですか。
11まことに、まことに、あなたに言います。わたしたちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れません。
12わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。
13だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。
14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
18御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
19そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
20悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
21しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。
 
 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 
 先日、私、カトリックのですね、世界病者の日(2月11日)のフランシスコ教皇のメッセージの文書をもらいまして、大変素晴らしいこと書いてあると思いましたのでご紹介いたします。検索しましたらネットでも見られるみたいですね。抜粋して紹介します。
 
2023年第31回「世界病者の日」教皇メッセージ
兄弟姉妹の皆さん。わたしたちは、病気に完全に備えておくことなどできません。年を取ることすら、受け入れられない人も少なくありません。脆弱さを恐れ、市場原理の支配する文化によって脆弱さを否定させられます。弱みを見せるわけにはいきません。そのため不幸に襲われ痛めつけられると、わたしたちはただぼう然とするのです。そうなると、他者から見捨てられてしまったり、また、他者の負担にならないよう、自分のほうから離れなければならないと思い込んでしまったりします。こうして孤独が始まり、わたしたちは、天さえもが閉ざされたと思えるような不正義に対する苦しみに毒されてしまいます。
 
(中略)
 
…他者の弱さを自らのものとし、排除する社会を作らず、かえって隣人となって倒れた人を起き上がらせて社会に復帰させる人々から成る共同体を再構築できるイニシアティブを示しています」
 
(中略)
 
働ける人だけに価値があるのではなく、生産性のある人だけが大切なのでもありません。病者は神の民の中心であり、神の民は、人類の預言である彼らとともに前進するのです。一人ひとりに尊い価値があり、だれも切り捨ててはならないという預言です。
 
 ということですが、いかがでしょうか。本当に大切なことを伝えてくださっています。ともすれば、今、特に、いのちを軽んじるような闇の声が世間で大声で叫ばれている、そういった時代に、本当に私たちが聞くべきメッセージ、いってみれば光の声がここに語られているように思います。
 
 今日、ここで神のことばとして共に聴きましたのも、―教皇はルカの福音書を取り上げていらっしゃって、今日のみことばはヨハネの方の福音書なので―聖書箇所こそ異なりながらも、まったく同じ、神さまからの私たちへの光の声です。
 
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 
 という、この大変有名なみことば、新島襄という人は、このヨハネ第3章16節を「聖書の中の富士山」と言いましたし、「聖書のエベレスト」だと言う人もいます。宗教改革者マルティン・ルターは、「小聖書」だと呼びました。小さな聖書ですね。聖書全巻のエッセンスがここに詰まっている。たとえもし仮に、聖書が全部失われることがあったとしても、この1節が残っていれば、人は救われ続ける、そんなふうにも言われております。

 イエス様と、パリサイ人のニコデモという人の問答から、始まるわけです。まぁパリサイ人と言いますと、イエス様とたいてい敵対しておりまして、イエス様を言葉のワナにかけたり、陥れようとする人がほとんどなんですが、このニコデモという人は、パリサイ人の中でも、自分たちの立場や権力や既得権益などを守ろうと腐心しているパリサイ人たちが周りにはほとんどな中で、それでも大変真摯な、求道新と言いますか、そういった欲や権力を優先させないで、真剣に、真理とは何かを追い求める人だったんでしょう。このイエスという方は、真実に神から遣わされた方だ、何かある、と見抜いて、夜、イエス様のもとにやってきた、というわけですね。
イエス様に対して「先生」と言っていますけれども、これは「ラビ」ということばで、ユダヤ教の教師に対する最大限の尊敬を込めたことばですね。
 これは大変なことだと思います。ニコデモは老年になっていました。それで、ユダヤ人の議員であった。というのは、最高法院であるサンヘドリンの一員だったんですね。当時のユダヤは、もちろん政教分離ではなくて、政教一致というかですね、宗教者が政治を行なう、もちろん他にヘロデ・アンティパスという領主がいたり、ローマ帝国の支配がその上にあったりと、権力構造は複雑なんですけれども、とにかく自治というかですね、死刑なんかの執行権はなかったんですけれども、民の困りごとであるとか、どういう政策にするか、そういったことを、このサンヘドリンの議会で決めていたわけですね。そのサンヘドリンは70人の議会でして、その70の中にニコデモさんは入っていたわけですね。国会議員だったと。そして、裁判もやったそうで、今でいえば最高裁の判事、そして、後でイエス様に、「イスラエルの名だたる教師」と言われていまして、ある説によれば、当時のユダヤ教のいわば神学校の校長先生だったのではないかという人もいるぐらいです。校長でなくてもユダヤ教の教師の中でも名の知れた先生だったわけですね。ですから大変大変偉い人であった。60歳くらいでしょうか70歳くらいでしょうか。人生経験も豊富である。この人こそみんなからラビ・先生、と尊敬を込めて呼ばれていた人なのですが、この偉い人が、非常に謙遜になって、イエス様のもとに、夜、やってきて、イエス様をラビと呼んだ。教えを乞いにやってきたわけですね。何か、心の中に、ひっかかるものがあった。満たされないものがあった。でもその何か、を、いわばこの30代の若く、無資格な、在野の聖書の教師(当時は多くの人々にイエス様はそう思われていました。ユダヤ教の教師・律法の教師だと)であるイエスという方は、内にもっている、この方は何か力のある、神から遣わされた方だ、そういう鋭い、見抜く目をもってやってきたんですね。
 
 それで、イエス様にニコデモは言うわけですね。(2節)

あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
 
 そう言いますと、イエス様は、こうお答えになるんですね。

3イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 
 何も質問をされていないのに、イエス様はお答えになっていますね。これはもうニコデモの中にある質問をすでに読み取っているんです。この2節の「しるし」というのは、メシアが来られたことの証拠としての奇跡なんですが、ですからニコデモは、もうメシアが来られるんですか?神の国、神のご支配はもう始まっているのですか?私はそれに入れますか?という質問が、おそらくニコデモの心の中にあったに違いない。ですから、この神の国、まぁ天国と考えてもいいんですけれども、神の国を見るとは、入る、と同じ意味と言っていいんですけれども、私はその神の国に入れますか?または、入るためには、どのような行ないを追加したらいいですか?という質問を含んだニコデモの言葉だったんです。
 
 そうするとイエス様は、人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と答えられたというわけですが、行ないを追加するんじゃない。新しく生まれるんだ、と。
 そうするとニコデモは言いました。(4節)
 
「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」
 
 まぁこれは愚問だとすぐに思うわけですが、別に老いていなくても、赤ちゃんだって、もう一度お母さんのお腹の中に入って生まれて来るなんてできないよ、ニコデモさんは頭がいいはずなのにこんなに頓珍漢な質問をするのかな、と思うわけですが、日本人は、わりあい、この新しく生まれなければ、というのを、精神論的に取ると思います。「明日から、生まれ変わった気になって、心機一転頑張ります」といったですね、そういう意味だろうと、そう思って、ニコデモさんの答えを、ばかだなぁと思ったりするかもしれませんけれども、その日本人的な精神論の話でもない。ユダヤ人は字義的に文字通りに解釈するクセがあるのかな、とも思ったりもするんですけれども、おらくここではそうではなくてですね、ニコデモさんも何かここで核心を突かれそうだな、と感じとって、話を核心からそらせようとしていたんだと思います。しかしイエス様は、核心からそらせることを許しません。まっすぐに続けます。(5節)

5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
 
 ここでイエス様の言われた、「水と御霊によって」生まれる、というのはどういうことでしょうか?ちなみに、新しく生まれる、の新しく、と訳されていることばは、ニコデモが「もう一度お母さんのお腹に入って」というふうに取ったように、新しく、再びagainですね。そういう意味もありますが、上からというですね、二重の意味があります。ですから、上から、新しく、水と御霊によって生まれる、う~ん、なんだか禅問答みたいですね。ですから教会では古来よりここの意味はさまざまに解釈されてきました。
 
 御霊というのは、「父と子と聖霊」の聖霊のことなんですけれども、ここで言う水とは何だろう?これは、水の洗礼の意味であると。こういう解釈が昔からあります。洗礼は生まれ変わりの洗いですから、そういう意味にも取れますね。ありうる解釈の一つだと思います。
 また、この水とは、みことばのことである。みことばを聞き、また御霊、聖霊がイエス様こそ私の罪からの救い主だと教えてくださるので、それによって救われ、神の国に入る。そういう解釈もありうると思います。その二つを以前の説教でもご紹介したかと思います。
 しかしもっと深く考えてみますとですね、その先の問答で、ニコデモはイエス様に「あなたはイスラエルの名だたる教師なのに、そのことが分からないのですか?」と叱責されていますので、どうも、二人の間に、省かれている会話があるみたいですね。2人とも旧約聖書を隅から隅までよく知っているわけですから、ですからイエス様が、「水と御霊と言うたらあの箇所よね、あの箇所よね」とわざわざ言わなくてもですね、イスラエルの教師共通の知識として、旧約聖書の中のどの書に書いてあるなどとと言わなくても、この箇所が頭に浮かんでいたと思います。
 
旧約聖書 エゼキエル書第36章25~26節ですね。
25わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよくなる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
26あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
 
 これは、直接的には、エゼキエルが預言しているのは、バビロン捕囚(ほしゅう)からの回復なんです。イエス様より600年近く前に、イスラエルの民は、戦争に負けてバビロン王国に奴隷として捕らえ移されて行きました。これを捕囚と呼ぶわけですが、そこから回復する時に、内面のきよめが行なわれる、そういう文脈で、預言者エゼキエルによって語られたみことばですが、エゼキエルの預言は過去に起こったこと、終わったことなので、「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか」と言ったのだと思います。
 
 そこで色々と、話が展開していくわけですが、14節15節で、イエス様は謎めいたことを言われます。
 
14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。
15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
 
 「モーセが荒野で蛇を上げたように」というこのことばは、日本人にはなじみが薄いかもしれませんけれども、ユダヤ人にとっては常識だったんですね。ニコデモさんはユダヤ人ですから、モーセの話はとても詳しく知っていたわけですね。細かいところまで知っていた。私たちは正確に見るために、旧約聖書のそのモーセの箇所を読んでみます。
旧約聖書の民数記 第21章4~9節です。
 
4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回しようとして、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中で我慢ができなくなり、
5神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」
6そこで主は民の中に燃える蛇を送られた。蛇は民にかみついたので、イスラエルのうちの多くの者が死んだ。
7民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難したりして、罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。
8すると主はモーセに言われた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」
9モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

 ここで不思議な事件が起こっていますね。モーセが、イスラエルの民をエジプトから脱出させて、荒野を旅する中で、イスラエルの民が、神とモーセに逆らった。神様が与えてくださるマナという食糧に文句を言った。そこで神様は燃える蛇を送られたとありますけれど、おそらくかまれたところが焼けるように痛んだという意味で毒蛇ということなんでしょう。そこで神様がモーセに「青銅の蛇を作って、旗ざおの上に付けよ」とお命じになった。そうすると、かまれた人たちが、その旗竿という「木にかけられた」青銅の蛇をイスラエルの民が仰ぎ見ると、見上げた人は、生きた、って言うんですね。
 謎ですよね。神様がモーセに「この草とこの草とをまぜて、毒を消す薬を作れ」とおっしゃって、その薬を飲んだ民は、生きた、ということであれば、すっきり分かりますね。しかし、どうして青銅の蛇を仰ぎ見るだけで、民のいのちが助かったのか?この事件は、長年謎とされてきまして、パリサイ人、つまりニコデモさんたちが生きていた時代にも、はっきりとした答えや説明をした人はいなかったんですよね。おそらく、ニコデモさんの長年の聖書研究でも分からなかったはずです。
 そこにイエス様は、また禅問答のようにですけれども、答えをお与えになりました。人の子、つまり、わたしが、モーセが掲げた青銅の蛇のように、木にかけられて上げられる。それを仰ぎ見る者は、生きる!しかもイスラエルの民は、蛇を仰ぎ見た時に、地上の命が助かっただけだが、わたしを仰ぎ見る者は、永遠に生きる!永遠のいのちを得る!ここでそう語られたわけですね。
 
 
 それで、この新改訳の翻訳では、イエス様の台詞が続いて行くなか、15節で、セリフの括弧閉じる、がついています。だからこの翻訳では16節からは福音書を書いた使徒ヨハネの台詞だと解釈して括弧閉じるをつけているわけですね。しかし、聖書の原文では、こんなセリフの括弧閉じるなんてついていないわけですね。ですから、どこでイエス様のことばが終わっているかは、文脈で判断しなければならないんですね。ですから、15節までで一旦ニコデモとイエス様の会話が終わってですね、舞台で言えば、スポットライトがイエス様とニコデモに当たっていたのが消えて、16節からは、福音書を書いた使徒ヨハネの独白というようなシーンになると考えてもいいんです。観客である私たちに語りかけているわけですね。どこで会話が切れているかは、今でもここじゃないかここじゃないかと議論があって、はっきりと特定することはできません。しかし、どこで切れるか特定することもあまり意味がないかと思います。なぜなら、聖書のみことばは、礼拝においては特にそうなんですけれども、すべて今ここで語られている神のことばである。イエス様はロゴスであり、神のことば。父なる神とイエス様は一つ。ですから、これはイエス様のことば、これは著者ヨハネのことば、と区別せずに、すべて神から今、私に語られたことば、と受け止めるといいんですね。
 
 だからこの16節、

16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
 
 まさにここでアーメン。その通りです。この「世」というところに、自分の名前を入れて受け止めるといいですね。
 これはもう本当に大きな恵みであり、慰めであり、励ましですね。

 ところで、今日の箇所は、予告では1節から17節まででしたが、本当は21節で切れますので、21節までお読みしました。
 ここの、光と闇の対比ということが、非常に特徴的ですし、今現代のことを考える時に非常に大事だとも思ったからです。
 この福音書を書いた使徒ヨハネは、光と闇の対比というのを、非常に特徴的に使っています。この福音書の第1章でも、ことば、つまりイエス・キリストは、光としてこの世に来た。その光に闇は打ち勝たなかった、と力強く書いていますね。それがこの第3章にも表れています。18~21節。
 
18御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
19そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
20悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
21しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。
 
 ということですが、たとえば20節で、政治家などの汚職であるとか、そういうことを思い浮かべる方もあるかもしれません。悪事が明るみに出ること恐れて、その証拠を色々と隠す。新聞記者・ジャーナリストの質問やカメラのフラッシュから逃げたがる。その行ないが明るみに出されることを恐れて光の方に来ない。よくあるようなことです。
 しかしそういう犯罪・違法行為に当たるようなことでなくても、もう少し広く考えまして、たとえば、以前に、メンタリスト、を名乗る大変有名な、影響力も大きい方が「ホームレスのいのちは軽い」などと言って、大炎上したわけですね。そこから謝罪をしまして、奥田知志牧師が理事長をしていらっしゃいますNPO法人抱樸に、学びに行きたい、と語っていました。抱樸に寄付をしてもいいということを言っていたこと自体が、かえって本気の反省ではなかったことがうかがい知れるわけですが、抱樸側はですね、大変厳しいことを言いました。だいたいこういった内容です。「その学びというのは、ただの知識の上塗りではない。自分自身の中の闇をしっかりと見つめて苦しむことも通り、自分自身が変えられるという、そういう経験を通らなければいけない。そういう学びです」という内容のことをおっしゃっていました。私はですね、なんて人の心というものの本質を理解したことばなんだろうと、感銘を受けました。
 ですからホームレスについて、こういう状況ですとか、こういう事情があってこんなふうに、社会の支援につなぎきれないんですよとか、そういうことを学んでも、心が変わったことにはならないですよね。多分文章を書いたのは奥田牧師だと思うんですけれども、言ってみれば、生まれ変わることが必要なんだ、と言っているんだと思います。
 それで、その後も聞いた限りでは彼はそんなに変わっていないようですので、本当の学び、というのは多分まだなさっていないんだと思います。まだ光の方に来ない。
 で、ここで、ニコデモと非常に重なるわけですね。本棚にズラーと並ぶたくさんの本を読まれて、知識は超一流なんですけれども、神無しの歩みというのは、自分を高めて、自分の栄光を求めて、―強い言葉ですけれども―自分が神になる道ですので、人間はみんな善悪の知識の木の実を食べている存在ですので、善悪を自分がジャッジする存在になるわけですね。そうすると、その天才的な頭脳と知識であっても、どういういのちは価値があって、どういういのちは価値がないというふうに、いのちを選別し排除する方向に、つまり闇の方向に、その素晴らしい才能が使われたりすることも起こるわけです。(今、優生思想を声高に言う人びとが、メディア等でもたくさん出て来ていますが、彼ら彼女らは、本当に愛された経験がないのかもしれません。そこで人のいのちを生産性などで量るというような闇を愛して生きている、ということなのかもしれません。)
 そうやって彼のことを例にあげるのも、もしかしたら私の罪も混じっているかもしれませんけれども(なぜなら、より良い社会を作って行くために、適切な批判は良いことですが、それは神の義をもたらさず、せいぜい人間の義をもたらすものだから)、私はそういう優生思想を声高に語る人を、きちんと批判する、そういうことを大切にしているんですけれども、しかし、一方で、自分の中にもですね、私の中にも先週もお話しましたけれども「内なる優生思想がある」これは誰の心にもです。それが表面に出るか出ないかの違いに過ぎないわけです。心に闇を誰しも持っているわけです。しかしその闇の声に引っ張られそうになっても、光の声によく耳を澄ませること、そしてその光について行くこと、これが大事なんだと先週もお話しました。
 ニコデモは、夜、イエス様のもとにやってきました。これはもちろん、他のパリサイ人に見つかったら、困るから、というのもあったでしょうし、律法の学びは、夜にするものなのだ、という当時の学びのための勧めがあったから、ということもあるでしょう。しかし、それだけなら、別にヨハネは時間帯を書く必要もそんなにないと思うんですね。やはりこの光と闇の対比をこの福音書の中で印象的に使う使徒ヨハネの書き方からすれば、このニコデモが、闇をもっていた、もしく闇に属する人間であった、ということを暗に言っているんだと思います。
 ニコデモは、別に悪事を行なっていたわけではないでしょう。むしろ真面目で熱心な善良な人だったでしょう。しかし、自分の努力で、律法をきちんと守って、努力して、上りつめた人ですね。善行も重ねて重ねて、上りつめた人ですね。しかし実は、それが闇であった。えぇっ!?どっちかというと光でしょう。そんなことはない。本当の光であるイエス様が来られた時に、その善行や律法の行ないも、自分が神になる道なんだ、と、いうことが白日のもとにさらされることになる。綺麗と思っていたものが実は闇なんだ、だから、ニコデモさん律法を、もうちょっとこれも加えて守ってみたらどう?とか、善行をこれも加えてやってみたらどう?そうすれば確実に神の国に入れますよ、というのは、単に知識と行ないの上塗りに過ぎないわけで、ホームレスの現状について学びをすれば、優生思想が治りますよ、というようなことではないのとよく似ているわけですね。
 で私たちはよく知っています。その回心についてですね。自分がどうしようもない、存在なんだ。神の前に、自分は何も誇れるものがない。からっぽです。それどころか大いなる罪びとです。そうやって神の前にへりくだること、モーセが荒野で上げた青銅のへびを見上げるように、十字架のイエス様を見上げる。ああこのどうしようもない、私の罪を赦すために、イエス様は十字架にかかっていのちさえ捨ててくださったんだ!そうなんです。だから、皆さんのいのちには、イエス様のいのち、という値札がついています。だから高価で尊いんです。神の子である方が、6000億円より、一千兆円よりはるかに価値ある、御自分のいのち、という計り知れない犠牲をもって、一人の私を、一人のあなたを、愛してくださったんだから、わたしは、あなたは、高価で尊い、いのちの価値ってそれだけなんです。
 
 あの有名なナチスへの抵抗運動をした牧師のひとりである、ドイツのデートリッヒボンヘッファーという人は、教会の説教の中で、このヨハネ第3章16節を説教して、自分のいのちを狙う人たちもそこに入り込んで説教を聞いていたそうですが、そこで、あえて言えば、あの優生思想バリバリのヒトラーのためにも、イエス・キリストは死なれたということを言ったわけですね。私たちは、いのちを排除する闇の誘惑に流されずに、十字架のキリストを見上げつつ、いのちを大切にし、共に生きる、和解と平和と、連帯の道を歩ませていただこうではありませんか。このひとり子をお与えになるほどの神の愛、光にうちに留まり続け、その光を人々のもとに届けさせていただこうではありませんか。お祈りをいたします。
 
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は、私たちをこよなく愛し、あろうことか御子をさえ、この世に遣わしてくださいました。この「世」とは、闇であり、どんなに光り輝いているように見えても、ひとがひとをひととして扱わず、もっともっと、上へ上へ、役に立つ人間になれ、と、きりのない栄光レースに、人々のたましいは傷ついております。自分はいつ落とされるかとおびえている人々に世は満ちています。主よどうかあわれんでください。主よ、闇の中にいる人々に、苦しみの中にいる人々に「ここに光がある」と光としてのご自身をお示しください。そして、その光を届けるために、私たちの唇や、手や足が、必要でしたら、お用い下さい。そして人々を苦しみから贖い出してください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
 
#ヨハネ3章16節
#ニコデモ

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