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✴️説教メッセージ「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」新約聖書 ヨハネの福音書第1章29~39節

✴️昨日2022年1月15日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします。
✅成田悠輔氏「高齢者集団自決・集団切腹」発言についても少しだけ触れます。
✴️説教メッセージ「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」
新約聖書 [ヨハネの福音書第1章29~39節

29 その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
30『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。
31私自身もこの方を知りませんでした。しかし、私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」
32そして、ヨハネはこのように証しした。「御霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを私は見ました。
33私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
34私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」
35 その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
36そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
37二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
38イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。
 
 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 
 皆さんこちらの印象的な絵をご覧になったことがあるでしょうか。もしかしたら徳島の大塚美術館に行けば、これのレプリカがありましたので、そちらでご覧になった方があるかもしれません。有名な祭壇画で、グリューネバルトという画家が描いた、イーゼンハイム祭壇画、と言います。
 これはですね、もちろん絵画の中心の十字架におかかりになったイエス様がメインなんですけれども、左側にいるのが、白い服がおそらくイエス様の母マリアだろうと思います。そして、イエス様の愛弟子である使徒ヨハネ、そしてひざまずいているのが、おそらくマグダラのマリアだと思います。それはヨハネ福音書第19章に出て来ますね。そこで、右側で指さしているのが、バプテスマのヨハネ・洗礼者ヨハネですね。小さな十字架を背負った小羊がいるので、バプテスマのヨハネだと分かるんですね。それで、聖書の中の福音書に、こういうシーンが書かれているかと言えば、そんなことはないわけですね。バプテスマのヨハネは、とっくに首を斬られて死んでいますので、イエス様が十字架にかけられたシーンに居合わせるはずがないわけですね。聖書の中に、洗礼者ヨハネが十字架の下から指を差していたとかそんなことは聖書に書いていないわけですが、ある意味で芸術家はよくこういう表現をしますけれども、このヨハネの福音書が言わんとしていることを、―福音書記者ヨハネも、イエス様の生涯を伝記風に書いているかと思ったら実は伝記を超えて時空を超えて書いている部分があるわけですが―ある時には時系列を無視してでも的確に表現するわけですね。それは、今日の聖書のことばを、深く思いめぐらすと分かってきます。
 
 さて、今日神のことばとして共に聴きましたヨハネの福音書の第1章の中盤と言ってよいと思いますけれども、非常に印象深いことばがたくさん出て来ましたので、これだけで、本来は何週間にも分けて説教ができるところなんですけれども、今日は一番印象深いことばを思いめぐらし、また集中して行きたいと思うわけですね。それは、29節のみことばです。
 
見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
 
 これは、ほんっとうに私たちの心に深く波紋を広げるようなことばであると思います。確かに響きは力強い、不思議な魅力と迫力があって、迫ってくることばではある。しかしその一方、本当にそうだろうか、という疑問とか、あるいは、きれいごとや絵空事ではないか、という反発のようなものも、心に浮かんでくるかもしれないんですね。
 と言いますのも、多くの人の心に、今であれば去来するであろう思いは、「世の罪を取り除くどころか、逆に世の罪は、ますます大きくなっているではないか」という思いではないかと思うんですね。
 先日、大炎上したことばがありました。またこういうことばを言う人が現れたかと思うと心底悲しく思うし、静かな怒りも出て来るわけですが、ある経済学者(イェール大学の助教である成田悠輔氏)の高齢化社会への対応策として、高齢者の集団自決、集団切腹などという、人のいのちをなんだと思っているんだ、自分もやがて高齢者になることを知らないのかというような発言が今炎上しているわけですね。さらにこういった発言を、持ち上げたり、もてはやしたり、笑いながら聞いたりする人々まで出て来る始末で、ますます、ひどい言葉が飛び交うようになっている。
 世界を見れば、ロシアではプーチン大統領が、さらに50万人の兵士をウクライナとの戦争に動員しようとしている。
 さらに、日本国内でも、”宗教”の皮をかぶったカルト団体が多くの人の家庭や人生を破壊し、さらにはそれが政治と癒着し、政府はその関係を絶とうとしない。おまけに、専守防衛という、平和的な国のあり方を、大きく変えて、敵基地攻撃能力やトマホークなどという、どんどんキナ臭い、暴力的な国のあり方に変わろうとしている。
 こういったものを見るだけでも、世の罪はどんどんふくれあがっているように見える。
 
 あるいは、本来聖書のことばは、自分一人で読む時にも、さらに礼拝において語られる時には特にそうなんですけれども、自分に語りかけられた神からのことばとして、あるいは、生きておられる神が、今、私「たち」に語りかけられていることばであると、そう信じて、読む、聴く、というのが、聖書の本来の読み方、聴き方であるわけですから、確かに世界にはびこっている大きな悪や罪に、私たちは今、目が奪われてしまうがちかもしれませんけれども、もっと鋭く人間の本質というものを、あるいは自分自身を見つめるならば、いやいや世界や日本の、政治のリーダーや、言論人だけの罪ではない。人間の本質というものは、そんなに人によって変わるものではないので、私も含めて、いや私を筆頭に、ひそかに心の中で差別する心があるし、弱者とされている人びとを見下す心があるし、ミサイルは持っていないけれども、言葉や、あるいは無言の圧でもって、人を押しのけることもある。そういったことで、やはり私も毎日罪を犯している存在である、そういうことがあるわけですね。そこで、もう一度、このバプテスマのヨハネが言っている「世の罪を取り除く神の小羊」という恵み深いみことばが、どういうことを意味しているのか、ということを、深く思いめぐらすことになると思います。
 
 その上で少しだけ、分かりにくいことばだけを解説しておきたいと思いますけれども、30節のバプテスマのヨハネの台詞ですね。
 
30『私の後に一人の人が来られます。その方は私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。
 
 バプテスマのヨハネは、メシア、救い主、のさきがけとして来られました。相撲で言えば露払い、落語で言えば真打が出て来る前の前座とか、二つ目ということですね。ヨハネが言っている「私にまさる」その方というのは、もちろんイエス・キリストのことです。その方が、私より先におられた、というのは、ヨハネの方が6か月くらい先に生まれています。それなのに「私より先におられた」という意味は、まさにイエス様が、メシア・キリストであり、ただの偉大な人間というわけではなくて、ヨハネ福音書の第1章の、世界の初めに、ことばがあった、ことばが神と共にあったという、神のことばそのものである方、その方が受肉といって、肉体を取ってこの世に来られた方、神のひとり子である、ということを言っているわけです。
 
 そして、33節で、ヨハネが
 
私自身もこの方を知りませんでした。
 
 と言っているのは、もちろんヨハネは血筋としてはイエス様の親戚ですから、知っているし、おそらく会ったこともあるでしょう。ですから、かつてはメシアとしては知らなかった、という意味ですね。ヨルダン川でイエス様に洗礼を授ける時に、ヨハネは天から聖霊が鳩のように降ってきて、イエス様の上に留まるのを見て、まさに神のひとり子であることが分かったと言っているわけですね。
 
 そしてさらにその翌日のことです。ヨハネが2人の弟子と一緒に立っていると、イエス様が歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言うと、二人の弟子はイエス様について行ったわけですね。そして38節39節にこうあります。
 
38イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」
39イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。
 
 第十の時というのは、午後4時頃のことですけれども、38節のこのやりとり、少し考えてみれば、イエス様と、ヨハネの弟子の会話が、なんだかかみあっていないように思えるわけですね。「あなたがたは何を求めているのですか?」これも私たちの心に深い波紋を広げるようなことば・問いだと思いますけれども、それに対して、先生、今夜はどこに宿泊されるのですか?と聞くわけですね。
 こういうふうに考えることもできます。ヨハネの弟子たちはあんまりイエス様がメシア・キリストだということが分かっていなくて、単にユダヤ教の「ラビ」と呼ばれる先生だと思って、ちょっとゆっくり教えを聞かせていただきたい、「何を求めているのか?」と聞かれても、一言では言えない山ほどお話を伺いたいことがあるので、ずうずうしいかも知れないけれど、宿を取っておられるところにおじゃまして、教えを乞いたい、そういう意味で言った可能性もあります。
 しかし、表面的にはそうだったかもしれないけれども、もっと深いレベルの対話がここでなされていると見た方がいいんですね。
 というのも、この「どこにお泊りですか」も「泊まっておられる」も「イエスのもとにとどまった」も、全部もともとはギリシャ語のメノーということばなんですね。メノー。このことばは、まぁ聖書マニアだったらピンと来るんですけれども、同じヨハネの福音書の第15章ですね。「主はぶどうの木」というところ、イエス様のたとえで「わたしはぶどうの木、わたしに【とどまって】いなさい」というこの「とどまる」ということばがメノー、でして、このぶどうの木の話の中で、メノーということばが山ほど出て来るんですね。あれは、イエス様に【とどまる】【つながっている】、という意味です。他にも【内にいる】など幅広い豊かーな意味があります。イエス様に【とどまる】【つながっている】【内にいる】それが、クリスチャンの生涯で最も大事なことであるという言い方もできると思いますけれども、ですからこの、イエス様とヨハネの弟子のやり取りも、実際に確かに宿泊場所にもついて行ったでしょうけれども、宿泊という翻訳だけにとらわれずに、深いところでは、「イエス様、あなたは、私たちとは違う、深い霊的レベルにとどまっていらっしゃるようだ、あなたがいらっしゃる所に、信仰の深みに私たちも連れて行ってください、そしてそこから見える霊的景色を私たち見せてください」そう言っているのだと思います。そして、実際に泊まっただけではなくて、イエス様にとどまった、つながった、イエス様の弟子になった、ということですね。
 
 さて、少し戻りますけれども、「何を求めているのですか?」このイエス様のことば、これも私たちの心に深い波紋を広げることばであると先ほど申し上げました。私たちは、何を求めているでしょうか?平和な世界、平和な安定した社会でしょうか?良い政治でしょうか?それらを求めることもよいことだと言えるでしょう。また、そういったマクロで見ないで、もっと身近で個人レベルで言えば、良い仕事、良い職場、でしょうか、あるいは安心して子育てしたりできる環境や制度でしょうか、人生を生き抜いていくための知恵や知識でしょうか?私を有能だと思わせてくれる能力や、スキルや、人脈でしょうか?そういったもので得られる社会的評価でしょうか?SNSでの友達からの「いいね」でしょうか?金銭、でしょうか、健康、でしょうか、そういったものを求めることは、決して悪いことではないでしょう。しかし、それらは表面的なもので、もっと深いところまで行けば、私たち人間が、共通して根源的に、もっている願いは、安心であり、平安である、愛であり、信頼である。落とされることや捨てられることへの、恐れや不安から全く解放された、ただ私の存在を喜ばれること、あなたがいてくれて嬉しいって心から言われること、そういったことを、私たちの魂は求めているのでしょう。
 
 完全な愛の源泉である、イエス・キリストにとどまる、つながっている、内にいる、ということが、どうして、それらの魂の欲求に、応え、満たすことになるでしょうか?それがまさに、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ということばに、現れているんです。
 神の小羊、というのを聞いた時に、聞いたのはユダヤ人ですから、ユダヤ人なら真っ先に思い浮かべることがあるんです。旧約聖書、出エジプト記 第12章の過ぎ越しのできごとです。
 出エジプト記とは、あのチャールトンヘストンの映画「十戒」でも有名ですけれども、モーセが神から召命を受けて、エジプトの奴隷にされていたイスラエルの民を解放して脱出する、という話ですね。
 その中で、モーセとエジプトの王ファラオのやり取りが繰り返され、エジプトに数々のわざわいが降りかかりますが、その最後のわざわいが、主の使いが出て行って、エジプト中の初子を打つ、ということでした。それは家畜も人間もでして、初めての子が死んでしまう、という奇妙に見えるわざわいでした。しかし神はモーセを通してイスラエルに言われました。小羊をほふって、その血を、イスラエルの家の門のかもいと門柱に塗りなさい。
 
 そうすると、その小羊の血を見て、主の使いは、そこを過ぎ越していく。犠牲になった羊がいるので、ここにはもう、【裁かれる者はいないんだ。】身代わりに死んだ羊がいるから、死が過ぎ越して行った。罪へのさばきは終わり、神の守りがあったのです。
 
 かもいと門柱というのは縦の木と横の木です。それが小羊の血で赤く染まりました。そして、再び縦の木と横の木が血で赤く染まる時がありました。それがあの十字架の木です。イエス様はヨハネの黙示録でも、何度も「神の小羊」と表現されます。そのイエス様が十字架上で死なれたのは、過ぎ越しの祭りの、一説によれば、犠牲の小羊がまさに毎年ほふられる、ちょうどその時に、イエス様もほふられたのでした。まったく罪のないイエス様が、人々の罪の身代わりになって、自らに死に赴かれたのでした。
 
 そうして、もう一つ同時に、ユダヤ人たちが「神の小羊」と聞いた時に、必ず思い起こした旧約聖書のことばがあるんです。苦難のしもべの歌、と呼ばれるイザヤ書第53章です。
 
旧約聖書 イザヤ書第53章4~8節
4 まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、
それぞれ自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちすべての者の咎を
彼に負わせた。

7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。
だが、口を開かない。
屠り場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。
8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことか。
彼が私の民の背きのゆえに打たれ、
生ける者の地から絶たれたのだと。
 
 7節の「ほふり場に引かれて行く羊のように」ほふられた神の小羊、5節の「私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた」8節の「彼が私の民の背きのゆえに打たれ」これらのことばが、この神の小羊は、自分は罪がないのに、私たちの犠牲となって、身代わりとなって死なれた、ということを表しています。だから、さばきは終わった。だからもう、あなたはさばきを恐れることはない。あなたに罪のゆるしと永遠のいのち・天国の約束を与えた。その宣言が今、私たちに語られています。あなたのために死んでもいい、というイエス・キリストの愛が私にあなたに注がれた。だから私たちは、究極の恐れである、死への恐れが取り除かれる。実感としてはまだ怖いかもしれませんけれども、その死というものは、イエス・キリストの十字架によって、もうすでに力を失ったんです。
 
 先週のメッセージで、ラルシュ共同体というのを創設したカトリックのジャンバニエという指導者のことをお話しました。彼が言っていることは、すべての暴力は、恐れから来ているということですね。確かに国レベルで言えば、プーチン大統領ほかの言動などを見れば透けて見えますけれども、ロシアはNATOの東方拡大を恐れたわけですし、他国を恐れるから、不凍港が欲しくてクリミア併合をしたわけですが、恐れから国が暴力的になることはもう古代からあるわけですね。
アテネとスパルタの戦争を記したトゥキュディデスによれば「戦争を避けがたくした要因は、アテネの勃興及びそれがスパルタに引き起こした恐怖心であった」と言っています。つまりもともと大国があって、隣に、新しく起こった国が経済的に成長し始めると、最初の国は軍備を固め始めるんです。恐れから来る過剰な反応ですよね。そして、歴史上ほとんどの戦争が、「自衛のためだ」「防衛のためだ」から始まっている。
もっとミクロな、個人レベルで見ても、物理的な暴力でなくても、いじめや差別、弱者とされている人びとへの直接的な、あるいは間接的な排除、そういったものも、私たちのうちにある恐れから来ていることにおそらくうすうす気付いているんです。私たちがもしかしたら、障害者を見る時に、ある種のいらだちを感じることがあるとしたら、あるいは、障害者やホームレスになった人びとを、自分の地域から、また自分の視界から遠ざけたいとひそかに思う時には、やはり自分の中の何かが彼らによって引き出されることを恐れているんです。そして、私の人生を決して有用にしてくれると約束してくれない人びとと一緒に時間を過ごすこと、には恐れを感じるんです。時間を無駄にして(あるいは自分も同類だと見られて)人生の勝者となるレースから置いて行かれることへの恐れかもしれません。しかし、じつは、気付くことですけれども、実際にそういうケアが必要な人びとと過ごす時間、それを過ごしてみれば、自分の中に、今まで発見していなかったもう一人の自分、というものが引き出されてくることに気付くんです。そして、そういう効率性とか生産性とか、そういうものとは無縁の、もしくは全く逆方向の時間を過ごすことが、じつは私たちを本当の意味で、「人間」にしてくれるんですね。障害者をはじめ、いわゆる弱者、とされている人びとの「求め」は、しばしば、とっても単純です。「僕を、わたしを愛してくれますか?」というものですね。今思い返せば私も、障害者施設で職員として働いた時などにはそれをなんとなく感じていました。私がちょっとでも「今書類を書いているんだから忙しいんだから」というような態度を見せると、利用者さんの1人は、とても荒れたんですね。だから君と過ごす時間より、書類の方が大事なんだ、という「忙しい」っていうのも、彼らにとっては、愛していないよ・君は大切じゃないよというサイン(小さな暴力)だったんですね。私は今となってはとても反省しています。
 
「世の罪を取り除く神の小羊」、罪を取り除く、のこの聖書が語る罪、とは、日本語の罪とは違う意味で、神との関係の破れのことです。無条件の愛とゆるしの源泉である神から離れて生きているので、私たちの存在そのものが傷ついていて、孤独であるので、たえず何かを獲得していないと、安心できない、不安や恐れをかかえている、というのが、聖書が言う「罪びと」という意味であって、日本語の「罪」とはずいぶん異なります。
ラルシュ共同体を作ったジャンバニエは、かつて海軍にいました。有能なひとだったようです。ですからこう告白しています。
 
障がいのある人たちの叫びはとても単純なもの「わたしを愛してくれる?」というものでした。それが、この人たちの求めていることだったのです。そしてそれは、わたしの奥底にある何かを目覚めさせてくれました。 なぜならまた、わたしの奥底にある叫びでもあったからです。わたしは成功を収めることもできたでしょう。海軍での働きぶりはすばらしいものでした。哲学の博士号も持っていました。出世の階段を登っていけたでしょう。けれども、自分がほんとうに愛されているかどうかがわからなかったのです。もしも病気になったら、そばにいてくれる人がいるだろうか?自分には称賛されたいという欲求があることは承知していました。(中略)しかし心の奥底では、誰かがわたしを、その業績のゆえにではなく人間として、ほんとうに愛し、心にかけてくれているのか、わからなかったのです。
 (中略)障がいのある人たちを訪ねて、関わりを求める原始的なまでに素朴な叫びを聴くとき、わたしのなかで何かが目覚めました。 イエスが、愛を切望する人たちと共にいてくつろいでおられることがはっきりしたのです。この人たちが、わたしが愛という知恵に成長するのを助けてくれることがわかってきました。 わたしがイエスとの関わりのなかで成長していくのを助けようとしてくれていたのでした。わたしが正気でないと人に思われるかどうかなど、どうでもよいことでした。
 
 私たちはここまで、バニエのように、障害者と共に生きる生活へと、飛び込んで入り込んで行く必要はないかもしれません。けれども、バニエが、そこで柔和な神の小羊であるイエス・キリストとの、目に見えない出会いを経験したように、私たちもそれぞれの生活の中で、人とのかかわりの中で、もしかしたらケアが必要な人びとがもっているある種の「聖なるもの」との出会いを重ねて、柔和な神の小羊であるイエス・キリストとの出会いの驚きを発見していく冒険に、共に進ませていただこうではありませんか。それがきっと、暴力の世界に対して力で戦っていく道ではなくて、真(しん)に恐れを克服していく道であり、底辺から始めることが、真に平和を求め、広げて行くことなのですから。
 
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は、世の罪を取り除く神の子羊として、御子、主イエス・キリストをこの世にお送りくださいました。ますます世界は闇が深まり、混迷を深めています。主よ、あわれんでください。人びとの愛が冷え、恐れや不安から衝動的に行動し、人と人が互いを恐れ、そのための目に見える暴力、目に見えない暴力がはびこっています。しかしそこにおいてこそ、バプテスマのヨハネの指が指し示すのです。そしてヨハネの叫びが今響き渡ります。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊!」私たちは不安を煽る声に惑わされることなく、この方を、十字架のイエス・キリストを、真実の方として、いつも見つめる者としてください。この方が柔和な神の子羊として、人々の憎しみと恐怖を一身に受け、死んで、よみがえられた方であることを見つめさせてください。そして私たちが、この方の愛にひたり、人間として愛されていることから来るまことの平和を、小さなところから始めていけるように、主よ、私たち一人一人を、祝福して世にお遣わしください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
 
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#ハワーワス
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