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【文書版】✴️礼拝説教「一人一人の名を呼んで愛してくださるイエス様」新約聖書 ルカの福音書第15章1~10節

✴️昨日2022年9月11日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️(🖼画像はパワーポイントでの説明のために妻が描いてくれた図です。網から落ちている人は取税人、罪人たちと呼ばれた人々)
✴️礼拝説教「一人一人の名を呼んで愛してくださるイエス様」
新約聖書 ルカの福音書第15章1~10節(新改訳2017)

1さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
4「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
6家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
7あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
9見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
10あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」
 
主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
統一協会問題が長く話題になっていますね。まあこの統一協会という団体を擁護する、かばう論調も一部あるんですね。その時に、盾として使われがちなのが「信教の自由」というものですね。もちろん日本の法律では、「信教の自由で何を信じても良い」「それに基づく活動を自由にできる」ということになっている。そのことを盾に、過剰な統一協会叩きは、信教の自由を侵害することになる、と。そういう論を聞くと、ともすれば「うーん、そういう見方もあるかぁ」と思わされてしまうことがあるかもしれませんけれども、とんでもない話ですね。確かに日本の法律では「何を信じても良い」ということになっているけれども、だからと言って、霊感商法で高額なものを売ったり、モノを介在しない霊感商法で、恐怖でコントロールして、何千万円や時には1億円を超えるような献金を出させる、こういうことをするのも「自由でしょ」ということにはならないわけですよね。信教の自由というのは、被害をも自由に与えることを許可していないわけですよね。ですから弁護士の方々やジャーナリストの方々が言うのは、統一協会を「宗教団体」だと捉えるから話がややこしくなるんだと。統一協会は反社会的集団、あるいは詐欺集団、こういうふうにとらえる方が良いということですね。本当は宗教団体ではなくて、宗教団体のふりをした反社会集団、と言った方が良いというのは、その団体の本質を見抜いた言い方だと思いますね。統一協会は宗教のふりをしているけど、本当は宗教ではない、ということですね。
 まあそうは言いましても、宗教という言葉自体も、30年前くらいから、イメージが悪くなりましたね。あのオウム真理教事件以来、宗教は危ない、というイメージがなんとなく日本語にはつくようになりました。もちろん宗教はもともと良い言葉でして、「教えのもと」と書きますね。もともと仏教用語だそうですが、そういう意味では、社会的な見方をすれば、キリスト信仰も世界にある宗教の中の一つ、と一般的にはとらえられているわけですね。
 ところが、キリスト信仰は、そういう教えのもとの一つ、とも少しニュアンスが違うものでして、宗教を英語にするとレリジョンと言います。これはラテン語のレ・リギオから来ていまして、【再び結ぶ】という意味のラテン語なんですね。再び結ぶ、何を結ぶのか、離れていた神との関係を、再び結ぶこと、そういうわけで「教えのもと」というのとは、少しニュアンスが異なりますよね。人間が離れていた神と再び結ばれ、あるべき場所に帰る、魂のふるさとに帰ること、これが、レリジョン、なんですね。(欧米でレリジョンと言いますと、だいたい(ほとんどが)クリスチャニティのことを指すわけですね。)
 まあまことの創造主なる神と再び結ばれると言うこと、これは人間として本当は自然で、一番安心できて、しあわせなことです。私も妻と娘の三人家族なんですけれども、時々妻と娘は大阪の実家に行きます(帰ります、と言った方が正確かもしれませんけれど、私から見て、ですね)。でも飛行機に乗って大阪から高知に帰ってくる。そういう時には私は空港の駐車場に車を止めて待ち遠しいんですね。今か今かと待っている。あの飛行機に乗っているかな?そのうちに空港のロビーの自動ドアが空いて人影が見える。あっ、二人だ、と思って手を振る。そうしますと、二人が手を振ってくれる。おとうさーん!と言って両手をいーっぱいに広げながら娘がかけよってくる。私は両手を開いて、かけて来る娘を受け止めてぎゅうってするんです。家族3人がまた一つになって一緒に暮らせる。私、個人的には一番の喜びなんです。
 
 神さまも一緒だと思うんですよね。離れていた人間と再び結ばれ、共に歩むことができる。一人の人が神のもとに帰ってきた、ということ、これは、天では、千々万々の天使たちが大喜びする、そんな喜びが起こる。神の喜びが爆発する、そういうものである。そのことをイエス様はたと話の中でお語りくださっている。
 
 さあ今日は、ルカの続きで、大きな文脈としては天国の祝宴というテーマがずっと続いています。その流れの中での、イエス様の二つのたとえ話なんですけれども、イエス様の珠玉のたとえ話三部作の中の前半の二つです。最後の三番目が、よく「放蕩息子のたとえ」と呼ばれたりするものですね。それで、イエス様のたとえ話はいつでも、語られるきっかけとなったできごとが重要です。何かがあって、でも直接言っても相手に理解力がないか、時には聞かない、理解しようとしない、そういう人びとになんとかして語りかけるために、たとえという形をお用いになるわけですね。この一連のたとえ話をなさったきっかけはこうです。
 
1さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
 
 ですね。別の翻訳では「つぶやいた」になっていますけれども。そのことに対してのたとえ話なんですね。取税人、というのは、こんにちの税務署の職員とは違って、ローマから入札制で、その税金を徴収する権利を買ったんですね。ローマは賢くて、恨まれにくいように、同国人からこの仕事をする人を募ったわけですね。そして、この取税人は、税金の計算ってしろうとには分かりにくいので、腕前しだいで、色々ごまかして、必要以上に取っては、差額を自分のふところに入れていたわけですね。ですから、よくない表現ですけれども、昔の日本の表現で言えば「売国奴」と呼ばれて、あのザアカイさんを見ても分かるとおりに、大変嫌われていたわけですね。
 そして、罪人たち、というのは、どんな罪かは分かりませんが、性的な罪である可能性もある。
 そういうわけですから、かなりざっくりしたことを言えば、非常にガラの悪い人々とイエス様は付き合っていて、一緒に食事をしていると、まじめな宗教家パリサイ人律法学者たちからすれば、まゆをひそめるようなことですね。しかもつぶやいたということは、「こんなことはいけません!」と直接イエス様にハッキリ言えなくて、それはおそらくイエス様が民衆にとても人気があったから正面きって言いにくかった、ということもあるでしょう。
 そこでしかし、そうやってつぶやいて、文句を言ったパリサイ人、律法学者たちをも、じつは包み込むような愛をもって、このたとえ話三部作をお話になったわけですね。(イエス様は律法学者パリサイ人たちを憎んでいたかというと実はそうではなくて、厳しいことを言われるけれども、自らの隠れた罪に気づき神に立ち帰ってほしい、という心で語っておられるのです。)

 一つ目は、いなくなった羊を探す羊飼いの話です。とても極端な話です。ディティールまでよく考えると、突っ込みどころ満載の、おかしなところがいっぱいあるような話なんですね。でもそれは、イエス様が強調するために言っておられることです。
 
 100匹の羊を飼っている人がいる。先ほども賛美で歌いましたけれども、その100匹のうちの一匹が迷い出てしまう。すると、この羊飼いは99匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか?
 このイエス様のことばをすんなり聴く人もありますけれども、ここでけっこう多くの方が疑問を覚えるんですね。いやいやいや、と。99匹も野に残していったら、その残された99匹のうちの何匹かがまた迷い出て行ったらどうするんですか。羊飼いが一匹を探しに行っている間に、狼や野獣が出てきて、羊を食い殺したらどうするんですか。この羊飼いはバカだ。あるいは、数の論理からすれば、一匹より、どう考えても99匹の方が大事でしょ。そういうふうに思う方もあるかもしれません。そのことは後で掘り下げますけれども、次のたとえも同じことをたとえています。
 次は無くした銀貨のたとえ話ですね。
 女の人が出て来ます。おそらく主婦でしょう。その女の人が、ドラクマ銀貨を10枚持っていた。ドラクマ銀貨ってあまり聞きなれない言葉ですね。これは当時のローマの1デナリ銀貨と同じくらいの価値だそうで、やはり当時の一日の労賃に当たるものだったそうですね。ですから、わかりやすくするために1万円ということにしておきましょう。これは結婚の時の持参金とも言われて、貧しい家庭であっても、いざという時のために持っちょきや、ということで、親に持たされたという説もありますし、10枚セットで、ひもを通してわっかにして、頭にかぶっていた、それが既婚者のしるしのようになっていたという説もあります。
 その中の一枚を家の中で無くした。ユダヤの貧しい家なら狭いからすぐ見つかりそうなのに、と思うかもしれませんけれども、当時のユダヤの家には窓がほとんどありません。あっても小さいです。ですから、明かりがあまり入りません。暗いです。おまけにわらが下に敷かれていたそうですね。その間に落ちたらこれは見つけにくい。ランプをつけて、家を掃いて、見つけるまで注意深く探して、そして見つける。
 それでその後がちょっと、また突っ込みどころがあるのかもしれません。9節。
 
9見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
 
 これ、言うでしょうか?私たちならですね、たとえば10万円あったとして、家の中で1万円を無くした、と。こうなったら、やはり見つかるまで念入りに探すと思います。しかし、十万円のうち亡くした1万円を探し出して見つけた、喜ぶと思いますけど、その先、近所の人を集めて「一緒に喜んでください」とはやらないでしょう、という話なんですね。近所づきあいがもう少しこゆかった昭和の時代でもそうだと思いますけれども。いくら当時のユダヤが、ご近所づきあいが密であったことを考えても、近所の人たちを集めてパーティでも開けば、1万円以上かかるでしょうから、これはあり得ないことだと思うんですね。
 こういったイエス様のたとえ話を考える時に、おかしいところをよく思いめぐらすが大事でして、そこがポイントなんですね。イエス様の心の針がピーンと動いているところなんですね。(聖書を黙想する時に、そういうところに宝がありまして、それは、人間の常識と神の思いは全く違うところがあるからです。)続きの10節は、
 
10あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」
 
 ということで、つまり、あり得ないほどの、ちょっと常識はずれのようなこの女の人の喜びよう!これが、神の御使い、つまり天使たちの、いや天の神様に常識はずれの大喜びが起こるのだ!ここで見つけられた一枚の銀貨とは、一人の罪びとのことですね。悔い改める、となっていますけれども、メタノイアですから立ち帰る、ですね。イエス様を通して、神に立ち帰って来た取税人や罪びとたちのことです。その一人一人が神にとって、わたしにとって大事なんだ。その大事なひとりひとりと、食事を一緒にして、喜ぶのは当然のことではないか、とイエス様はたとえ話を通しておっしゃっているのです。
 
 振り返ってみますと、細かいところは異なりますけれども、いなくなった一匹の羊を探す羊飼い、それはやはり神であって、あるいはイエス様であって、見つかった一匹の羊とは、取税人や罪びとのことです。こういう者がひとり、神のもとに戻ってきたのは、計り知れない大きな喜びなのだよ、ということを7節でイエス様はおっしゃっています。
 
7あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
 
 ですから、おかしいと思うことは、数の原理であれば、99匹の方が大事だと思うかもしれませんが、一人一人の取税人や罪びとの魂が、神にとって、どんなに大事か、ということを示すために、こういう極端なたとえ話をなさっているんです。ですから言ってみれば執念ですよね。神にとってそういう一人一人は罪びとであっても大事な大事な神の子どもですから、親が子供がなかなか見つからないからと言ってあきらめるということはないでしょう。いくらビッグダディで、10人の子供がいても10人公園に連れていって、帰る時には9人しかいなくなっていた。でも9人いるからいいや、と言って、探すのをあきらめて帰る親はこの世にいませんよね。横田さきえさんも子供が拉致されて何十年も経っても探し続けますよね。そんなふうに、わが子であれば、あきらめないんです。それが神が子である人間に対してもっておられる愛です。
 友達や近所の人たちを呼び集めて「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」というのも、天国の祝宴、パーティを表しています。今、罪びとや取税人たちと一緒に食事をしているのは、その天国の宴会の先取りなんだよ。彼らひとりひとりもわたしを通して神に立ち帰って来たかけがえのない神の子供だ、彼らも天の御国に入るのだ、ということをイエス様はおっしゃっているわけですね。
 
 それで、イエス様はこの二つのたとえ話をたて続けになさって、ただパリサイ人たちや律法学者たちの文句やつぶやきを封じて、「はい論破」といった具合にギャフンと言わせて、黙らせようとなさっただけでしょうか?そうではないんですね。
 
 その後に、3つ目、あの有名な、放蕩息子のたとえ、と呼びならわされているたとえ話をイエス様はなさるんですね。
 
 ある人に息子が二人あった。
 弟息子の方が、父親がまだ生きているうちに、遺産をください、と言って、それを全部お金に替えて遠い国に旅立って、そこで湯水のように使い果たして豚の世話の仕事をするほどにおちぶれて帰ってきた。
 お父さんは、遠いところから弟息子を見つけて、走り寄って抱きしめて口づけして、盛大なパーティを始めるんですね。「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と言って、このお父さんはバカなのかと思われるぐらいに喜ぶわけですね。一人の、罪深い息子が帰ってきたのを。でも、親ってそうではないでしょうか。息子や娘が、どんなにバカをやって、自分のもとから離れて、何十年も行方知れずだった場合は、それこそ生きて帰ってきたら、生きていただけで嬉しいって、思うんじゃないでしょうか。神も天使も同じ、いやそれにまさって、一人の罪びとが帰ってきたら、それこそまさに、再び結ぶ、レリジョン!神と一人の人との関係が再び結ばれる!そのことで天では喜びの大歓声が上がるんですね。(この弟息子とは、取税人や罪びとを指しているわけですが、)
 
 そしてその後のことに注目する必要があります。兄息子の方ですね。兄息子はその放蕩の限りを尽くした弟息子が帰ってきて、大宴会(パーティ)が開かれていることが気に食わない。これがまさに、パリサイ人、律法学者の姿ですよね。イエス様のパーティに、弟息子である取税人や罪びとが招かれているのが気に食わない。そして、自分は怒って家に入ろうともしなかった。お父さんが来ていろいろとなだめてみた。しかし「わたしはずっと真面目に働いてきました。お父さんの言いつけを破ったことは一度もありません。―これはモーセの律法を始め、イエス様が先祖たちの言い伝えと言っている口伝えの律法を含めて、それらを「お父さんの言いつけ」と呼んで、それを先祖代々ずっと守ってきた、という意味ですね―それなのに、友達と楽しめと言って子ヤギ一匹もくださったことがありません。」と言って、神の家に、つまり神の国に自ら入らないようにしている、ということですよね。そんな兄息子にお父さんはこう言います。
 
31父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
 
 この愛情ある語りかけなんですね。愛のあふれる「子よ」という呼びかけです。つまり、たとえ話三部作で、イエス様は、パリサイ人や律法学者も、神の国の中に愛をもって招いておられるんです。つまりこういうことです。

 妻と一緒に黙想しているうちに、妻がわかりやすく図にしてくれました。(画像一枚目)

一番上の網の上にいるのが、律法学者、パリサイ人たちですね。この網が律法であったり、口伝えの律法です。自分はこのセーフティネットがあるから安心安全、一所懸命、ここでいう「お父さんの言いつけ」ですね。頑張っていろんな律法や先祖たちの言い伝えを守っているから神に愛されて祝福されて、神の前のOKな存在なんだ、と思っていました。
 ところが、そういう律法を守れない人たちがいるわけですね。これが、ここで落ちている人です。つまり取税人や罪びとたちです。ひょっとすると、イエス様がなぜ羊飼いのたとえをしたかというと、その場に羊飼いもいたかもしれないからですね。彼らは罪びとだと思われていました。なぜなら仕事上いろんな律法を守ることができない。特に安息日律法は守れませんね。生き物相手ですから、他の人と同じように、安息日には仕事を休んで、シナゴーグというユダヤ教の会堂の礼拝に参加します、ということができないわけですよね。(皮肉な事にエルサレム神殿での礼拝の時のいけにえの羊を請け負いで育てていたのに、)そうすると、まじめなパリサイ人律法学者たちからは、あいつらは、安息日律法を守らない、罪びとだ、と呼ばれたわけですよね。でも、構造的にその職業から抜け出せないようになっているし、どうしようもないわけです。でもそういう人ほど、どん底まで落ちて、でもそうやって落ちた人ほど、イエス様を信頼してイエス様に付いて来て一緒に食事をするようになる。
 
 ところがそうやって、社会的に弱者とされて、虐げられて、苦しんでいる人だけを、父なる神やイエス様は愛したかというと、そうではありません。この大きな♡ハートは、律法学者やパリサイ人たちをも包む神の愛です。
 
 さきほど礼拝の中で、99匹(くじゅうくひき)の羊は、という聖歌を歌いました。
 
1 九十九匹の羊は 檻(おり)にあれども
 戻らざりし一匹は いずこに行きし
 飼い主より離れて 奥山に迷えリ
 奥山に迷えリ
 
2 「九十九匹もあるなり 主よ よからずや」
 主はこたえぬ 「迷いしものも 我がもの
 いかに深き山をも 分け行きて 見いださん
 分け行きて見いださん」
 
3 主は超え行き給えり 深き流れを
 主は過ぎ行き給えり 暗き夜道を
 死に臨める羊の 鳴き声を頼りに
 鳴き声を頼りに
 
4 「主よ 山道をたどる 血潮は何ぞ」
 「そは 一匹の迷いし 者のためなり」
 「御手の傷は何ゆえ」 
 「茨にて裂かれぬ 茨にて裂かれぬ」
 
5 谷底より空まで 御声ぞ響く
 「失われし羊は 見いだされたり」
 御使いらはこたえぬ 「いざ共に喜べ
 いざ共に喜べ」
 
 4節のこの歌詞に注目したいのですが、
羊飼いであるイエス様の進んだ道には血が滴っている。それは何ですか?とイエス様に聞いたら「それは、一匹の迷ったもののためだよ」とお答えになる。
そしてイエス様の手には傷痕がある。主よその傷は何ですか?と聞いたら、「茨で裂かれたのだ」とお答えになる。手に傷を負い、そして血を流してでも、一匹の羊である罪びとを探しぬかれる、その羊飼いであるイエス様のお姿です。それはまさに十字架のお姿、まさに愚かしいまでに一人の罪びとを探し求めて、とことんまで愛しぬかれる神のお姿です。
 使徒パウロは、コリント人への手紙第一第1章で、「神の愚かさは人よりも賢い」と言いました。これは文脈からみて、十字架の愚かさなんですね。ひとり子イエスのいのちをも惜しまずに罪びとにお与えになるほどに、人間を、私を、あなたを、こよなく愛しておられる神の愚かさです。この犠牲に圧倒されて、私たちはキリストイエスを通して神のもとに立ち帰るのです。
 
 ここで私たちは、自分自身パリサイ人や律法学者か、取税人や罪びとの、どちらに自分自身を重ねるでしょうか?それぞれに、どちらかと言えばこちらに重なるというのがおありでしょう。しかし、誰もがどちらでもあると思います。それは人生のどのシーンかによっても変わるでしょう。クリスチャンであれば、クリスチャンライフを真面目にパリサイ的に頑張ってしまって、つい、信仰生活が不真面目そうな人を心の中ででもさばいてしまう。あるいは、イエス様の福音を聞いて感動して、信仰告白して洗礼を受ける、そういう時には、まさに私は一枚の銀貨だ、一匹の羊だ、と思って神の愛に感激したことでしょう。信仰生活が何年、何十年経っても、そのように、自分自身を一枚の銀貨や、一匹の羊に重ねあわせて、神の愛に感謝しつづる、生涯、悔い改め、立ち帰りの信仰生活を送れるということは、大変感謝なことです。でも私が思うのに、私たちの中には、いつも、両方がいる、のではないか、と思います。私たちは、パリサイ人や律法学者であり、同時に取税人や罪びとであるかもしれない。きちんと頑張っていない人を裁くような類の真面目さもあり、でも同時に、こんな罪びとの私を見出してくださってどんなに感謝を申し上げてよいでしょうか。と純粋に神に言っている自分もいる。そのどちらもが真実なのではないか、と思います。
 そうすると、

(画像2枚目)

 まさにこのように、十字架において示された、すべてを包んでくださる神の愛に出会う、そういう私たち自身の物語を体験するのではないでしょうか。
今日の第15章7節で、イエス様はこう言われました。
 
7あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
 
 この「悔い改める必要のない99人の正しい人」とは、一見、パリサイ人や律法学者のことを言っているように思えます。しかし、本質においてはそうではないでしょう。パリサイ人、律法学者も、神から遠く離れ、悔い改め、立ち帰りが必要であった。ですから、パリサイ人律法学者の一人一人も、99人ではなくて、一人の罪びとなんです。一匹の羊であり、一枚の銀貨です。そうやって、パリサイ人律法学者に対しても、神の愛のふところに、帰ってこい、一緒に神の国の祝宴を喜び祝おうではないか、と、主は今、呼びかけておられるのです。
 
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は御子イエスをこの世にお遣わしくださり、罪人たちと一緒に食事をさせられました。しかしそれは、天国の祝宴の先どり、その招かれた罪人の一人を救うために、なんということでしょうか!あなたの何よりも大事なひとり子なる神を十字架にかけるという壮絶な愛を、注いでくださいました。それによって私たちの罪がゆるされ、三日目に復活なさった主イエスによって、永遠のいのちが、私たちに与えられた不思議に、おどろくばかりです。私たちは、この神の圧倒的な愛に包まれて、パリサイ人や律法学者たちのように人をさばかずに、かえって、自らが神に受け入れられた経験から、人を受け入れる者とますますしてくださいますように。そしてお一人一人を、この神の愛を語る者として、またこの神の愛が語られるところに、人びとを招き続ける者として祝福して遣わしてくださいますように。いやすでにそうしてくださっていますことを心から感謝して、主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。

#礼拝説教
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#99匹の羊
#無くした銀貨

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