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【文書版】✴️礼拝説教「イエス様の最も難解なたとえ話がわかる〜不正な管理人〜」新約聖書 ルカの福音書第16章1~13節

✴️昨日2022年9月18日(日)の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✴️礼拝説教「イエス様の最も難解なたとえ話がわかる」
新約聖書 ルカの福音書第16章1~13節(新改訳2017)

1イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。
2主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』
3管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。
4分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』
5そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。
6その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。
7それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。
8主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。
9わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。
10最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
11ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。
12また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。
13どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」

主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 旧統一協会の実態が連日明らかになってきていますけれども、霊感商法というのは、―もちろん今は壺なんか売っていませんけれども―続いているわけですね。今はモノを介在しない霊感商法ということで、地獄などと言って恐怖を植え付けた後で、自ら、自主的に、自発的に献金をした、というふうになるように持って行くわけですね。
 最近見た記事では、旧統一協会のある集会では、熱気のある集会だったそうですが、統一協会の幹部が、信者にこう呼びかけた。「自分の所有権の内容、これは自分の名前である、自動車から家、ビルディング、そして田んぼ、畑、もうすべてのものを全部書きなさい、わかりました?」と呼びかけた。「天の前に書きなさい」などと言っていたそうですが、そんなのは口実で、書かせて財産を把握して、献金させようと言うことなのでしょう。
 また別の報道では、ある元信者の女性は、韓国で、片言の日本語で「夫を殺してでも金を持ってこい」と言われたことがあると、証言しておりました。
 ここまでひどいのは聞いたことがないわけですが、こうして、法律の目をかいくぐりながら、でも人の目に見たら明らかに不正なやり方で富を集めているわけです。
 まあそういう団体と、政治が関わっていたということが、どんどん出てきておりますけれども、この法人が統一協会から家庭連合に名称変更をしたその書類の名称変更の理由の欄が、黒塗りにされていました。これもまた改ざんと言えるのでしょうか。政治の世界には、公文書改ざんなどというひどいことが起こったりするわけですが、イエス様は今日はそういう話をなさっています。「不正の富」と「文書の改ざん」のたとえ話なんです。

 先ほどの聖書朗読をお聞きになって、多分思われたことだと思いますけれども、イエス様はひどいたとえ話をなさっているかのように「見える」わけですね。もちろんそうではなく、その真意が解き明かされれば、恵み深いたとえ話なんですけれども、これは新約聖書のイエス様のたとえ話の中で、最っとも難解なたとえ話と言われています。といっても、朗読お聴きになって思われたかもしれませんが、たとえ話のストーリー自体は、何も難しくないんですね。とても簡単な、わかりやすいストーリーなんですね。一度お聴きになってだいたいお分かりになったと思いますけれども、少し補足して解説しながらストーリーを追ってみたいと思いますが、
 
まああるお金持ちに、一人の管理人がいたと。少し古い口語訳聖書という翻訳では「家令」となっていましたけれども、わかりやすく言えば番頭さんですね。この時代のイスラエルには、不在地主というのがいて、あちこちで事業を展開していて、その家の全部を、この番頭さんに任せる、ということがあったそうですね。そういうものだと考えていいのですが、
 
 ところがある時、この番頭さんがしていた不正がバレた、ということですね。内部告発があり、使い込みがバレたということで、業務上横領ということですね。そこで主人は、(2節)
 
『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』
 
 と言ったわけですね。まあ主人の信頼を裏切る悪い番頭さんだったわけですが、ここでこの番頭さんは心を入れ替えて「申し訳ありませんでした」と真摯に謝罪と説明責任を果たしたかというと、まったくやらないんですね。
 
3管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。
4分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』
 
 ということで、明暗を思いつくわけですね。ひらめいた、というところなのですが、そのひらめいたアイディアが、これまた悪事なわけですね。悪事に悪事を重ねる、不正に不正を重ねるわけです。
 なにしろ全ての権限を任されていた番頭さんですから、クビになるまでの残った時間で、人びとに恩を売るわけですね。それは、借金の証文を改ざんさせることでした。ようするにまけてあげて、ゆるしてあげて、相手が得をして感謝するようにして、解雇された後でも、その人たちの家に迎え入れてもらえるようにしようということをしました。
 「あんたはいくら借りがあるんだ?油100バテ?ああそうかそうか、さあ座って、50バテと書き直しなさい」
 「あ!?あんたはいくら借りがあるんだ?小麦100コル?80コルと書いておきなさい」
 こんなふうにして、借金を棒引きにしてあげました。
 まあそういう話は、この世の中、この時代でもいくらでもあったと思います。でもここで、普通のたとえ話や民話ならどうなるでしょうか?
 だいたいそれを見つけた主人はますます怒り、彼を裁判にかけ、牢獄に入れてしまった。たとえばそういう話になるのが常識的なところなのではないかと思います。
 ところが、

8主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。
 
 たとえ話は、ここで終わっているんですね。不正をした番頭をほめた。ここで私たちは混乱するんです。これがこのたとえ話が理解に苦しむところでして、普通なら、主人はますます怒りを燃やすのではありませんか?ところが「ほめた」!どういうことでしょうか?実は主人の方がなおさらに相当悪どい商売をしていて、悪知恵が働く人が好きで手元に置いておきたいので、時代劇のように「おぬしもワルよのう」とこういうふうにほめた、というようなことではないでしょう。

 そういうわけで、この箇所が難解なのは、ストーリーとしては分かりやすいけれども、イエス様がいったいこのたとえ話で何をおっしゃろうとしているのかがさっぱり分からない、まさか、弟子たちに、そして私たちに、これを見倣って賢く悪を行ないなさい、と勧めているわけではないでしょう。解釈に苦しむ。そういうわけで、説教者泣かせの箇所だとよく言われるわけです。
 
 そういうわけで、ここについては、さまざまな解釈があるわけですが、私も過去に、この箇所をたとえばこういうふうに解釈していたということを2つほど紹介したいと思います。あくまでサンプルとしてですよ。
 
 たとえば一つ目の理解の方向性としては、「小事に忠実であれ」ということですね。このたとえ話の後のイエス様のことばからですね。10節から12節。
 
10最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。
11ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。
12また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。
 
 というところから、小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実である、ということで、ビジネス、仕事にも応用できる話として語られることがあります。
 まあ私はビジネスには疎いタイプの人ですし、経営ということをしたことがありませんけれども、もし人を雇うなら、と想像してみればすぐ分かるわけですね。雇って見たら、小さいことでも、誠実に、忠実に、真面目にコツコツやってくれる人であれば、あ、もうちょっと大きいことを任せても安心かな、と思うわけですね。
 逆に、雇ってみたら、小さいことだからと言って、全然忠実に誠実にやらない、ということであれば、大きなことをやらせても、同じように不誠実にやるだろうということが予想できてしまうので、とてももっと大きなことは任せらないと思うわけですね。
 だから私たちが、企業や団体の中で働く時にも、小さなことから誠実に忠実に働くのだ。これはもう基本的なことですね。仕事だけじゃなくて、教会の奉仕も、家庭でのこともそうです。こういった方向性の理解・解釈ですね。
 これは仕事だけではなくて、人生勉強そのものと言いますか、そういうメッセージを聴くのは私たちの人生の益になりますね。特に若い青年の集会などでこういう聖書メッセージをしたらとてもいいと思うんですけれども、それはそれで素晴らしいし、人生の真理なんですけれども、ただそうしますと何か釈然としないんですね。というのは、ここでイエス様が語っておられるのがそういうメッセージであるならば、わざわざ不正な番頭さんをたとえ話に登場させる必要がないんですね。小さなことにもこつこつやった人が、信頼されて番頭さんになって主人にすべてのものを任されるようになりました、というたとえ話でいいわけです。では他にどういう解釈・理解が考えられるでしょうか?
 
 2つ目の理解の方向性としては、「この世の富の管理」というテーマがここで語られている、という理解ですね。これもあくまでもサンプルとして紹介するのですよ。
 この不正な番頭さんが、不正をやったから褒めたんじゃないんだ。
 
8主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。
 
 とあるように、彼の賢さをほめたんだ。そして、(8節後半)
 
この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。
 
 とあるから、光の子らというのは弟子たち、つまりクリスチャンであって、この世の子ら、というのは、聖書が啓示しているまことの神や、そして救い主イエス・キリストを知らない人のことですね。
 この世においては、まことの神を、またイエス・キリストを人生の主として心の中心に迎え入れていなければ、自分、という「主」が心の中にいることになるので、自分のためにこの世の富を集める方向にいきがちになる。この世の人々は、一所懸命、自分のために、知恵を尽くして、本当に賢くやっている。彼らの賢さを見倣いなさい。悪いことをやるんじゃないんだけれども、持てる知恵を尽くして、頭を使って、伝道しなさい。ここでの不正の富とはこの世の富を指しますから、この世のお金(や自分に与えられた賜物、能力)を有効に使って伝道して、友を作りなさい。つまり信仰の友を作りなさい、という意味で、そうすれば、富がなくなった時、彼らが永遠の住まいに迎えてくれますよ。
 だから小さなことに忠実というのは、この世の富を神様に忠実に、良き管理者として、管理して有効に主のために用いて行くことなんだ、という方向の理解・解釈ですね。
 これは確かに、この世の金銭と言うのも、神さまから預けられたものであり、私たちは良き管理者としてまかされているものだということは、旧新約聖書全体から導き出されるものですから、教えとしては正しい。確かに正しいと言えるんですけれども、私はなんだか今思えば、心が萎えていく・苦しくなるような感じがいたします。
 どういうことかと言いますと、「そうすれば、彼らが永遠のすまいに迎えてくれる」ということであれば、なんだか伝道しないと救われないようなですね、そんなふうにも読めてしまいそうですし、―もちろんそうではなく私たちが伝道したから救われるわけではなく、神の恵みのみによって、信仰のみに救われるわけですから―ここも何かしっくり来ない。それに、これはちょっとカルトの手口を知ったから、うがった見方になっているのかもしれませんけれども、カルトの手口と、かすかにわずかに似た匂いを感じるんですね。この世の富はむなしいから、伝道の為に、教会にささげなさいといったようなですね、微妙なところですけれども献金集めの口実のように使われかねない、と思ったんですね。その解釈は。うがった見方をしすぎなのかもしれませんけれど―
 それに何よりもですね、その解釈ですと、「福音が無い」ということなんですね。喜ばしいお知らせが無いわけです。むしろ必死で伝道している時であれば、こんなにやってるのにまだまだということですか、これだけやって、なおさらにどれだけ金銭的な犠牲を払って伝道したら、天の住まいに迎えいれられますか、といったようなですね、あの伝道も、どこまでやったらゆるされるか分からんという価値観で無理してやるとバーンアウトしますのでー私も20年伝道してきましたけれども、かつて途中でそれを経験しましたーしかし、そこに本当にほっとする、慰めのメッセージ、ゆるしのメッセージが聞こえてこなければ、気付かずに律法主義的な読み方になっているのではないか。そういう場合には、きっと何かを読み落としているんです。ここで私たちは、根本的に・根っこから読み方を見直してみる必要があると思うんですね。
 
 イエス様のたとえ話を聞く時に、大事なことは、たとえ話のきっかけとなったできごとなんです。実はこれ前回と続いていまして、たぶん、前回の話と同じ部屋で語られたたとえ話なんです。前回の話とは何だったか覚えている方はいらっしゃいますでしょうか?3つのたとえ話でした。ルカ第15章、そうですね、
 
いなくなった1匹の羊、無くした銀貨、放蕩息子のたとえ話、
この三つのイエス様の珠玉のたとえ話3部作ですね。このたとえ話は三つとも、天国の祝宴、という通奏低音のようなずっと流れている一本のテーマの上に乗っています。天国の祝宴に一人の罪びとが帰ってきたら、天では大きな喜びが起こるのだ、ということを一貫しておっしゃっているたとえ話ですね。で、その話が語られるきっかけとなったのが、イエス様が取税人や罪びとたちと一緒に食事をしている、これに、パリサイ人や律法学者たちが、つぶやいた、文句を言った。「なぜ、こういうごろつきみたいな連中と付き合っているのか」とぶつぶつ言ったわけですよね。それを知ったイエス様は、パリサイ人や律法学者たちに、このような罪びとの一人が、イエス様を通して、父なる神のもとに戻ってきたら、天では大ーきな喜びが起こるのだよ!と、たとえ話を通して語られたのですね。
 で、その続きなんです。実はこの話は!今頃文脈の話がでましたけれども。より大きな文脈でみること、これが聖書を読む時の大事なことでして、たぶん3つのたとえ話をなさった直後に、今度は弟子たちに、放蕩息子とつながった話として、お語りになっているのです。
 その証拠に、この不正な番頭さんが、「主人の財産を無駄遣いしている」というこの「無駄遣いする」ということば、これは、放蕩息子が、お父さんの財産を「湯水のように使った」ということばと一緒なんです。
 つまりこの番頭さんは、放蕩番頭である!放蕩三昧の番頭さんと言いますか、この主人は父なる神さまで間違いないんですけれども、この主人である父なる神さまの財産を、湯水のように使った上で、まだ飽き足らずに、さらに父なる神の財産をどんどんどんどん無駄遣いして友を作っている。ろくでもない連中に借金を免除してやっている。そういう番頭さんの姿をイエス様はたとえ話の中で鮮やかに描き出されるのです。
 (ちなみにこれは、全額ではないのは、免除してやったのが、利子の分だというんですね。あとは商売するための元手として預かっている分ですから、負い目は全部帳消しにしたんです。)
 この番頭は、とんでもない人です。むちゃくちゃな人です。父なる神様のものを、どんどん、人びとの負い目を無くすために、使いまくっているわけです。聖書で負い目、借金と言えば、神の前の罪を表します。私たちの神の前の罪というのは、神への借金と聖書では表現されますね。
 ですからこのとんでもない番頭さんは、イエス様ご自身のことです。父なる神から与えられている、ご自身のいのちというものを、十字架の上で注ぎつくして、それこそ、私たちどうしようもない罪びとのために、神である主イエス・キリストの血が流される必要は本当はさらさら無かったわけです。それなのに受ける資格のない私たちのために、その血が流された、これがまさに、神の聖なる浪費です。「さあ急いで、証書を書き変えなさい。あなたの負い目は全く無くなった。あとは、あなたが生涯で使うために、神さまから預かった贈り物だ」ってそうイエス様は、私たちにおっしゃっている。
 そのように、主イエスは、賢く、父から与えられたご自身のいのちを、用いられました。人間の目には、愚かに見えるかもしれません。そんな人間のために、そこまでなさらなくても、と、思ってしまうようなことでしたが、神の愚かさは人よりも賢く、とあるように、その愚かさが、「何よりも賢いことだ」と、父なる神は、イエス様を、おほめになりました。これが、主人が番頭をほめた、ということの意味です。

 だから主イエスはおっしゃいます。「不正の富で、友を作りなさい」この不正の富とは、イエス様のいのちであり、血潮です。イエス様の十字架による赦しのことです。この世の子らは、パリサイ人や律法学者たちのことです。つまり、パリサイ人や律法学者たちは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも、つまり弟子たちよりも賢い。賢く民衆を取り扱っている。だからこそ、それよりも強い、神のゆるしを、世の人々に宣言して行くのだよ。「あなたも、イエス・キリストの十字架によって、罪ゆるされたのだ」このことを宣言して行くんだ。あなたは同じく神にゆるされた者としての友を得るだろう。さらにここで私たちは忘れないようにしましょう。本当の友は、先ほど「世には良き友も数あれど、キリストにまさる良き友は無し」と歌った通りに、いつくしみ深き友なるイエス様が、私たちが地上の生涯を終えた時、両手を広げて、天の御国で待っていてくださる。そして、福音を伝えた人々、信仰の友も、その天の永遠の住まいで待っていてくれる。私たちは、先に天に送った、なつかしい人々の顔を思い起こすのではないでしょうか。地上の生涯を、なおさらにこの主イエスのゆるしを伝えて歩き、主の御国に凱旋した時に、主イエスと、天にいる私たちの友が両手を広げて歓迎してくれるのです。その日をはるかに望み見て、主を証しする生涯を送らせていただこうではありませんか。
 
お祈りをいたします。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様という主人は、とんでもない管理人を遣わしてくださいました。その行動が不可解なほどです。父なる神のものを、湯水のように使って、浪費して、枕するところもないほどに、人びとを助けて回ったでしょう。それだけでは飽き足らず、自らのいのちを十字架の上に磔にして、尊い血潮を流してくださり、私たちの罪という借金の債務証書を、無効にしてくださいました。いつくしみ深きイエス様は、そのようにして、私たちの友となってくださいました。このまことの友は、私たちの地上の生涯が終わった時、両手を広げて、天の御国の宴会に、喜んで迎え入れてくださいます。私たちをこの主イエスの十字架による赦しを人々に宣言しながら、神の国に招き続ける者として、祝福して遣わしてください。主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
 
#ルカ16章 #不正な管理人
#礼拝メッセージ #礼拝説教

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