見出し画像

【文書版】礼拝メッセージ「金持ちとラザロ」新約聖書 ルカの福音書第16章14~31節

✴️昨日2022年9月25日(日)の午後の礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✴️礼拝説教「金持ちとラザロ」
新約聖書 ルカの福音書第16章14~31節

14 金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。
15イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。
16律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています。
17しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。
18だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。
19 ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。
21彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。
22しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。
23金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。
24金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』
25するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。
26そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』
27金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
28私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
29しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
31アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
 
 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。

 皆さん、トランプのゲームの、大富豪、あるいは大貧民、というのをご存じでしょうか。それで遊んだことがおありでしょうか?私はーもうだいぶ忘れましたけれどもー小学生の頃にたくさんやりました。あれは面白いゲームでして、何が面白いかと言ったら「革命」というシステムがあるんですね。同じ数字を四枚そろえて場に出しますと、がらりと変わるんですね。全員、それまで一番強かったカードが一番弱くなり、一番弱かったカードが一番強いことになり、すべてのカードの強さが逆転するわけですね。こうしますと、弱いカードばっかり持っていて、勝ち目がないと思っていた人が、がぜん勝ち目が出て来る、ということで、一発逆転がでるゲームでした。これは、ゲームの名前になっている通り、貧民が大富豪になったり、大富豪が貧民になったり、そういう逆転劇が起こることが、面白いゲームだということでしょう。
 さて、今日、イエス様は、大逆転劇を語っておられます。大富豪が出て来るんですね。大貧民も出て来ます。金持ちとラザロ、とよく呼びならわされているたとえ話ですが、ラザロが貧しいホームレスのような人だった。そして一人の大富豪ですね(実話だと言う人もいますけれどもたとえ話です)。

(まず初めに申しておきますけれど、自分をこのたとえ話のどの人物に重ねるかの時に、自分は所得がこれくらいだから金持ちにあてはまる、とか、私は所得がこれくらいだからラザロに当てはまるとか、そういう重ねあわせをしてはいけないということですね。所得が多くても少なくても、私たちの心は金持ちになることがあるし、ラザロになることがある。もしくは私たちのうちに金持ちもラザロも両方が住んでいる、と言った方がよいでしょうか)

 まあこれも、イエス様のたとえ話の中で、難解なものの1つです。先週の「不正な管理人」のたとえは、イエス様のたとえ話の中で一番難しいですが、この「ラザロと金持ち」の話も相当難解なんですね。おそらくイエス様のたとえ話の中で、これも5本の指に入るくらいのむずかしさなのではないかな、と個人的には思うのですが、例によって、話のストーリー自体は何も難しくないんですよね。トランプの大富豪のゲームのように、地上で大逆転が起こって、ホームレスだったラザロさんが豊かになりました。お金持ちは、貧しくなりました、という話ではなくて、死後に大逆転が訪れる話ですね。死というものは、どんな人にも平等に訪れますね。その死んだ後、お金持ちはとても苦しいところに行った。火で焼かれて苦しんでいた。ところがラザロさんは、あのイスラエルの偉大な信仰の先祖アブラハムのもとにいた。そこでどうも安らかに憩っていると。でも、そこから逆転はできないし、二人の間には大きな淵があって、決して超えて行くことができない、と。その先にも少しありますけれども、後でそれはお話します。そういうたとえ話をイエス様はなさった。
 これはいったい、イエス様はこのたとえ話を通して、何をおっしゃっているんだろうか?ここが難しいところなんですね。そこでいろいろな解釈、理解の方向性があります。
 
 一つ目の理解の方向性としては、まあざっくり言うならば、「天国と地獄」というようなテーマで理解する方向ですね。
 
 ここに11世紀の絵画があります。
 
 これはたとえば仏教の子供向けの話に似ていますね。お寺によっても違うでしょうけれども、地獄の絵もあって、血の池地獄とか、針の山とか、そういうのが描かれていまして、嘘をついたら、閻魔さまに舌を抜かれるよ、とか、そういう話は、子どもに聞かせるのはちょっと問題もあるかもしれませんけれども、おそらく良い効果もあると思うんですよね。悪いことばっかりしていたら、死んだ後によくないところに行くかもしれないから、嘘をつかずに正直に生きて行きましょうとか、そういう方向に子供たちを教育する面では、今となってはちょっと問題もあるかもしれませんけれども、いい面もあるのかな、と思います。
 ラザロと金持ちの話も、お金持ちは生前、ラザロが、家の門の前にいて、いつも見ていたけれど、助けることをしなかった。見捨てたんだと、その生前の行ないに応じて、地獄のようなところに行き、そしてラザロの方は、天国のようなところに行った。仏教的に言えば極楽のようなところに行ったと。それならば、確かに、この世は不公平だと思っている人にとっては、死後に帳尻が合うんだからと言って、少しは人生に対する不満が和らぐかもしれないし、死んで良いところに行くために、心を正して良い心で生きることにつながるかもしれません。
 しかしそういう理解であれば、それこそ仏教も説くでしょうし、死後の世界のことを語り、生前の行ないを整えるというのは、おおよそ宗教という名のつくものであれば、世界のあらゆる宗教にあるでしょう。
 それに、もう皆さん、その解釈・その理解だと、善い行ないをしたら救われるというのは、聖書の福音、とは全く別のものだということがお分かりのことだと思います。なぜなら「人は行ないによって義とされない」ということは、パウロの手紙などで繰り返し出て来ますね。
 
 2つ目の理解の方向性としては、たとえば、「(もっと)地上の富を用いて施しをしましょう・慈善を行ないましょう」という、そういうチャレンジ、励ましのためのたとえ話だと解釈する方向ですね。教会はもっと貧しい人々を助けるべきだ、あるいは貧しい国々を助けるべきだ、こういった方向は大変素晴らしい尊敬すべき方向性ではあると思うんですけれども、
 これもやはり、施しを行なわないと、困っている人々を助けないと死後に悪いところに行くかもしれないから、やりましょう、と。これもやはり、地上で徳を積んでおこうというような話になってきてしまいますし、へたしたら、地獄に行かないために献金しましょう、というような、今話題のカルト団体、統一協会と―志は尊くて詐欺をしていなくて立派で善意なんですけれども―理屈、ロジックは同じものになってしまうでしょう。「人は行ないによっては義とされない」という聖書が明確に言っていることと、かみ合わなくなってくるんですよね。そして、

【一度イエス・キリストによる救いを受けた者は、その後の行ないのいかんによって、その救いから落とされることは決して無い】

 という聖書全体から導かれる原則ともかみあわなくなるんですね(繰り返し申しますけれども、皆さんが今後の行ないによって救いを失うことは決してありませんのでそこは安心してください。)。

 ともかくそれらの二つの解釈・理解の方向性だと矛盾が生まれてしまうわけですが、ではどう理解すればいいんだろうか?これがこのたとえ話のまた難解なところです。でもツボをつかめば、簡単です。イエス様のたとえ話でもそうですが、聖書のみことばを理解するコツの一つは、前後の文脈で読むことですね。しかも、より大きな文脈で読むということです。そこでイエス様の真意が見えてきます。

 実は、今日のみことばの聖書日課は、第16章19節から第16章の終わり31節までの、たとえ話のみが聖書箇所になっていましたが、本当は14節から読まないと、本当の意味が見えて来ないので、14節から読みました。さらにそしてもっと言えば、もっと前、これですね

【ルカ第15章1~3節をスクリーンに映す】
 
1さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
 
 第15章の1節からの続きで・一貫した一連のものとして、このたとえ話が語られている。ということをおさえないと、イエス様が今日のたとえ話で何を言わんとしておられるかというのが、見えて来ないんですね。
 それで、今ごろ振り返りになりますけれどもイエス様の三つのたとえ話。

 いなくなった一匹の羊、無くした銀貨、放蕩息子のたとえとよく呼ばれる話。
 この三つはすべて、このパリサイ人や律法学者たちが文句を言ったことをきっかけにイエス様が語られたのでした。
 「イエスという男は、あんな取税人とか、罪人とか、そういうろくでもない連中と一緒に食卓についておる。けしからん」などと、ぶつぶつ言っていたわけですね。
 それに対するアンサーとして、一人の罪びとがイエス様を通して、父なる神のもとに帰ってくるなら、天では大宴会の大―きな喜びが起こるのだと、この一本のテーマで、三つものたとえ話を用いてイエス様はねんごろにお語りくださいました。
 それで、その天国の宴会という一つのテーマがまだ続きながら、今度は、たぶん同じ部屋で、時をおかずに、弟子たちの方に振り返って、

 「不正な管理人」このたとえ話をなさったわけですね。不正の富、つまり主人から預かっていた富なんですけれども、これは父なる神の富を指します。父なる神の富を湯水のように使っては罪をゆるしまくり、友達を作りまくっているのは、この管理人は実はイエス様を指すのだ、ということを先週共に学びました。
 そしてそのたとえ話をなさった後に、話の結びのように、イエス様がこうお語りになった。
 
13どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」
 
 これもイエス様によるパリサイ人批判・律法学者批判が含まれていると思いますけれども、神と富とに兼ね仕えることはできません。と言った時に、パリサイ人たちが、反応するんですね。鼻で笑ったわけです。「できるよ。」って思っていたんでしょうけれども、そのあざ笑いに対して、イエス様は一貫して、14節から、ラザロと金持ちのたとえ話の終わりまで、一貫して、今度は「パリサイ人批判」という一本の芯というべきテーマを持ちながら、話を展開しておられるわけですね。図に書きましたけれど、天国の宴会というテーマはここでも切れていないんです。

【画像2枚目】

 こういった形です。ですから通奏低音のように、天国の宴会という一本のテーマが続いていて、そしてその上に、また一貫したパリサイ人批判という、あえて言えばもう一つのテーマを下敷きにして(第15章の3つのたとえ話からパリサイ人批判をしておられると見てもいいんですけれど)、一貫した話をしておられるんです。途中で離婚の話がでてきたりするので
 
ルカの福音書第16章18節
18だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります。
 
 唐突のように感じられるかもしれませんし、一見テーマがぶれているように錯覚するかもしれませんが、イエス様のテーマは全然ブレていなんですね。(ルカが福音書を書く時に編集でイエス様のいろんなことばを並べたんだということでもないと思います。)パリサイ人批判ということで一貫している。
 ここで離縁と書いていますけれども、離婚のことですね。パリサイ人たちはこの結婚、離婚についても好き勝手放題やっていました。
 モーセの律法には、妻に恥ずべきことがあれば、やむなく離縁状を書いて妻に渡して離婚ができることが(申命記第24章1節に)書いていますが、それをパリサイ人たちは、勝手解釈しました。妻に恥ずべきことがあれば、とモーセは言ったが、その恥ずべきこととは何か、それはあるラビ、ユダヤ教の教師はこう言いました。妻の不貞だと。そしてまたあるラビは、それは妻がご飯におこげを作った時でもいいと。そしてあるラビは、今の妻よりもっと美しい女性を見つけた時だ、と解釈しました。なぜなら、新しく出会った女性が、より美しければ、今の妻は、彼女に比べて恥ずかしいですよ、と、まあとんでもない解釈なんですけれども、パリサイ人は、結婚と離婚を繰り返していて「え、モーセの律法に反していませんけれど何か?」ってやっていたわけですね。まあとんでもない、女性にとってもたまったものじゃない話なんですけれども、金銭を好むパリサイ人たちが、イエス様をあざ笑っていたと、福音書記者のルカさんは、かなり露骨な表現で書いていますけれども、この場合妻、女性、つまり人間を人間扱いしないことと、金銭を愛することは、じつは深いところでつながっています。それは後でお話しますけれども、
 
 イエス様の今日の「金持ちとラザロ」のたとえ話をもう少し深く解き明かそうとしますと、実はイエス様のこのたとえ話のモデルというか原版があるんですね。それは、紀元前4世紀にエジプトにあった民話です。誰からとなく語り伝えられてきたもので、エジプトからの人々の移動とともに、ユダヤにも伝えられるようになったそうです。ですからこの時代、その金持ちと貧しい人の死後の話というその話の枠組みを借りながらイエス様はある意味でそれのパロディとして語りながらパリサイ人批判をなさっているわけですね。ですから、ここから、キリスト教の天国と地獄とは、という教理や教義を引き出そうとしたり、たとえ話の(このよみとは何を表すとか、ゲヘナと違うのかとか、よみも二つに分かれているのか、とか)ディティールにこだわろうとするのは「イエス様の意図からは」的が外れているでしょう。ともかく、その伝わってきた民話では、貧しい人が死後豊かに報われ、地上で裕福だった人がよみで苦しむことになるという、こういう基本の主題は、当時のユダヤ人皆が知っていた話ですので、イエス様はそこにご自分が伝えようとすることを織り込んでおられた、ということです。
 それで、ユダヤ人たちがよく「ああまたあの話ね」となるくらいに聞かされていたバージョンでは、こういう話になっていたそうです。私腹を肥やしていた金持ちというのは、ある一人の大金持ちの取税人のことだと。彼が死後に苦しいところに行ってさいなまれた。ところが、生前貧しい者がいた。その貧しい者とは、名もない、しがない、ひとりの律法の教師であった。聖書の言い方で言いますと律法学者となるわけですが、彼は貧しい中でも、具体的な生活の中で、律法をどういうふうに適用して守って行くか、ということを、民衆に説き続けた。それは貴族ばかりに教えていたサドカイ人とは違うんです。貧しくあっても、きよく正しく品行方正に生きたこの律法学者は、死んだ後報われ、イスラエル民族の偉大な信仰の先祖、アブラハムのそばに迎え入れられた、という話です。

 ですからそばで聞いていたパリサイ人たちは、ああ、あのお話ね、と聞き始めてはいたんですけれども、途中からオイオイと思い始めたと思うんですね。自分たちが聞き慣わしていた話と、少し違うし、金持ちが死後に苦しんでいる、という話から、この金持ちというのを、どうやら自分たちパリサイ人のことを指してこのイエスという男は語っているのだ、ということに気付き始めて、落ち着かなかったり、いらいらしたり、たとえ話が進むにしたがって、怒りがこみあげてきたかもしれません。というのは一昔前とは違って、この時代のパリサイ人たちは裕福だったからですね。
 そして、やはりここでも、時代と共にパリサイ人、律法学者たちは裕福になるにつれて聖書を都合よく解釈しました。この豊かなのは、神の祝福のしるしなのだ。アブラハムをはじめ旧約の族長たちも神に従順であって豊かであった。私たちが豊かなのは神に忠実であるしるしだと、そして貧しく生きている者たちは、なんらかの落ち度があるんだと、律法を守っていなかったり、隠された罪があるから、病気になったり貧しくなったりするのだと、考えていました。(自己責任論のような考え方ですねが)だから共に生きる人間を人間として見ない。取税人や罪びとたちを、見下したりして人間としてみていないし、パリサイ人たちが女性をとっかえひっかえモノのように扱っていたこともまた、彼女たちを人間として見ていないわけですね。それは、ラザロに対して何もしなかった金持ちの態度として、イエス様はたとえ話の中に織り込んでおられるのかもしれません。それでは救われないのだ、とイエス様は真剣にお語りになりながらも、じつは、おそらくパリサイ人への愛をも込めて、語っておられる。そうなんです。イエス様はパリサイ人や律法学者たちにも、厳しい警告をお語りになりながらも、どこかに愛を込めて、「あなたもあなたも神のもとに立ち返ってほしい」と、よくよく読めば、そういうふうにお語りになっているふしがあるんですよね。(特にルカの福音書にはそれがよく出て来ます)
それが出ているのが、たとえ話の続きなんです。淵があって、どうしても、永久に、アブラハムのふところに渡って行くことができないと知った後の元金持ちの態度なんですね。27節以下。
 
27金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。
28私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんな苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告してください。』
29しかし、アブラハムは言った。『彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。』
30金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう。』
31アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
 
 と。ここで、この金持ちは、一つの人情を見せるんですよね。自分のことだけを考えているわけじゃないぞ、と。家族思いなんです。兄弟思いなんです。そういうある意味で優しい一面があるわけですけれども。兄弟が5人もいる。尊敬する父アブラハムよ、ラザロをどうか私の家族の5人のところに送って、私がこんなに苦しんでいるので、こんなひどいところに来ないように、どうか警告させてください。そう頼むんです。
 そうしたら、「父アブラハムよ」という呼びかけに答えて、「子よ」といういつくしみ深い、呼びかけをアブラハムはするんですね。そこは先祖としての子孫を思うあわれみがあるんですけれども、そこは人情だけでは無理なわけですね。アブラハムは「モーセと預言者がいる」これは、旧約聖書全体、という言い回しなんです。「律法と預言者」というのと同じ言い回しで、旧約聖書全部を指します。これがあるじゃないか。5人の兄弟もそれに聞き従えば天の御国に行けるはずだ。元金持ちは答えました。
 いいえ、父アブラハムよ、彼らはそれだけでだめでしょう。もっと、死んだはずの者が生き返ってきて警告するとか、そういうショッキングな、目に見えるびっくりするようなことでも起こらないと、私の兄弟5人も、私と似たり寄ったりなので、悔い改めないと思います、と、アブラハムに反論するんですね。そうするとアブラハムは(31節)、
 
『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
 
 と、非常に厳しいことを言うんですね。でこの5人の兄弟は、おそらくパリサイ人の仲間たち、もしくは律法学者、祭司長、長老たち、こういうふうな人たちとも言えるかもしれません。お友達、お仲間ですね。貧しい人、罪人と呼ばれている人たち、女性たちは見下すが、そういうお友達は彼らは非常に大事にしていたわけです。あなたが死んで、死後になってはじめて、そういうお友達に警告しようとしても、無駄であるし、そもそももう遅いということを、イエス様はおっしゃっているわけです。だから生きているうちに、悔い改めよ、立ち帰れ、とパリサイ人たちにイエス様はおっしゃっているわけです。

 で、このお友達、パリサイ人の仲間たち、もしくは律法学者、祭司長、長老たちが、モーセと預言者たち、つまり旧約聖書に耳を傾けないなら、とイエス様はたとえておられますけれども、聞いていたパリサイ人はここできっと、怒(いか)ったと思うわけですね。「私たちの仲間は、モーセと預言者に、耳を傾けているよ。いや耳を傾けるどころじゃない。毎日毎日、何時間も、聖書を読んでいるよ。だって専門家なんだから」と思っていたわけですね。そして聖書を読むことにも、律法を厳格に守ることにも熱心であった。だけれども、離婚に関しても、あんなめちゃくちゃな解釈をして、女性を、人びとを、踏みにじっていながら、律法を守った気になっている。
 こんなことがどうして起こるんでしょうか。私は聖書の読み方に、大きくわけて、二種類あると思います。みことばの、上に立って読むか、みことばの下に立って読むか、ということなんです。イエス様時代のパリサイ人律法学者たちの、聖書の読み方は、聖書のみことばの上に立って読んでいたんです。自分たちの方が上で、みことばは、道具なんです。みことばを「使う」という意識なんです。離婚のことに関してもそうなんですけれども、みことばを「使って」自分を正当化する、あるいは、民衆をさばく道具としてみことばを「使う」。いつもそれは自分が「主」なんです。みことばが「従」なんです。自己中心という芯があるから、それに合わせて、聖書を解釈するし、律法も自己中心に解釈するし、口伝律法(くでんりっぽう)という、イエス様が先祖たちの言い伝えと呼んだもの、つまり文章として書き遺されていない口伝えの律法も、その自己中心を基準にどんどん作られて行きました。だから聖書または律法をどれだけたくさん読んでいても、本当のところはモーセと預言者に耳を傾けていないんです。(音声としては誰よりもみことばを熱心に聞いていた。でも音声として聞くのと、神の心を聞き取ろうとするのは違いますよね)耳を傾けていたのは、本当は聖書ではなく、自分(の欲)やお友達の声ですね。だからイエス様は、
 
17しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいのです。
 
 と、離縁の話の前に語られるわけです。
 
 それで、二番目の聖書の読み方は、聖書のみことばの「下に立つ」ということです。これは、皆完璧にできている人は世界中に一人もいないと思います。私を筆頭に。
 みことばの下に立つとは、みことばを使って、自己正当化したり、みことばを引用しながら人を責めるハラスメントなどをしたり、みことばをマウンティングしたいがための道具にするのではなくて、向き合ったみことばに自分自身が変えられる(他の人より上になるように変えられる、という意味では無くて)。そういう、聖書を読むというよりも、聖書に読まれる、そういうものとして、みことばの「下」に自分を置き、神さまへの深い畏れと、しかし同時に、みことばへの信頼と愛をもって、みことばと向き合う。そういう、自分より聖書の方が上なのだという、みことばの権威を認める読み方、聴き方をしていくこと、この意識がありますと、パリサイ的な読み方から守られ、私たちの霊性がきちんと保たれる秘訣の一つにもなると思います。
 こうして自分が神より下に降りる。神より低い位置にいる、ということが、人間を人間として扱うことと、深いところでは結びついています。
 逆にパリサイ人たちは、本当のところでは神を信じてはおりません。神への信頼が無いんですね。そうしますと、自分の力に頼って行きます。どれだけ律法や口伝律法を守れるかどうかが勝負になります。実力勝負です(それが16節の「誰もが力づくで神の国に入ろうとしています」の意味なのですが、律法の行ないによって力づくで天の御国に入ろうとしている)。そして、養ってくださる神、を、実は信用していませんから、お金を頼りにします。だからルカは非常にストレートに「金銭を好むパリサイ人」と、彼らの本質を見抜いて鋭く描くわけですね。
 そして、自分の実力で、のしあがったわけですから、努力して、のしあがったということは、容易に、人を見下すこととつながります。だから「あーんな取税人や罪びとたちと一緒に食事をしてら」とつぶやいて彼らを見下すし、一緒にいるイエス様をも見下していたわけですね。聖書をあんなにも熱心に読みながらも。それがもう、究極的なことを言えば、一つなんです。パリサイ人たちは「自分を神にしていた」それが罪の本質です。罪の根っこは、施しをしなかったとか、慈善を行なうことに怠慢であった。まあそれも罪は罪なんでしょうけれども、それらは行為罪、sinsと言って周辺的なことですよね。罪の中心で本質は、自らを神とし、神を神としないこと。これがまさに「神との関係の破れ」という聖書が語る罪の本質なんです(そうなると神も人もみことばも、道具として「使う」ようになる)。
 けれどもイエス様は、それをまさに打ち砕こうとしておられる。31節のことばをもう一度共に聴きましょう。
 
31アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
 
 イエス様はたとえ話の中で、アブラハムにこう語らせています。「だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」
 イエス様は、このたとえ話を、すでに、ご自身の十字架と復活を念頭に話しておられます。
本来私たちもこの金持ち、パリサイ人たちと同じように、祝宴の席、アブラハムから、渡ることのできない大きな淵によってへだたれた、よみにおいて、さばかれ、ほろびさるべきものであったにもかかわらず、
どんなことをしても、祝宴の側から、よみに来ることはできず、よみから、それを渡って行くことができないとアブラハムは言いました。
でも、たったお一人、主イエス・キリストだけが罪人の代表として、私たちの罪を負って淵を渡り、よみにまでくだったお方です。そしてそのよみから引き揚げられたお方。
私たちを滅ぼしつくそうとする、この罪の大きな淵を、こののち、主イエス・キリストはまるでなかったかのように飛び越えてしまいます。十字架の上で裂かれたご自身の肉、流された血を犠牲としてです。
 つまり、この死人の中から生き返る誰か、とは、イエス様ご自身のことです。イエス様は十字架の後の、三日目の復活のことを、暗にふくめて、語っておられる。
 ですからパリサイ人に対してこういうメッセージをかけられていると思います。「あなたたちは、自分を神にして、自分を中心にして聖書を読んでいるから、モーセと預言者に耳を傾けてはいない。だから、きっと、わたしが、本当に死者の中から復活しても、信じないだろう」と、悲しみを込めて語っておられる。そして、本当に全然見込みがなければ、イエス様は何もおっしゃらなかったでしょう。イエス様は真剣にパリサイ人と向き合いながら「あなたがたの中にいる自分という主、自分という神と、徹底的に戦う」と宣言しておられる。そしてそのパリサイ人の中にある「自分」という偶像を砕いて、どうか、聖書の下に立つ、正しい耳の傾け方をしておくれ、って。そして一人のひとを人間として扱う世界に開かれていっておくれ、って。あなたも、アブラハムのふところに、天の御国の宴会に迎え入れられておくれって、わたしと同じ復活のいのち、永遠のいのちを得ておくれって、そのように主イエスは、たとえ話を通して、語っておられるのです。
 
お祈りを致します。
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は、モーセと預言者をお与えくださいました。旧約聖書だけで、救いに至るには十分であると、言っておられるかのようです。しかし父よ、なおさらにあなた様は御子イエスをこの世にお遣わしになり、へりくだりと愛のお姿で、最後には十字架におつけになって、私たちの罪をすべてゆるし、復活の主イエスによって、私たちにも復活のいのちを与え、天の御国の宴席に、つならるものとしてくださったことを心から感謝申し上げます。私たちは律法の行ないによって、力ずくで天の祝宴に入ろうとするのではなくて、ただ恵みによって、信仰のみによって、そこに入れていただけますことを、ことばにつくせないほどの驚きと感謝をもって受け止めます。私たちもまた、みことばの下にへりくだり、みことばも人間も道具とするのではなく、神を神として、人間を人間として、重んじて、尊んで生きる歩みができますように、いやすでにお一人一人をそうしてくださっていますことを感謝します。主イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。
 
#金持ちとラザロ
#ラザロと金持ち

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?