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【文書版】✅礼拝メッセージ「勇気を失わない」新約聖書 ルカの福音書第18章1~8節

✴️先日2022年10月16日(日)のカフェ倍音共鳴にての礼拝メッセージのテキスト版もここに掲載いたします⬇️
✅礼拝メッセージ「勇気を失わない」
新約聖書 ルカの福音書第18章1~8節(新改訳2017)

1いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。
3その町に一人のやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私を訴える人をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
4この裁判官はしばらく取り合わなかったが、後になって心の中で考えた。『私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、
5このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、私は疲れ果ててしまう。』」
6主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
7まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。
8あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにありますように。
 この日も皆さんとご一緒に主の日の礼拝にあずかれますことを心から感謝いたします。
 まずこちらの画像をご覧ください。

【画像一枚目】

 こちらは、前回にもご紹介しました、統一協会の元二世信者の小川さゆり(仮)さんですが、前回にもお話しましたね。会見中にご両親の署名入りで、「この会見を今すぐ中止してください」という妨害のファックスが入ったわけですが、彼女は涙を流しながらも、なお気丈に、会見を続投して、法整備と、旧統一協会今家庭連合の解散を訴えたということですね。これが、元統一協会幹部の、スティーブハッサン氏によって賞賛されたということですね。

【画像2枚目】
 
 このスティーブハッサン氏は私も前から本で知っていまして、20年くらい前に教会の本棚に彼の著書の「マインドコントロールの恐怖」という本があって読みまして、「こんなひどいことが行なわれているのか?」とショックだったことを覚えています。
 以下記事を読んでみます。
 

“統一教会”元2世信者の訴えに賞賛の声
 
涙ながらに“統一教会”の解散を訴えた元2世信者の女性に対し、教団のアメリカ本部の元幹部がその勇気を賞賛しました。
 この会見に対し、“統一教会”のアメリカ人元信者で、40年以上マインドコントロールやカルト研究に取り組む心理学者、スティーブン・ハッサン氏がその勇気を称賛しています。1974年から約2年間“統一教会”の信者で、全米本部の副代表も務めたというハッサン氏。今回の小川さんの会見を見て、「まず初めに、この若い女性を褒めたたえたいと思います。声をあげてくれてありがとう。勇気を出してくれてありがとう」と小川さんをたたえた上で、ハッサン氏はこう続けました。 「私はアメリカでのリーダーでした。文鮮明氏とは直接、個人的に何度も会ったことがあります。この組織は世界中に事業体を持つ、数十億ドル規模の集団です。小川さんが、“統一教会”が税の優遇措置を受けられるかどうかの調査と再評価を求めているのは素晴らしいことです」(“統一教会”元幹部 スティーブン・ハッサン氏) 

(中略)

「日本の人々が“統一教会”に怒り、批判的になっていることを嬉しく思います。世界の人々は霊感商法を知りません(こんなにお金お金と言われて巻き上げられているのは日本だけなんです。7~8割は日本の信者のお金)。いろんなカルト集団の元メンバーや、人間関係をコントロールされた人たちに、もっと声を上げてもらいたい」(ハッサン氏) (「情報ライブ ミヤネ屋」 2022年10月12日放送)
 
 ということですね。非常にこれは、良い方向だと思うんですね。カルト団体の二世信者の声というのは、もうずっとずっと訴えて来て、そしてこうしてやっと世界に明るみになって、聞かれるようになってきた。まあ私たちは、生きていれば誰でも、誰かから攻撃を受けたり、被害を受けたり、圧迫を受けたり、ということは誰でもある程度あるわけですが、特にこのカルト団体の二世の受ける被害というのはすさまじいですね。1世信者もそうなんですけど。金銭的被害だけではなくて、心も家庭も人生もめちゃくちゃにされるということですね。それがようやく明るみに出るようになりました。私も、その声はたまに特集されたり、小さな記事で見かけたりしていたんですけれども、今年の銃撃事件から統一協会との関係が明らかになるまでは、ほとんど読んでなかったし、注目もしていなかったんですね。そういう声をスルーしていたことを私も大変反省をしているわけですが。
 しかしこう、とにかくこう声を上げ続けることが大事ですね。訴え続けるというか、もうもう本当に頭が下がります。というのも日本では、ともすれば黙っていることが美徳のようにされる文化のような面がありますが、黙っていたら何にも改善されないんですね。

 たとえば昔イギリスに、ウィリアム・ウィバーホースという議員さんがいました。この人は、奴隷制度廃止を20年間訴え続けたんですね。20年間しつこくしつこく訴え続けたら、奴隷制度廃止が国会を通ったんですね。

 そんなふうに、声を上げ続けることは大事だと思うんですね。神さまはすべてのことを支配しておられるので(宗教改革者マルティン・ルターの二王国論の律法の支配)、不正や不義や、抑圧や不平等、そういうことを続けておれば、律法が神様によって世界の人のこころの中には刻まれていますから、こんな不正はおかしい、と誰かが気付き始めます。そして必ずどこかで訴える人を通して、世界は良い方向に行くということがあります。こんにちまだ途上ではありますけれども、曲がりなりにも世界で人権が守られ、暴力が1000年前とか100年前に比べても、かつてない少なさになっている、という調査もあります。

 そういうわけで、今日は、不正、というものにしつこくしつこく訴え続けた女性の話です。私はなんだか最初にあげた小川さゆりさんにも重なるような気もしますけれども、私たちはこのたとえ話の中の女性に自分を重ねてみると良いと思うんですね。

 この女性が登場するのは、イエス様のたとえ話の中です。これは弟子たちに語られたイエス様のたとえ話ですけれども、
 
1いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。
 
 とあるように、弟子たちに祈りを教えるために、しかも、「気を落とさないで」「落胆しないで」「疲れないで」「倦みつかれないで」「飽きないで」「勇気を失わないで」などとも訳されますが、祈りをやめないで、祈り続けるために、イエス様はたとえ話を語られたわけです。
 イエス様は、ちょっと漫画的な、コミカルなたとえ話をなさっているんですが、一人の神を畏れない、人を人とも思わない、そういう裁判官が出て来るんですね。
 その町に一人のやもめがいた、と。やもめと言う言葉は、若い人にはもう分からないかもしれないんですね。法的には寡婦などと言ったりしますけれども(寡婦年金など)これはもうよくない言葉で使わない方がよいのは未亡人と言う言葉ですね。夫を亡くした独身の女性ということですね。やもめという古い日本語は、子供がいてもいなくても、配偶者を亡くしたらやもめ、と言ったんですね。配偶者を亡くした男性は男やもめという言い方もありますね。
 ともかく、このイエス様のたとえ話に出て来る女性が、子供がいたかどうかは分かりませんけれども、いずれにせよ一番苦しい立場にいる人の象徴なんです。今でもシングルマザーは大変ですよ。でも、古代になればなるほど、社会保障制度などはほとんど無くなりますので、まさに「頼るものが無い人」の象徴なんです。旧約聖書時代から、「みなしご、やもめ、在留異国人」これらは「社会的弱者」の代表ということでセットで出て来ますね。これらの人々を大切にし、助けなければならない。それが旧約聖書で繰り返し出て来ます。「落穂ひろい」などの作物の落ちた穂をこれらの人々のために残しておく習慣は、古代の福祉政策なわけですね。
 ともかくそういう、何も頼るものが無い。誰も頼る人がいない。多分親戚もいないんでしょうね。本人が裁判官に訴えていますから。夫がいなければ、親戚が出てきて交渉するでしょう。
 このやもめは、財産もおそらくありません。もしくはだまし取られたのかもしれません。金銭か家畜か、土地建物をだまし取られたりしたのでしょう。ここで翻訳は「私を訴える人」となっていますけれども、もともとのことばは「原告」とも「被告」とも取れますので、彼女が訴えられていたわけでもないと思います。もし訴えられていてもスラップ訴訟のようなものでしょうね。とにかく彼女の方に正当性があるものとしてイエス様はたとえ話を進めておられます。
 それでこの裁判官は、相手にしないんですね。相手にしても何も得にならないからです。この当時、裁判官といえば、一説にはユダヤ人の裁判官っていなかったそうですね。ユダヤ人は、長老がさばいた。職業的な裁判官がいるのは、異邦人で、たとえばローマ人なわけですね。で、当時、弟子たちにしろ、この時代の人が裁判官と聞いたらもつイメージがありました。「ぬすっと裁判官」などとも呼ばれ、弟子たちが多分連想した言葉は「わいろ」ですね。「わいろ」。わいろを持ってきた者から裁判をしてやろう、と。わいろを取って、公義を曲げる、おおやけの義ですね。正義を曲げるわけです。ウソの証言や証拠を集めるかどうか分かりませんけれども、わいろをくれた人を勝たせるために裁判をするわけです。「こがねいろの菓子でございます」「おぬしもワルよのう」といった形で、私たちがちょうど時代劇の悪代官を思い浮かべるような感じで、ユダヤ人たちも裁判官と聞いたら、そういうイメージでした。
 そういうイメージの、さらに神を恐れず人を人と思わない裁判官。もう最悪ですよね。でも、この女性は、誰にも頼れない、わいろも贈れない。だけれども、たった一つだけ、武器がありました。しつこさです。何にもないのでやぶれかぶれというか、ある意味で強いですね。
 「裁判官さま。どうかおさばきを」「えーいうるさいうるさい。いね」と追い払っても、家に帰ろうとしたら家までついてくる。家の召使いに、もうこの女にいんでもらえや、とゆうて いんでもろうて、「やれやれ やっと寝れるちや」と寝えて、朝起きたら、窓のところから声がしゆう。「裁判官さま」「うーわ、びっくりした!びっくりした!こんな朝はようから来るやつがおるか!?」ゆうて、こういうやりとりが なんべんも続いてですね、もういいかげん たまらんき、裁判しちゃろうかゆうて、根負けしてついに裁判をしちゃった」ゆう話ですよね。

 6節から8節前半までをもう一度見てみましょうか。

6主は言われた。「不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
7まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。
8あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。
 
 ということで、つまり、こんな、人間の、ひどい、悪代官のような裁判官でさえ、しつこくしつこく訴え続ければ、聞いてくれるのだから、ましてや正しい裁判官である神が、あなたがたの訴え、つまり祈りを聞いてくださらないはずがあろうか、というそういうカルバホメルという話法だそうですけれども、当時のユダヤ教のラビが教えるために使った、小から大へ、という論法なんですね。こんなちっちゃなことさえこうなんだから、ましてや神は、という教え方なんですね。だからあなたがたは、しつこく、うみ疲れることなく、勇気を失うことなく、あきらめずに祈り続けよ、って、考えるわけです。

 ここで私たちは、間違ってはいけないことがあります。何十年か前に、ワードフェイスと呼ばれるものが、プロテスタントの教会の中で、流行ったことがあったようです(特にアメリカでしょうか)。それはですね、しつこく何度も何度も祈りなさい、あなたは何が欲しいですか。車ですか。車種はなんですか。ベンツですか。色まで具体的に指定して何度も何度も祈りなさい。そうすれば必ず主なる神さまは聞いてくださって、その通りにしてくださいます、というものですね。
 これはでもですね、自分の肉の思いというか、自分の欲望をかなえるというですね、そういう方向に行きますので、むしろ私たちは神様のみこころがなるように祈って行く、というのが聖書全体が言っていることなので、ワードフェイスなるものは、適切な解釈からは少しずれがある、ということですね。
 
 では適切な解釈はどうなるでしょうか。この時代のルカの福音書の読者たちを考えてみましょう。この時代、だんだんとローマ帝国の迫害が厳しくなっておりました。そこで、読者たちは、もちろん(小川さゆりさんのような)抑圧されている「個人」にも、このやもめを重ねたかもしれませんけれども(あるいはこの時代は「個人」という考え方がまだ発達していない時代)、教会、迫害されているキリスト教会、という共同体、そのものを、一人のやもめ、として読んだんです。そしてイエス様も、語られた時には、それを想定しておられたことでしょう。迫害にあい、何の後ろ盾もない。そういう寄る辺のない姿、それがまさに、誰にも頼れない、やもめのような、教会だったわけです。
 それで、頼れるものはたった一つ、まさに、正しい裁判官である神だけだったわけです。
 今日は、初めに言いませんでしたけれども、文脈としてはですね、第17章の後半から文脈は切れていなくて、17章からの続きなんですね。第17章の後半では、世の終わり、終末と、再臨のことを弟子たちに語っておられます。イエス様が。ですからその流れで、この第18章も、終末と再臨のことを語っていらっしゃる。ですから、8節後半で、
 
だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
 
 というこのことばの、「人の子」というのはイエス様のことですね。人の子が来る時、というのは再び来る時、という意味に取るのが自然でして、再臨ですね。ですから再臨という文脈で、正しいさばきを神が行なってくださるように、こんなにローマ帝国に抑圧されて、迫害されて、不当に踏みにじられているのに、神さまは正しいさばきをしてくださらないのですか!?と涙ながらに祈る祈りが、キリスト教会の中に、満ちていたわけですね。しかし神は、すみやかに正しいさばきをしてくださる。岩波訳という非常にすぐれた訳と言われる翻訳では「神は速やかに彼らを擁護されるだろう」不当な目に遭っている人たち、私たちを擁護してくださるんですね。

だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
 
 というこのイエス様のことばを、怖いと感じられる方もいらっしゃるでしょうか。一見怖いように見えますね。でも、大丈夫です。一度イエス・キリストの救いを受けた者は、何があっても、決してその救いを失うことはありません。ですから、何かこのみことばなどを使って、たとえば「このしつこく祈り続ける”本物の”信仰が無いクリスチャンは、再臨が来た時に、この地上に取り残されるぞ」とか、そういう脅しをかけたりするメッセージがもしあったら、それは誤りだな、と思っていただいたらいいと思います。
 こういうのはカルト宗教が特によくやる手法ですが、終末や再臨を語って、不安や恐怖をあおったりするということは、異端では無いとされるキリスト教会でも、一部あるようですが、マインドコントロールの手法だとも言えるとも言えるかもしれませんし、聖書全体が言っていることからも、誤りだということがお分かりになると思います。
 
 話をみことばに戻しまして、イエス様は、このみことばで、私たちを脅しておられるわけではない。このやもめのように、苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない人が、必死の思いで神に向かう姿勢そのものを、「信仰」だと、神は呼んでくださる、ということです。
 私たちは時に涙ながらに、神に叫ぶ祈りがそれぞれおありだと思います。今そうしていらっしゃる方も、あるいは、過去にした涙の祈りを思い起こすこともおありかもしれません。その祈りどうだったでしょうか。その通りにかなった方は少ないと思います。願い通りにならなかったというのは、聞かれていなかった、ということではないですね。すべての祈りは神に聞かれています。しかし自動販売機のように、すぐさま、私たちの言うとおりになるわけではありません。たいてい何年かして、30のことを祈ったのに、60、100、それ以上と、はるかにそれを超えてあまりある恵みをそれぞれにお受けになったのではないでしょうか。多くの場合別の形で。そして、神は生きておられて、私たちの祈りを確かに聞いてくださっており、私たちのことを確かに気にかけてくださっているというのは揺るがない事実だということを私たち、皆さんは知っていらっしゃるのではないでしょうか。その状況がなかなか何にも動かない、という時には、本当に神さまは私なんかの祈りを聞いてくださっているのだろうか。などとこういうふうに虚しくなって、うみ疲れてしまいやすいものですね。でも、愛する兄弟姉妹、そこで希望を捨てたり、祈りをやめないようにしようではありませんか。
 たとえば私はですね、涙ながらに必死に、祈り続けたことがあります。数年前まで、何年も何年もしつこくしつこく、涙ながらにですね、それこそ高知クリスチャンセンターの会堂の礼拝室で、誰もいない時に、何度も何度もひざまずいたり、床に頭をこすりつけたりするぐらいに神様に対してひれ伏して、この高知クリスチャンセンターを継続させてください。どうかどうか、って。そして、この会堂を後の世代の信仰者たちに残してください、って、そうやって床に頭こすりつけて、しつこく、しつこく、毎日のように祈ったこともあります。そうしておりますと、その祈りの通りになったでしょうか。なりませんでした。私も知らないうちに、いつの間にか閉所が決まっており、事実上の解散となった。私はいったいどういうことだろうか、と思って、混乱と悲しみの中で、祈って祈って進みましたが、あれよあれよといううちに、礼拝場所を貸してくださる方が見つかり、必要のすべてが不思議と満たされていって、去年のイースターに礼拝復活となったわけですね。そして約1年半伝道が進んでおります。
それから、確かに見た目は、立派な礼拝堂としたものではないし、世間からはみすぼらしい、とみる人もいるかもしれません。しかし、実際は、なんにも不自由ないばかりか、本っ当に伝道がしやすくなったんです。いろんな面で。ネットでの特に動画伝道なども、大きく進展して、今もどんどん伸びて行っています。そうやってみことばが、どんどん全世界に出て行っているわけですね。
 
 聖書の例からも考えてみましょう。神さまにはちゃんとした計画があることが分かります。旧約時代、預言者たちが多くのは、皆祈りました「エルサレムが滅びませんように」「神殿だけは汚されることがありませんように」って涙ながらにしつこくしつこく祈っていました。
 しかしその祈りの通りにはならず、エルサレムはほろびました。神殿も壊されました。
 バビロン捕囚時代がありました。バビロンという大国に奴隷としてとらえ移されたんです。でも神のみわざが進んで行きました。
 バビロン捕囚時代がなかったら、ダビデ王、ソロモン王時代のようなイスラエル黄金時代がいつまでも続いていたならば、福音が遠く異国の地に届くことがなかったと思います。捕囚時代の後に初めて聖書が、外国語であるギリシャ語に訳されました。そして世界の全地の人々にみことばが広がって行った。皮肉にもエルサレムが滅びることによって、みことばが、福音が前進していきました。
 
 ですから私たちは、御国が来ますように、という祈りを、夜昼、いつでも、うみ疲れることなく、していくようにというイエス様の招きをきょう、聞いております。そして私たちは再び、みことばによって勇気を与えられて、祈り続けます。
新約聖書のローマ人への手紙の第8章32節を読んでみましょう。
 
32私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
 
 ということで、ここに、神さまがしつこく祈る祈りを聞いてくださる究極の根拠が語られています。御子というのはイエス・キリストです。イエス・キリストを惜しむことなく死に渡された。これが私たちの祈りを聞いてくださる究極の根拠です。
 
ルカ第18章5節の、
 
5このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、私は疲れ果ててしまう。』」
 
 この「疲れ果ててしまう」ということばは、もともとは、「目の下を殴る」ということばです。ボクシングのことばで目の下にあざができるんですね。やもめの訴えは暴力的なほどだと、ルカは(またイエス様は?)言いたいのかもしれません。でも私たちは、正しい裁判官の目の下を殴るどころか、むしろこのイエス・キリストの犠牲の愛が分からずに、殴りつけていたローマの兵士と同じではありませんか。
 
 まさにかつていは罪のため目は曇りて、そのような神を恐れない者であった私たち、その私たちの罪の罰を身代わりに受けさせるために、あのむごい十字架にイエス様をおかけになる。
 そんなふうに神ご自身のいのちと引き換えに買い戻したいほどに、私たち、皆さんひとりひとりを、神はキリストイエスにあって愛しておられます。皆さんはこの神のすさまじい命がけの十字架の愛によって買い戻され、罪ゆるされ、主イエスの復活によって永遠のいのちが与えられました。天の御国の確かな約束が与えられました。
 
 その天の御国においては、すべての涙はぬぐわれる、悲しみも叫びも苦しみもない、そんな天の御国がみなさんには用意されています。ですから、この希望を胸に、絶えず、勇気を捨てないで、たえまなく祈り続け、私たちの歩み、私たちの旅路そのものが、生きた祈りとなるほどに、祈り続けさせていただこうではありませんか。
 
お祈りをいたします
恵みとあわれみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる御神
あなた様は、私たちの祈りをすべて聞いてくださっています。聞いてくださっていない祈りは、一つたりともありません。
私たちは、すぐに祈った通りにならないと、あなたが聞いてくださっていないものだと誤解し、ともすれば失望して、むなしくなって、祈ることが少なくなってしまうことがあるかもしれません。主よおゆるしください。
あなた様は、イスラエルの民の祈りを聞き、ついに、御子イエス・キリストを、この地上に送って下さいました。そして福音をもたらしてくださいました。
あのむごい十字架での叫びが、私たちの救いとなりました。
どうぞこの、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。というみことばの約束をしっかりと心の板に刻み込んで、この共同の歩みを、この信仰の旅路を、あなただけを頼りにして、絶えず祈りながら、歩んで行くことを得させてください。
尊い主イエス・キリストの御名によって祈り願います。アーメン。
 
#やもめと裁判官
#ルカ18章

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