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カフェ「マートル」のふたり・01

  1. カフェが始まる早朝に

風が向きを変え愛しい人の声を運ぶ。私の名を呼ぶ声は、日の光を受けたクチナシの間をすべらかに駆け、石畳をはねて今、目の前にキラキラと弾んでいる。畑には朝露が満ち、ありがたいことに豊作で、声の主を喜ばせているようだった。
「ナナミン」
「はい。おはようございます」
「へへ、おはよ」一度目を伏せてすぐ戻し、「今日からがんばろな!」優しい声を響かせる。

「そうですね…」
Tシャツからのぞく鎖骨に昨晩のなごりを見つけて思わず冷や汗をかいたためか、問いへの答えがおろそかになった。いけない。私は彼に、いつでもまごころからの答えを捧げたいのだから。
めざとく、あざとく。彼、虎杖悠仁はニコッと歯を見せてから、私の首元へ、そして唇へキスをした。
「ナナミンの首にも、あるから。気をつけてね」
え、と喉がひっくり返るのを飲み込んだ。咳払いひとつで落ち着くだろうか。
「…それはそれは。そうですね……」
私は彼を前にしていつもこの調子であり、気の利いたことを言えなくなってから久しいように思う。奪われた。私は多くをこの彼に、そう、付け焼き刃の言葉などは全て。

「お客さん、どのくらい来てくれるかな」
「…我々ふたりでちょうどさばける程に、来てもらえるといいんですけどね」
ルバーブとレタスを採りながら、彼は鼻歌を歌い出す。私の方も、珍しくスニーカーを履いた足元にたわむれる大葉を集めていく。大葉とレタスは前菜に。ルバーブはデザートに。ふたりで育てたものを、ふたりのカフェで。ただそれだけの日々をはじめていく今日この日に、美しい朝を持てたことに、感謝ばかりをするだけだ。

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