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自分の形

元々このブロクは昔、35〜40年くらい前に自己探究を目的に瞑想していたときに聞こえた声「あなたは、誰ですか?」について意味を考えるところから始まっています。
その頃、深くその言葉の意味を考えていくうちに、「自分は、出家して探究に専念することになる」という予感がしたために、家族に対する責任を感じてその時点では瞑想をやめることにしました。
最近は、昔と違って良い指導書や、真面目な「瞑想センター」とかあってそういった探究には便利なようです。20年くらい前から、米国での脳神経科学、進化心理学の研究と、ミャンマーなどのゴータマ・ブッダの原始仏教との共同作業で、面白い結果が色々、著作物になっています。
前置きが長くなりましたが、歳もとって「もう許されるだろう」と2年ぐらい前から瞑想を再開しました。解脱して阿羅漢になるなどは無限の先の話で展望の外です。瞑想は宗教行為ではなく、単に心を覗き心を整えてくれる行為と感じています。
試みている方は既にご存知と思いますが、座って目を瞑ると、最初の内はすぐに眠くなって続かないのですが、なれてくると、目の前の空間に色々な「思い」が飛び交います。子どもが何人か校庭で走り回っている感じです。特に、何か「期待される面白いアイディアを思いついた時」はその子ばっかりが大声で騒ぎます。仕事で嫌な思いがあって怒りが残っている場合も「どうやってうっぷんをはらそうか」とその子が大騒ぎしています。30分も何が起こるのか観察していると、その内みんな居なくなりますが、思いの強い子が最後まで残っています。
思えば、犬の散歩とか、朝起きたときに、よく言えばアイディア、悪く言えば何かこだわりのネタが降ってくることがありますが、心の中の思いの強い子は、瞑想していなくても自分の心の中にそんな風に割り込んでくるのだと、最近は思います。つまり、「何かすごいアイディアが天から授かる」訳ではなく、自分の心の中にいる「悪ガキ」が隙間を見つけて割り込んできているのかもしれないと、最近思い始めました。
大昔、中学生の頃だともいますが、夜手紙とか何か人に伝えるつもりで文章を書く、翌朝読むと「こんなものだちしゃまずいでしょ」と気づく事があり、「手紙は一晩すぎてから読み直して出す」というルールを自分に課した事があります。それは今でも同じですが、電子メールは直ぐに発信できるので、「しまった!」ことは何度かあります。
ここで、言いたいことは、夜のしんみり考えているときには心の中のそう言った「悪ガキ」が心を占拠している事があるのだと、今思います。
瞑想しているときに、心の校庭を走り回っている子どもたちを見ているのは多分本当の自分なのでしょうが、「悪ガキ」が心を占拠したとしても、外から見れば自分の行為です。
「何が、自分なのか?」そう思うと、毎日、心を整えて、「悪ガキ」を檻に入れておかないと、自分ではないかもしれない自分が、自分を乗っ取っているかも、、、
「ガキ」の中には、「良いガキ」も居て、冒頭に書いた、自分の頭から聞こえた声は、「良いガキ」の声だったのでしょう。自分の心の部分からの声と考えるのが合理的な答えだと思いました。
それにしても、「自分」の実態とはどれ?何?何処?なのでしょうか?

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