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しにたいわたしにつけるくすり。

うどん食べながら「死にたい時っていくらまでお金使っていいんだろう…」と財布の中身を気にしている。
自炊もできなくなって久しいので、はなまるうどんの温玉ぶっかけに生かされていると思う。

欲を言えばとり天は常備しておいてほしい。

それはさておき。

油断すると「死にたい」がちらつく今日この頃。

こんな感じでメンタルが落ちたのは初めてじゃない。

適応障害の診断書が出た時とか。
内定報告したら親にディスられた時とか。
アラートあげてもスルーされた時とか。
多分思い出したらまだ色々ある。

一度蓋が開いてしまったら、もう全方位ダメで。

SNSで幸せそうな人を探しては
自分の至らなさを自分に突きつける。
聴覚も嗅覚も過敏になって攻撃してくる。

こういうとき、周りに配慮なんてできない。
抱え込んでいた暴言や愚痴が腕からボロボロとこぼれ落ちて、それまで積み上げた自分の価値もボロボロ崩れてしまう気がする。
そうなったら体調不良を理由に会社を休み、その罪悪感でコーティングして立ち上がるのを待つしかない。

こんな生活、生きていたいなんて思えない。

昔その気持ちを素直に相談したカウンセラーには「君は恵まれている、世の中にはもっとお金がなくて食べるものもなくて生活がままならなくて苦しんでいる人がいる」とか言われた。
友人には「分かるー。最近さぁ…」と話題を持ってかれた。友人の話は自慢話だった。

そういえば「君はいつもそうやって被害者ぶってるんだね」とも言われたことがある。

幼少期にいじめられたとき、「やられる方にも原因がある」と言ったのは誰だっただろう。私はあの頃から一歩も動けていないのではないだろうか。あの時、私は「明確に伝える技術がないからこんなこと言われるんだ」と思った。それをきっかけに被害を伝える言葉が発達することは、私の被害者意識の強化と同義だったのかもしれない。それだけではない。いじめられた自分を励ますつもりだったのかもしれない、誰かの「みんな羨ましいんだよ。魅力がある人は目立っちゃうからしょうがないんだよ」は、目立ちがちな自分への自己否定につながった。

よく通る声も、細長い背格好も、メイク映えする目鼻立ちも、頭の回転の速さも、全部嫌いなものにリストアップされる。

今になってみれば「モデル目指しときゃよかったのに」とか思うけど、コンプレックスを活かすなんて当時の私にはできない…っていうか今もできない。

そんなこんなで。

私のベースには「生きていてはいけない」があって、それをいろんな方法で隠しているのだろう。だからその色々が剥がれるとボロが出る。
その色々は、世間的には「鎧」とかいうやつなんだろう。よく脱ぎなさいって言われるやつだ。
ドラマだと、剥がれたらモテる。愛される。現実がそうだった試しがない。辛さをぶつけたところで抱きしめてくれるイケメンなどいない。

そんな私につける薬。

少し先の楽しみのために、今読んでる本の続きを買った。
ポテトチップスと、チョコモナカジャンボも追加した。

小説とポテチとアイス。これって私が子どものころから好きだったものな気がする。三種の神器と言っても過言ではない。「生きていてはいけない」と感じた、あの時の自分にとっての栄養源なのかもしれない。…と、書きながら思った。

しっかり食べて、少しでも「生きてていいんだ」って思ってくれたらいい。
普段いろんなもので蓋をして、見えない場所に閉じ込めてしまった自分に光が当たるなら、この時間も必要なのかもしれない。

痛かった、苦しかった、辛かった。
次々に浮かんでくる言葉をしっかり受け止めるのが、今の私に求められていることなら、しっかり時間をかけていきたい。

ああでも欲を言えば、私のついた悪態の数々は明日にはみんな忘れてますように。

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