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私家版・プロ野球ユニフォーム史 2004-2020  Vol.12

【大阪近鉄バファローズ】

・ホーム(1997~2004)

①近鉄ホーム2004

 1997年、藤井寺球場から大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)へ本拠地を移転した近鉄バファローズはユニフォームを一新。デザイナーはコシノヒロコ。白地に真紅のBuffaloesのロゴと水色の胸番号が美しいコントラストを描き、肩には太い黒のラインを入れることで引き締まった印象となった。背番号は赤、背ネームは水色と正面とは反対のカラーリングに。お世辞にもスマートとは言いがたい「いてまえ打線」だったが、1990年代後半から2000年代前半にかけてはイメージとは正反対の洗練されたデザインであったといえる。このユニフォームを着用して大阪ドームの上段スタンドへガンガンとホームランを叩き込む中村紀洋やタフィ・ローズが強烈なインパクトを与えたが、なんといっても2001年に北川博敏が放った「逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン」がとどめとなるであろう。

 2004年、オリックス・ブルーウェーブとの合併に端を発し、球界全体を巻き込む大きな問題に発展。当時の選手会長・礒部公一は、このユニフォームとスーツを往来する激動の日々を過ごした。礒部本人がたびたび口にするように、「復刻企画などで幾度かあのユニフォームを目にすることもあるが、僕の中で大阪近鉄バファローズはすでに幕を閉じている」という想いは痛いほど理解できる。もちろん、現在も引き続きBsを応援し続けるファンも多数いるわけで、このユニフォームを見るたびに複雑な感情が交錯することは否定できない。

・ビジター(1999〜2004)

 1997年の大阪ドーム移転のタイミングでビジターユニフォームも変更となった。当初のデザインは真紅に染められた、非常に派手なもの。しかし「社会人野球のユニフォームに見えてしまう」と監督や選手たちからの変更の要望が強く、開幕直前に紺色のデザインも追加されることになった。こちらはホームと同じ赤いKintetsuのロゴと背番号。赤と紺色のユニフォームは曜日ごとに使い分ける方針であったが、2000年からは紺色のみに統一されることになった。

①近鉄ビジター2004

 1999年、球団名が「大阪近鉄バファローズ」へ変更されると、KintetsuのロゴはOsakaに。「大阪の球団は近鉄」という、関西=阪神タイガースという文化への痛烈なアンチテーゼともいえるデザインがここに完成となった。ノーガードでの打ち合いならホークスやファイターズに負けない、当時のパ・リーグらしい試合のイメージが強く残ったユニフォームである。

 2004年9月27日、球団最後の公式戦が行われたYahoo!BBスタジアム(現・ほっともっとフィールド神戸)は、このビジターユニフォームとも別れの場となった。試合前日、当時の監督・梨田昌孝が選手たちに向けて残した言葉が忘れられない。

「みんな、胸を張ってプレーしろ。お前たちがつけている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」


【オリックス・ブルーウェーブ】

・ホーム(2001〜2004)

 イチローがMLBへ旅立った翌年、ブルーウェーブのユニフォームにはホーム・ビジターともにマイナーチェンジが施された。14年間のブルーウェーブの歴史の中で登場したユニフォームは、ホーム・ビジターともに2種類のみ。ここでも歴史は「イチロー以前」「イチロー後」で区切られることになる。

②BWホーム2004

 2001年からのホームユニフォームは、これまでの襟と袖口についていた青と黄色の太いラインが外され、代わりに青のラケットラインと袖の細いラインを加えたものだった。また背番号も斜体のようなフォントも変更された。

 このユニフォームを着用して谷佳知が孤軍奮闘していたものの、仰木彬監督の退任や田口壮のMLB行きなどの後はチーム力の低下は否めず、Bクラスから浮上できない日々を過ごすことになる。バファローズ同様、ブルーウェーブとして最後の公式戦となった2004年9月27日にこのユニフォームと別れを告げることになる。試合後にセレモニーは行われなかったが、バファローズの梨田昌孝監督を胴上げする輪の中に、ブルーウェーブのユニフォームをまとった元同僚・吉井理人の姿があったのは印象的だった。


・ビジター(2001〜2004)

②BWビジター2004

 2001年から使用していたビジターユニフォームは、これまでのデザインから襟と袖口についていた青と黄色の太いラインが外されるというホームと同じ変更があり、ネイビー単色となった。胸のORIXのロゴは変わらない。背番号はホームと同じ斜体のフォントに。

 このユニフォームを着た具臺晟、金田政彦、川越英隆らが、大久保勝信や山口和男といったクローザーにつなげるため必死に投げ続けたが、低調な打線はいかんともしがたく3年連続最下位の結果をもってブルーウェーブの歴史の幕を閉じることになる。

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