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【湖底式古典】第1回 今昔物語集巻24第33話 公任大納言読屏風和歌語

まだ見てないんだけど、今週の『光る君へ』はタイミングと「屏風」って道長くんの声でチラッと聞こえてきたことからしてこの話が出てきたところっぽいので、せっかくだから初回のテキストはこれにしようっと。

メンバーシップ自習ん喫茶湖底の湖底式古典では、気ままにテキストを選んでだいたいいつもぼくが生徒さんに授業してるかんじに噛み砕き方を案内していきます。

とりあえず流れは以下のかんじ。


本文(舞台設定確認)

今昔、一条院の天皇の御時に、上東門院、始めて内に参らせ給ひけるに、

今昔物語集巻24第33話

できるだけ最序盤で登場人物と用語と状況はしっかり把握しよう。ここがちゃんとわかって古文常識もだんだん身についてくると、話の予測がたつようになってだんぜん早いからね。もちろん先走った予断はよくないけど。

登場人物

まずこの時点で「一条院」「上東門院」という人物が出てくる。

『光る君へ』や平安文学を知っている人なら一条天皇はめちゃくちゃよく出てくる頻出人物なのがわかるとおもう。この話の時代における今上帝だ。そして「上東門院」も平安文学への影響力が強いのでわりと出てくる。藤原道長の長女として一条帝の后となる彰子(しょうし)のことだ。

そして次のメイントピックを示す段では主役の「公任の大納言」が現れる。藤原公任(ふじわらのきんとう)と読む。道長の同輩であるこの貴公子は神話級の才人でなんでもでき、芸能教養ものの逸話にすごい頻出するから覚えておいて損はない。『光る君へ』では顔までものすごい美しい。

古文常識「院」「入内」

ここだけですでに重要な古文常識がいっぱい出てきている。まず「院」という言葉は非常に頻出でニュアンスがわかっていたほうがよい。院とは退位した天皇をさす言葉で「上皇」とニアイコール。もし現在の上皇陛下であれば「平成院」とでもいうように、今上帝と区別する呼び名+院でお呼びする(今は言わないけど)。この物語が書かれたのは一条帝が退位した以後だったっていうか、おおむねだいぶあとのタイミングで逸話って書かれるものだから院って書いてあってもその時点では帝かもだからきをつけてね。同様に上東門院の「門院」「院」も退位した帝の后や姫のうち上皇に准ずるレベルに特別敬われるべきひとに贈られる称号だ。これを「女院(にょいん)」さまと呼ぶ。女院さまは『光る君へ』のあきこ姉がそうであるように、退位し亡くなった帝の后であることが多いので多くは出家の身であられる。

「内に参らせ給ひ」など、貴族の女性がなんかボンヤリした場所に「参る」と言っていたらそれは「入内(じゅだい)」をさしている。これは現代には無い概念で、「天皇の妃のひとりとして内裏の後宮へ鳴り物入りで嫁入りする」こと。単なる女官として宮中に入るのとは異なるバチバチ武装の夜露死苦で、名家の威信をかけた政争のヘッズになることだ。この場面は道長の娘という摂関政治のド真ん中の殴り込みを完璧にするための準備が行われている折のおはなし。


本文(トピック)

御屏風を新く為させ給て、色紙に書かむ料に、歌読共に仰せ給て、「歌読て奉れ」と有けるに、四月に藤の花のおもしろく栄(さき)たる家を絵に書たりける帖を、公任の大納言当て、読み給けるが、既に其の日に成て、人々の歌は皆持参たりけるに、此の大納言の遅く参り給ければ、使を以て、遅き由を関白殿より度々遣しけるに、

今昔物語集巻24第33話

舞台設定が頭に描けたらつぎはこの話が何メインの話なのか、どこにヤマオチがありそうかだ。

道長(関白殿)は娘の入内を究極飾り立てるために絵と歌を入れた屏風を新調している。政界でも評判の歌人たちに歌を寄稿してくれるよう依頼。スーパー才歌人(さいかじん)である公任にも当然春のみごとな藤が描かれたいいスペースを割り当てて待ってるのだが、これがすげー遅い。使いを出して急かす。

ただ、屏風というのはどれだけ美しくてもあくまで生活の建具であって純然たる芸術品というわけではないから、それに書く歌をつくるのは高貴なことではなく「職人」のものづくりの印象が濃い。道長は政界の要職にあるような貴族たちに屏風歌を書かせることで、自分や自分の娘は上級貴族にさえ下民のやる仕事をさせてしまえるような存在なのだと宮中に圧をかけているようなものだ。当然困惑や反発をした貴族も多く、公任もまた反感をおぼえたのかもしれない。

急かし焦り、異例の権力の頂に立っても公任の才の前には降参でお願いしちゃう道長の姿と、公任が世の人の注目を集めている歌の寄稿を焦らしている意味はなんなのかがこの話のトピックになることが、このへんでわかる。


本文(展開)

以降の本文はこう。現代語で展開をざっくり説明できるようにしながら読む。古文や英文を読むときは音読し、ゆっくり音読するくらいの速度で大まかな意味をとれるようにトレーニングしていくといいね。

行成(ゆきなり)大納言は此の和歌を書くべき人にて、疾く参て、御屏風を給はりて、書くべき由申し給ければ、弥よ立居待たせ給ける程に、大納言、参り給へれば、「歌読共のはかばかしく歌も読み出でぬに、然りとも此の大納言の歌は、よも弊(わろ)き様は非じ」と、皆人も心悪がり思たりけるに、御前に参るや遅きと、殿、「何(いか)に歌は遅きぞ」と仰せられければ、大納言、「はかばかしくも、更に否(え)仕り得ず。弊くて奉たらむに、奉らぬには劣たる事也。其の中にも歌読共のいと勝れたる歌共も候はざめり。其の歌共召されて、はかばかしくも非ぬが、書かれて候はむ。公任が永くの名に候ふべし」と。

今昔物語集巻24第33話

行成(藤原行成。字がめちゃくちゃ美しい和様書道の完成者)がこの屏風の歌を清書する人なので早く来て「いつでも書きます!」て待ってるもんだから、道長はいてもたってもいられずオワ〜!て待ってる。やっと公任が来て、居並ぶ貴族たちは「みんなたいしていい歌出せなかったけど公任にかぎってそういうことはないだろ……」と期待ガン見。

道長が飛んでって「なっなんだよ〜歌遅いじゃないかよ〜!」と言ったら、公任は「なんか調子悪くてェ〜やっつけの歌提出するくらいなら出さない方がマシでしょう。今見た感じ、名だたる歌人の方々の? そうそうたる名歌的な? 書いてないみたいだし……素晴らしい歌が採用されてないのに私の調子悪い歌が書かれたりなんかしたら悪い評判が長く残っちゃうし」とかなんとか京風のいけずを連発して固辞。

極く遁れ申し給けれども、殿、「異人の歌は無くても有なむ。其の御歌無くば、惣て色紙形を書かるまじき也」と、まめやかに責め申し給ひければ、大納言、「極く候ふ態かな。此の度は、凡そ誰も誰も歌否読出ぬ度にこそ候めれ。中にも永任をこそ。然りとも、其の歌は心悪く思給へ候つるに、此く「きしのめやなへ」と読て候へば、糸異様に候ふ。然れば、此等だに此く読損(よみそこな)ひ候へば、増て公任は否読み得ず候も理わりなれば、尚免し給ふべき也」と。

今昔物語集巻24第33話

道長が「他の人達の歌は別にいいんだよ、おまえの歌がないとこの屏風は完成しないの」とマジマジに頼むも、公任は他の人の歌にケチをつけるなどして自分が提出できないのもしゃあなし許せと逃げる。

様々に遁れ申し給へども、殿、強に切(しき)りに切て責させ給へば、大納言、極く思ひ煩て、大に歎打して、「此れは長き名かな」と打云て、懐より陸奥紙に書たる歌を取出て、殿に奉り給へば、殿、此れを取て、御前に披て置給ふに、御子の左大臣宇治殿・同二条大臣殿より始めて、若干の上達部・殿上人、「然れども、此の大納言は天下に故無くは読給はじ」と心悪く思て、除目の大間、殿上に披たる様に、皆人、押ひらひて見騒ぐに、殿、音を高くして読上給ふを聞けば、

  むらさきのくもとぞみゆるふぢの花いかなるやどのしるしなるらむ

と。

今昔物語集巻24第33話

あの手この手で逃げるも、道長がどうしてもどうしても〜!と頼むので、ついに公任はすごい悩み渋りクソデカため息をついて「ハーこれ絶対長く悪い評判が残るやつです……」と聞こえよがしにつぶやきながら、懐から取り出した歌をついに提出! その場のお歴々、みんな「いうてこの公任どのがどうしようもない歌なんて読むはずないし……!」と興味しんしん。まるで除目(官職の異動発表)の掲示を見るかのように大騒ぎで覗き込む。そこで道長が高らかに読み上げた歌が、

(きわめてめでたいことの予兆である)紫の雲かとみまごうほどのみごとな藤の花。この家(藤原道長の家系)にとってのどんな吉兆であることでしょうか。

的な祝福の意味がたいへん典雅に詠み込まれたもの。

若干の人、皆、此れを聞て、胸を扣て「極じ」と讃め喤(ののしり)けり。大納言も、人々の皆「極じ」と思たる気色を見てなむ、「今ぞ胸は落居る」とぞ、殿に申し給へる。
此の大納言は、万の事皆止事(やむごと)無かりける中にも、和歌読む事を自も常に自歎し給けりとなむ語り伝へたるとや。

今昔物語集巻24第33話

居合わせた大勢の人々はも〜胸を叩いて大絶賛フゥ〜! 公任はそれをもって「ようやく安心いたしました♪」と道長に言ったとさ。

公任は万事において優れていた中でも、和歌については自分でも常にプライドをもっていたと伝わっている。


読解のヤマ

問題の足場となる読解ポイントは以下のような部分だと考えられる。

権力と芸能の関係

前提知識として、藤原公任は生まれもよく万事に優れたスーパー才歌人ではあるが父親が道長の父親の強引さに競り負け出世レース先頭争いからは外れた名家の貴公子だ。だからこそ権力者としてではなくハイセンスなイケメンとして後世にも人気が伝わっているところがある(在原業平とかもそう)。

そんな権力的にはそこそこでしかない公任にこの話では「あの」権力の擬人化のようなイメージをもたれる藤原道長が切々と何度も頭を下げまくる。

力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり

紀貫之 古今和歌集仮名序

と言われるように、芸能の力はしばしば政治に利用されるが、同時に政治権力をも超越するものだ。芸道を志す者はそれによって身を助け、賢くあれば権力に意のままにされない気高い独立性をもつことができる。手本とすべき生き方であると、多くの説話のテーマにもなっている。その例のひとつがこの話での公任である。


公任の自己プロデュースと迷惑さ

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