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『光る君へ』1話こぼれ感想―逃げる籠の鳥

本ブログの上の記事には煩雑になるし書かなかったこぼれ感想。「籠の鳥を逃がす」ことについて。
記事画像は肉食のモズなのでまひろが逃がした鳥と違うもっとこう強いっていうか怖い印象のある鳥だけど モズのはやにえとかの。(三郎の従者の「百舌彦」って不穏な名前だよね)

雀の子を犬君が逃がしつる

「小鳥を逃がしてしまった」っつって幼女のヒロインと年上の貴公子が出会うっていうのは、高校の古文でもよく習う『源氏物語』で二番目に有名なくだり(一番目は『桐壺』冒頭の光る君の誕生)、かつ『あさきゆめみし』だと光る君が死の間際に思い出す2ページ見開きの泣けるシーンで絵や映像になる際には必ず印象的に描かれる、ある意味『源氏物語』でいちばんエモでキャッチーなシーンを引いていてガッチリつかんできますよね。
しかもそういう激烈有名シーンのわりに「わかる人はわかるんだよね(ニヤリ)」みたいなオタク心を刺激するとこもあり、そういうのがいちばんSNSとか感想記事で言及されやすいし軽やかにバズりやすいんだよね〜 そういうとこがうまいよなあ。

というのはつかみがうまいネの大前提として置いといて、そういう目を引くシーンの周りに込められているようすのテーマ表現についていろいろ。

外では生きられない

まひろは小鳥を飼っており、鳥のえさも満足にあげられないような家の経済状況なので「外には鳥が食べられるものがたくさんあるのに」「外で自由に飛べた方がこの子にとっては幸せなのかも」と考えます。それに対して母は「一度人に飼われた鳥は二度と外の世界では生きられないから、最後まで面倒を見るの」と教えました。

母が言うことは正しいですね。
そしてここのシーンには「動物を飼ううえでのルール」だけでない意味が入っています。

母がこのセリフを言うことには哀愁があります。母は稼ぎもまともにねえのに献身的な母を置いてほかの女のところに通う父をおとなしく待ち、それに純粋に疑問を呈すまひろに「まひろも大人になればわかるわ」と言います。この回答は、慈しみと悲しみが混じった母の顔からして、
「まひろも大人になればそれが仕方のないことなどのだとわからせられ、諦めることになるわ。母にも本当は答えがわからなくて苦しいけれど、男と女とはそういうもののようなの。大人はみんなその苦しみをのみこんで生きているのよ」
という、受け継がれてきた挫折の答えです。『少女革命ウテナ』ふうに言うなら「薔薇の花嫁」、まひろが挑んでいくのであろう「世界の果て」です。

つまり「飼われた小鳥はもう外の世界では生きられない」と母の口から言われるのは「貴族の妻になってしまった女(籠に捕まった鳥)は、世界の果てから出ていって生きる力を失ってしまう」という意味が重なっており、「だから最後まで責任をもって飼わなければならない」というのは「男の妻になった女は男を待つしかできなくさせられているのだから、最後まで責任をもって大切にしなければならない、そうであってほしい」という願いもこもった、自身に言い聞かせるような言葉です。しかし、父を含む多くの男はそうではない。
「いい男は責任を取って恋人みんなを幸せにしようとするべきでしょ」というのも「とはいえ、男が通ってくるのを待ち続けるだけの依存的な女の人生というのはなんともつらい業」というのも、『源氏物語』の特徴的なテーマです。つまりそれが紫式部の思想であり、まひろの人生のテーマとなっていくはずです。

「なぐさみ」の罪

本ブログのほうの記事ではまひろの「そらごと」の罪について書きましたが、もうひとつの罪の話。

小鳥が逃げてしまい、そのままでは小鳥が生きていけないと母から教わったまひろはひとりで屋敷を出るという大冒険をして小鳥を探します。そこで三郎と出会い、事情を話すと、「鳥を籠になど入れて飼うからいけないんじゃないのか?」みたいに言われます。

こいつは正論だぜ。現代でも人間が愛玩目的で動物を飼うことの倫理的な是非については議論が続いているし、確かに三郎のように一歩引いて客観的に考えると命を愛玩することって非合理だもんな。

今回話題となった超有名な「雀の子を犬君が逃がしつる」シーンの直後には、幼女の祖母がこのように幼女を注意しています。

「いで、あな幼や。言ふかひなうものし給ふかな。おのが、かく、今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひ給ふほどよ。罪得ることぞと、常に聞こゆるを、心憂く」
(まあ、なんと子供っぽい。言っても聞かない子ですね。祖母がこのように老い今日にも明日にも死んでしまうかもしれないと思われる命であるのをなんとも思わず、雀になど執心して。生き物をもてあそぶことは罪になるといつも教えていますのに、嘆かわしいこと)

鳥を籠に入れて可愛がることは、命を弄び人間の身勝手で鳥の自由と生きていく力を奪う罪でもあります。もちろん、それは「女を妻として男に依存した生き方にさせることは罪でもある」ということと対応しています。
しかし、そこにはさらにもうひとつ意味が重なって見えます。鳥をかわいがっていたのは男である父ではなく、女である母やまひろです。『源氏物語』でも箱入りで自我が弱い女三宮がネコチャンをかわいがっているという設定があります。「籠の鳥」である女性たちも、出ていけない境遇の中でのせめてもの慰めとして空想物語をし、口さがない噂話をし、自分よりさらに小さな生き物を愛玩するのです。

そこには、父という自分の運命を左右する強者に評価されないことに対する苛立ちを自分より弱い者にぶつけて当然と思う、実は他人軸で依存的な性格のせいで幸せになれない道兼と同じ、運命の呪縛と苦しみの連鎖性があります。誰もが自分よりも弱いものを弄び、自分より強いものの手の中の小鳥のように運命を握られて生きる、それが人の世というものなのか?――という問いに、「そうとも限らないのでは?」と三郎がヒントを示してくれるなら、いいなとおもうんだけど。

籠の外の輝きへ

もうひとつのポイントは、「鳥が逃げたことでまひろと三郎は出会い、空想の遊びを楽しんだ」ということです。

ここまでみてきたことから考えると「飼っていた鳥が逃げる」ことは鳥の命を失わせる、悲しく罪深いことです。しかしその先でふたりは出会った。
実際まひろが一人で河原なんかにポテポテ歩いてくるのは場合によっては命の危険すらある危ない行為です。でも、鳥が外に出たことでまひろも外に出て、魂を空想にはばたかせた。つまりこのドラマでまひろが求めていくであろう魂の自由とは命の危険をともなう、一瞬で終わるかもしれない、やぶれかぶれであてもない挑戦なのです。

安らけき寿(ことぶき)を捨て
あてもなき約束を待つ
安らけき寿を捨て
あてもなき愛に殉ずる
偽りに満ちた花飾りを捨て
身を包むものは禊(みそぎ)の川水
安らけき寿を捨て
あてもなき愛に殉ずる

中島みゆき『安らけき寿を捨て』(2008年)

中島みゆきのぼくの好きな歌です。
鳥籠という「世界の果て」から出ようとするのなら、確かに結婚する夫が相手役なのではなく、結婚とか愛人関係とかにスッポリとおさまらない、いまいち名前のない複雑なコンビ関係である道長がヒーロー格なのがいいんだろうなっておもう。

二話もたのしみだ〜

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