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幸せの貯金

今朝、とても幸せな夢をみた。自宅にいる母を世話している夢。
何人かの人たちと元気そうに2階から降りてきて、私は「2階は騒がしいから、1階の窓のある部屋で休んでいて」と母に寄り添って案内する。
「朝は何が食べたい?」と聞くと「ジャム」と母が答える。
「ジャムが食べたいの?ジャムでいいの?」と聞き返している。
自宅はほんとうの自宅よりも少し広い。何より、寄り添った母のぬくもりをはっきり感じることができた。
それは、ほんとうに幸せな光景だった。

母が亡くなってもうすぐ3年になる。この3年、私は何種類かの仕事をこなし、日々、目まぐるしく変化していたので、あっという間のような、しかし妙にゆっくり過ぎたような気もする不思議な3年間だった。
ひとつはっきりとしていることは、母が亡くなる前と亡くなってから、生活が全く変わったことだ。母がいるときは、母の食べたいものを、心を尽くして用意し、美味しいと言ってもらうことが幸せだった。母がいなくなってからは、毎日、花をかざり、コーヒーを入れて、手をあわせることがルーティンになっている。

今日見た、とても幸せな夢は、まさに、母がいたときの、幸せな私の日常だったのだ。
幸せは特別な何かではなく、日常の何気ない毎日にこそある。それは当時から、感じていたことだった。いつまでもこの幸せが続きますように、といつもお祈りしていた。それくらい、幸せだったということだ。

今は毎日、仕事に振り回され、夕方になると脳がヘトヘトだ。それにもかかわらず、なぜか幸せな気持ちと「なんとかなる」という能天気さが止まらない。
それはきっと、母が生きていたときの、日常の幸せがたっぷり貯金されているからではないだろうか。とても幸せな夢は、その利子なのかもしれない。
脳がヘトヘトになっていても、幸せ貯金の元本は減っておらず、利子がついているのだ。
愛する気持ち、愛する人がいたということは、それだけ、人を幸せにするということなのかもしれない。

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