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誰でもない誰かの見る景色
綾野剛さんのどこが好きか、と聞かれたら。
聞かれたとたん、からだの中にいろいろな思いが渦巻いて、でも、それをいったんおさえてから、「声とか、佇まいとか、眼差しとか、言葉とか、真摯に努力する姿勢とか、優しさとか…」、そんなことを答えて結局収拾つかない感じになると思います。
好きだということはあまりにも自明なのに、どこが好きか、と考え始めると、雲をつかむように心もとない感じになってしまう。
舞台挨拶や授賞式など、綾野さん御本人を目の当たりにする機会があります。
「目の前にいるのに実在感がない」
「見ているとなぜか泣きたいような気持になる」
何度拝見する機会があってもそのたびに同じことを思うのが不思議といえば不思議で。そしてその理由も解明できず…。
「好きに理由なんてない」でいいのかもしれないけれど、きちんと言葉にしてみたいと、ずっと思っていました。役者論でも批評でもなく。綾野さんのことを分析するのではなく、言うなればわたしの中の「好き」を分析する、という、ごくごく個人的な話です。
(引用中一部敬称略)
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物語の予感と悲しみ
「彼がそこにいるだけで、物語を予感させるんです。この人はこれまでどういうふうに生きてきてここにいるんだろう。彼はその後どうなるんだろう、って」(中村文則、「SWITCHインタビュー達人達」2014年5月4日放送)
綾野さんについて語られた中でわたしがいちばん好きなことばです。
登場シーンが限られても、台詞がわずかでも、15秒のコマーシャルでも、観るものに強い印象を残す。
わたしが好きな役が、「るろうに剣心」の外印、「ソレダケ/that’s it」の千手完、「天空の蜂」の雑賀勲、そして「クレオパトラな女たち」の黒崎裕…というあたりなので、とくにそう思うのかもしれませんが、この“物語の予感”というのは、綾野さんの大きな特質だと思います。
あるいは、“悲しみ”。これも、いまさら言うまでもない、綾野さんの持つ特質の1つであり、これまでも、それが活きるキャスティングが多くありました。
「綾野くんは笑顔が悲しい、何か悲しみを背負っている。/ハハッと笑いながら、どこか切ない」(熊切和哉、キネマ旬報2013年8月上旬号)
ところが近年は、その特質がほとんど表出しない作品も出てきています。特質を感受しない作り手がもったいない使い方をするのではなくて、感受していてもあえて新しい面を拓くような。役柄がそうだから、というのもあるけれど、綾野さん自身の変化であるようにも思われる。
わたしは、役にかかわらず、その“物語の予感”と“悲しみ”という特質が滲み出すことに魅力を感じてしまうのですが、それって、なんというか暴力的なファンだ…と思います。作品全体のバランスより、良し悪しより何より、特質が活きることを望んでしまう。だから、ファンをしている中でいつもどこか綾野さんに対して後ろめたい思いがあります。
過去と未来がそこにいる
綾野さんには、努力する姿勢とか人へのやさしさとか、とても自分には辿りつけないなぁと思うたくさんの素晴らしさがあって、ものすごく尊敬しています。憧れです。
それなのに、綾野さんを見ていると、なぜか、自分を、それも過去の泣いている自分を見るような、そんな気持にもなるのです。
これだけ尊敬する人に自分などを重ねて見ているとも思えず、よく言われがちな「母性本能をくすぐられる」という表現よりも、もっと生々しく切実な感触です。それは、わたし個人に限ったものではなく、“人間の存在の悲しみ”のような大きなものと通じているのではないか。だからこそこれだけ多くの人が彼に魅せられるのではないか。
しかし、そんな“悲しみ”を感じさせながらも綾野さんは、ひとつひとつの目標を達成していき、良い仕事を残し、人に愛されていきます。綾野さんが幸せそうにしていると、他人の幸せなのにどうして、と思うほど幸せな気持ちになる。それは、もうひとりの自分が、叶えられなかった人生を歩んでいるのを見ている心地なのかもしれません。
綾野さんを通して、自分自身が、過去と未来を生きているような錯覚をするのです。
厳しさと孤独
綾野さんが芝居という本業のお仕事をしているところを目の当たりにした時に感じたのは、“厳しさ”と“孤独”でした。それは、初めて映画を通して綾野さんを知り、その後インタビュー記事などを読んで抱いた印象と同じものだったので、すごくうれしくて、ほっとして、そして切なかった。
その“厳しさ”と“孤独”は、テレビ画面を通しても、たとえば「SWITCHインタビュー達人達」中の原田保を生きる綾野さんや、「情熱大陸(ディスク版)」中の松平容保を生きる綾野さんの映像にも感じたものでした。
たくさんの人とともにつくりあげる役であっても、みんなに囲まれる重要な役であっても、本番、の声がかかるその瞬間、役を生きるのはいつも一人。現実の人生と同じように。
綾野さんを見て感じた“憧れ”、“過去の悲しみ”、“すごくうれしくて、ほっとして、そして切なかった”という気持ちは、言い換えれば“共感”、でした。命に限りあることを知る人間という生きものとしての共感こそが、綾野さんに惹かれる気持ちの根本にあると思えます。
有限を知ること
綾野さんの特質は、どこから来るのか。その成り立ちにさまざまな要素があるのは承知のうえで、その中の1つを挙げるとするなら、この、命に限りあることを知る、すなわち、人は必ず死ぬということを、つねに考え続けていること、ではないかと想像します。
「僕は挑むことは生きることと繋がっていると思うので、(中略)挑むこと、それは自分にとっての人生主題だから」「だって、なんで生まれて、なんで死ぬのか分からないわけですし、芝居は無限だけど生命は有限だから、それも悔しいわけです。だから、常に“自分は何者なんだ?”ってところに、自分から吹っかけていかないと」(「胎響」2013年)
インタビュー記事でも、「死」についてたびたび言及しています。それはかなり早い段階から現在にいたるまで続いています。
「あの……リアムさんにとって人とはなんなのか、生きることとはどういうことなのか、訊かせて頂けませんか」(カット2012年9月号)
この記事では、前後が編集されているからかもしれませんが、憧れの人との初対面の対談でびっくりするほど唐突な直球の質問。印象的です。
人が生きて死ぬとはどういうことか、宇宙とは何か、自分とは何者か…。誰もが物心ついたら考えることではあっても、人によって、日常の中でこの事実を意識する濃度には差があると思います。綾野剛という人は、このことをほとんど肌身離さず意識しているのではないかと思わされます。
世界を探求する哲学者や科学者と同じように、根源的な問題について、「なぜ」と問いかけ、挑み続けている。もし、日常の忙しさや楽しさに紛れて、それを忘れていることに気づいたら、また凝視するよう自分に強いてすらいるような…。
「俺、部屋に物を置けなくなってきてるんですよ、どんどん」「いや…今、蜷川さんが言ってた『幸せ』って言葉を使わせてもらうなら、表で仕事したりとか、いろんな作品に関わったりとか、限りなくたぶん僕は今『幸せ』、なんですよ。その反動が出ちゃうんです、部屋に。今、表でやってる『幸せ』って感じることの、『生きてるな』っていう感覚…どこかですっごい満たされるんです。でも、家に帰ると目が覚めるんですよ。なんか…なんにもなくて、すこーん…ってして。『また早く明日になって、早くあの稽古場行きたい、現場行きたい』って。…もしかしたらそれが活力になってるかもしれない」(「ボクらの時代」2015年8月24日放送)
この話を聞いたとき、部屋に“物がない”ではなく“物を置けなくなっていった”、というところに小さな引っかかりを覚えました。その部屋もまた、死を忘れないためにバランスをとっていた…というのは妄想が過ぎるでしょうか。
変わっていくこと
ただ、この部屋については考えが変化してきている、ともお話しされていました。
(蜷川「今でもなんにもないんだ?」)「ないです。…でも俺、そんなのがいいともあんまり思ってなくて。やっぱり旬の家行ったりすると、めちゃめちゃ落ち着くんですよ、物がいっぱいあって、漫画とかいろんなのあって。だから、思ったんですよ。俺、自分が帰りたいと思える家をつくらないとだめだなって。なんか思ったんですよ。それを踏まえてもっといい仕事をするべきなんじゃないかって」(「ボクらの時代」同)
もう、自分をそのような環境に置いてバランスをとらなくても、新しい自分(たとえば、それは、自分が築いた家族と共に在るような)になってもいいんじゃないか。役を生きるにあたってつねに変化、変化、を繰り返す綾野さんですが、素の綾野さんもまた、役やできごとや人々によって影響を受けて、ゆっくりと変わりつつあるのかもしれない…と予感させることば。
賞を取ったり、メジャーな作品に出たり、世間に知られるようになったり…新しいステージへと上っていく綾野さんの姿に、喜びを感じながらもその一方で、置いて行かれたような寂しい気持ちになることがあります。
それは、単に「有名になって遠くに行ってしまう」というようなことだけではなくて、もう彼は孤独や不安は乗り越えて強い人になってしまったんだろうか、という、置いて行かれる者の心細さであるような気がします。
わたしのような者の“共感”をもはや許さない(必要としない)存在になってしまったのだろうか、という思い。(そもそもその共感も一方的なものなのですが。)
元旦のあの報道に自分でも驚くほど動揺したのは、いま冷静に思い返せば、これと同じ心の動きでした。置いて行かれる、という焦り。
でも、その元旦報道について言えば、わたしはその後猛省していまして…。
「自分に還る状態を今後多くするには……プライベートを充実させるしかないでしょうね。すごく単純なことですけど。仕事をしっかりとしながらプライベートを充実させている人は、人間力が違う。自分をちゃんと生きている。だから、僕もプライベートを充実させたいなと思っております。」「昔は、人から言われる「プライベートをもっと充実させたほうがいいよ」という言葉を酷いもののように捉えていたところがあったんです。“仕事が充実してなかったらプライベートなんか充実するかよ! 仕事が充実してたら大事なものは仕事しかなくなるんだよ!”って。今はそうじゃなかったんだなと気付きました。」(パピルス2015年6月号)
ずっと前から、そのことについて考え抜いてきたことが伝わってきます。考え抜いたうえで、「プライベートを充実させる」という結論を得たのだから、なんの心配もいらなかったのに。(半年前の言葉をすっかり忘れて、あんなに動揺してしまった自分を殴りたくなりました…。もちろんファンなんだからそういうことがあったら何らかのショックを受けてもしょうがない…とも思いつつ。)
蜷川「人間って、あんまり幸せだと、穴を埋めるっていうことをしなくなる、冒険をしなくなるんじゃないかという恐怖心が自分の中にある。だから、いい俳優には不幸でいてほしい。欠落したものがあるから、それを仕事で埋めたり、他者との熱いコミュニケーションで埋めたりするということがあるから」「俳優に、幸せな家庭なんか築くなって言うのは、そういうふうにあってほしいからで、実際問題として家庭生活が幸せじゃいけないと思ってるわけではないんだけど」
小栗「前に舞台で『本当の自由を獲得するためには永遠の孤独を完成させるんだ』っていう台詞があって。よくそれを考えます」
蜷川「うんと幸せになって、うんと孤独になって。夜中苦しんで自分の部屋で『ああーっ』ていうのは、いいね。矛盾しているんだけど」
(「ボクらの時代」同)
蜷川さんのいう、家庭生活と芝居という2つの人生を抱えてもそれをやってのける新しい俳優になっていく綾野さんを見たい、と思います。
わたしたちも更新されていく
変わっていく綾野さんの幸せを祈ったり、時には変わらないでいてほしいと祈ったりしながら、わたしはこれからも勝手な期待や心配を続けるんだろうなあと思います。
悔しいけど、どんなに想像しても綾野さんと同じ風景はわたしには見えない。はるかに前を駆けて行き、わたしはいつも後から気づく。(撮影された作品が、数か月後、1年後になってから届くのと同じだなあ…。)
見えたつもりになっても、やっぱりつかめない。そんな綾野さんを後から追いかけるのみのわたしたちですが、でも、置いていかれているのではない、と思います。綾野さんにひっぱりあげられて、わたしたちもまた新しくなって、前進している。
“周囲にインスピレーションを与える”、”周囲を活性化させる”、ということも綾野さんについて言われることが多い、大きな特質です。もともとの資質が、「そこのみにて光輝く」、「新宿スワン」、「太陽2068」、「コウノドリ」の主演を経て、さらなる進化を遂げているようにも感じます。
追いかけるわたしたちもまたそのパワーを受け取っています。
「(土屋直史さん:)剛ちゃんは人を巻き込んで、そいつのスピードを加速度的にどぉんて上げる性質を持ってると俺は思っていて。だから一緒にいると…剛ちゃんがいるのといないのとで流れるスピードが自分の中で全然違うなと。もうね、細胞がすごい勢いで交代してます、分裂を繰り返してます」(「裸にしたい男」2012年11月27日放送)
前を駆けていくもの
ところで綾野さんは、役をつかんでいく過程について、役が前を行ってなかなか追いつけない、という感覚を持っていると話されていたことがあります。
「本当に、目で見えるぐらい、役が、自分が透き通って、役が前にいて、置いてかれるんですよ。どんどん独り歩きしていくんですよ。「用意、スタート」って始まった瞬間から、役がどんどん、どんどん前を歩いていくんですよ。それになるべくシンクロ、シンクロっていって、近づいて行って、一生懸命近づいていくんだけど、どんどん離れていくっていう感覚なんですよ」(「情熱大陸」2013年7月7日放送)
すでに役のあるべき姿が厳然と存在している。綾野さんは私たちの前を走っているけれど、綾野さんの前にも追いつきがたい役のイデアが駆けている。
そして、駆けているのは役だけではない。
Twitter上で投げかけられた、綾野剛さんはなぜ魅力的な方なのでしょうか、という問いに対して伊勢谷友介さんは、
「成りたい自分像があるからだよ!」(2015年5月7日)
と答えていました。
前を駆けていく、なりたい自分の姿。それをずっと追いかけて彼はここまで来たのかもしれない……そんなことを、想像しました。
なりたい自分になることができる、という希望
自分のコンプレックスについて誰よりも自分で見つめているけれど、自分の理想とするあり方があって、周囲に自分がそう見えるようにふるまう。それは決して、無理して仮面をかぶっているというのではなくて、自分が変われることを信じるということ。変化を信じることができる、というのが生きていく希望だと思います。
そしてまた、その姿を好きになるということは、うわべだけの虚像を好きになるのとは違うことで、むしろ「こうなりたい、こうありたい」という姿にこそその人の本質がある、と希望をこめて信じます。
だから、たとえ素の綾野さんがどんな人であろうと、わたしが知らないところで何があろうと、それは侵されることはない。…これは予防線を張りすぎかもしれない。たぶんわたしは、今や、そんな予防線張るまでもなく綾野さんまるごとに対して信頼を寄せているのですが、とはいえ、すべてを知っているわけではないのに「好きです!信じてます!」と安易に言うのもどこかおかしなことのように思えて。
特別なタフさと知性
この、綾野さんの”なりたい姿”は、遠く輝く希望であると同時に、いったいどれほど強く彼を律しているのだろう…と時に慄然とします。
実のところ、ファンになったばかりの頃ぐらいは、精神を病んだり覚醒剤に手を出して転落したりしてしまわないかな…とありがちなパターンを想像したことがあります(ひどい話ですね…すみません)。詩人の言葉を持ち、自分の理想を追い、生と死に対峙し続けたらどうなるか、ステレオタイプな崩壊が安易に浮かんでしまいます。
でも、しだいに、それは杞憂だなと思うようになりました。
最後には死があるということにずっと向き合いながら日常を生きるのは難しいことです。精神のバランスを崩す危険もあります。でも、綾野さんはそうならずに、まっとうに死を見つめ続けている。それを支えているタフさと知性の存在を感じます。
「生きよう」と決めたきっかけがあった、と以前語られています。
「20代前半ではなかった10代ではなかったようなことが、たくさん起きるんですね、生きてると。昨日まで身近にいた人が亡くなったりだとか。そういうことの繰り返しだったような気がしますね。…もういないんだって思ったときに、自分がその人に対して、どのように生きていたのかなとか。もっと自分のこと生きてみようと思ったんですよね。いつ死ぬかわからないですし。死っていうのは自分から向かっていくものではないし。ただ向かってくるものでもありますから。だから、ちゃんと自分を生きてみようと思ったんですよね。それがやっぱり大きいきっかけだったと思います。友人の死だとか、あと、うん…、ありとあらゆることだと思うんですけど」(「あさイチ プレミアムトーク」2014年4月18日放送)
大きなきっかけがたしかにあったことがうかがわれます。でも、そのできごとの以前から、綾野さんには特別なタフさがあるのではないか、と思われてなりません。
そのタフさと知性はどこから来るのか…。勝手に断定するのも失礼な話ですが、わたしには、もうこれは、生まれ持っての綾野さんの特質だとしか思えない。しごくまっとうな”なりたい姿”を掲げる知性と、それに向かって走り続けるタフさ。物語の予感や、悲しみ、孤独、厳しさ、やさしさといった、数々の特質をすべて包む、最大の特質は、これなのではないかとすら思います。もちろん綾野さんが努力の人だということは知っていますが、同じような経験をしても同じような環境で育っても、みなが同じようにできるわけではありません。
いつか来るその時
綾野さんのインタビューでは、役者が生業だ、役者じゃないとだめなんだ、という発言もある一方で、不思議なことに、役者をやめるとき、という話題もまた頻繁に出ています。やめるまでいかなくとも、いまのペースで走り続けるのはここ数年のことで、そこから先はまた違う形になると考えている。
「必然的に、年も経ったりしていけば必ず下山していきますから、人は」(「サワコの朝」2015年10月10日放送)
番組では阿川佐和子さんからすかさず「考えすぎだよ、まだ33なんだから」とはたかれて微笑ましい展開になっていましたが。綾野さんは、とても冷静です。
本人が意図して変える。
他人の影響で意図せず変わる。
時間の経過で自然に変わる。
病い。老い。死…
どんなことが原因になるかわからないけれど、今見ているような綾野さんを見ることができなくなる日はいつか来る。ずっと応援していくからこそ、それは1つの覚悟としてどこかで持っておきたい…と思ってしまいます。それって、家族や身近な人に対して思うことと同じだし、もっと言えば自分自身に対して思うことと同じです。自分自身を失う日も必ず来るわけだから。
綾野さんが俳優としてデビューして13年。そのうちわたしがリアルタイムで観ていたのは3年あまり。すでに3年、綾野さんを目の当たりにすることができた、同時代に生きることができた。今までだけでもすでに十分のものを受け取っているのだ、と思います。
もちろん、すぐにどうこう、なんて思っているわけではないし、それこそ先を見つめている綾野さんに対して失礼ともいえるこんなことは書くべきではないのかもしれない。わたしが考えているようなことは、綾野さんもとっくに考えているだろうとも思います。
誰でもない誰かとして
でも、こんなことばもありました。
「石田さんへの恩返しがあるならば、それは「生きているということ」だと思います。とても、とても、単純な意味で。いい芝居をするだとか、賞をいただくということよりも、監督が生きている間、ずっと僕が生きているところを見せる。監督より先には死なない。見てもらうために生き続ける。それしかないのかなと。」(THE PAGE 2015年5月30日)
先に死なない、生き続ける。これってひとつの最大の愛の形かもしれません。
これにならって、というわけではありませんが、わたしも、長生きして作品を受け取り続けたいなあ…と切実に思います。
「守るべきものって必要だと思うんですが、それが誰かと言えば、自分の身近にいる人たちなんです。もっと言ったら、誰でもない誰かだったりもするんです」「誰でもない誰かのために立ちつづけたい。」(アクチュール2015年3月号)
誰かのために、というのは、幸せな生き方のようでもあり、苦しい生き方のようでもあり。いつか解放される日が来るのだろうか…と思う気持ちと、いつまでも前を駆けていてほしいと願う気持と。相反する感情を飲み込みながら、これからも応援していたい。
「だから、全部を巻き込んで、自分が見たことのない世界へ行きたいし、そう思えている人達と一緒に見たいですし。」(プラスアクト2015年5月号)
綾野さん自身が”追いかけている人”だからこそ、綾野さんを追いかけているわたしたちにも一種の共感があるのではないか……これはほとんど妄想ですが。この限りある命の中で、同じ時間を生きている。
誰でもない誰かは、そんな共感で結ばれる関係を夢想します。
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